と金
カチン、と、鈍く、薄い紙越しに、木と木のぶつかり合う音がした。それが、机の脚のパイプに伝わ
って、かすかに教室に響き渡る。彼の指から離れた駒が、ほんの少ししてから、たわんだ紙の盤上でずるりと動いた。紙の将棋盤はいつも八つ折りにして畳んでいるから、広げてもどうしても平らにならない。駒は軽くて重しにもならないから、不安定だ。整然としない40枚の並びをじっと見つめて、いつかテレビで見たプロ棋士さんみたいに、神妙な顔で考えるフリをしてみる。でも結局どうすればいいのかわからなかったので、右手の人差し指でおそるおそる、角を押さえながらつつつ、と、斜めに動かしてみた。薄暗い放課後の教室に、駒と紙のこすれる音が小さく、小さく響く。私の指が駒から離れると同時に、カチン、と鈍い音が響いた。はやいなあ。心の中でつぶやきながら、今度は金に指を伸ばそうとした時、山本くんが突然口を開いた。
「あのさあ」
将棋盤ばかり見ていたので、突然人の声がしたことにびっくりして肩が震えた。しかも、彼の声はすこぶる不機嫌そうだった。
「詰んでるんだけど」
「つんでるって何?」
「負けたってこと」
「山本くんが?」
「お前だよ」
山本くんは大きくため息をついた。校庭から響いてくる野球部の人たちのかけ声とそれが混じり合った。窓から指す西日はすっかりオレンジ色になっている。彼の白い肌がそれに当たって染まっている。痩せ形で背は少し低めで、染めていない黒い髪はショートカットで、黒縁眼鏡、学ランは校則厳守で着こなして、顎のすぐ下の窮屈そうなフックまでしっかり留めている。昼休みにたまたま、1年E組の教室の窓際で一人本を読んでいる姿を見たとき、絶対頭のいい人だ、と思った。頭がいいから将棋ができるに違いない。私は放課後、まだ騒がしいE組の教室に飛び込んで、彼に駆け寄った。
「ねえ、将棋できる?」
言いながら私は、彼の机に、家から持ってきた将棋の駒をぱらぱらぱらとぶちまけた。彼はぎょっとしていた。その表情を見て、あ、そういえば、名前も知らない人にこんなことを聞くのは失礼なのかもしれない、と思って、私は机の上にまだ広げられていた数学の教科書に書いてあった山本隆という名前を確認して、それから、もう一度聞いた。
「山本くんって、将棋できる?」
「いや……え?」
「できないの?」
「ていうかあんた、誰?」
「坂下なつき。山本くん、将棋できるの?」
「いや……できなくもないけど、何なの? 部活の勧誘?」
「やった!」
私は飛び跳ねながら、もう帰ってしまった誰かの椅子を持ってきて、山本くんの机の隣において、紙の将棋盤を広げた。
「やろう! 将棋やろう!」
山本くんははじめ、周囲をきょろきょろ見回して、居心地悪そうに、嫌だよ、と言っていたのだが、しつこく、しつこくくい下がった末、とても嫌そうに、一局だけ、と言ってくれた。
そして、今に至る。
「すごい! やっぱり山本くんは頭がいいんだね! 3連勝だね! 強い!」
「強いとかじゃねーよ、あほか、お前なんなんだよ、将棋できるわけじゃねーのかよ、やったことあんのか? 弱いってレベルじゃねーだろ!」
興奮する私に負けじと強い口調で彼は言い返す。それからはああ、とまた大きくため息をついてから、鞄を手に立ち上がった。
「バカバカしい、帰るわ」
「待って! お願い! あともう一回だけ!」
「何回やっても勝てるわけねーから。諦めろよ。やりたいなら勉強してこいよ」
「あのね、勝てなくていいからね、この「ほ」って子が「と」になるまでやらせて! お願い」
「はあああ?」
あからさまに不機嫌な顔で、彼は私を見下ろす。それから吐き捨てるように言った。
「お前、バカなの?」
「うん、よく言われる」
そう返しながら、私は紙の上に並べられた歩の駒たちに目をやった。つられるようにして、山本くんも視線をそっちに移す。それから再び、今度は多少静かな口調で、教えてくれた。
「てか、これは、ほ、じゃないし、と、でもないから」
「え? え? そうなの?!」
「それぐらいは勉強してから来いよな」
吐き捨てるようにそういうと、彼は今度こそ教室を出ていこうとした。
「わかった! 勉強してくるから、明日もまた対戦しようね!」
背中に向かってそう叫んだけど、返事はなかった。私は乱れた駒たちを黙って眺める。
***
記憶はいつも、ぱらぱらぱら、と崩れる山から始まる。
お母さんにもお姉ちゃんにも、バカだ、バカだ、と言われて来たけど、確かに、バカなんだろうなあと思う。周りの子は3歳や4歳ぐらいの記憶からあるみたいなのに、私の一番古い記憶は6歳ぐらいの頃のもので、しかも細部はろくに思い出せない。
その日はたぶん春休みか夏休みだったんだと思う。私はお姉ちゃんにつれられて児童館に来ていた。参加料の200円を握り締めて、理科の実験の教室か何かに参加した。私はバカで、お休みの日にお母さんがいないと留守番ができないと思われていたから、お姉ちゃんとよく、こういうところに行かされた。保育園代わりだ。お姉ちゃんは私より5つ年上で、十分大きかったから、すごくうんざりしていたようだった。
教室の帰りに、玄関で靴を履き替えようとしていた私たちに、突然、若いお兄さんが話しかけてきた。ボランティアで児童館の手伝いに来ていた大学生らしい。
「ねえ、君たち、将棋をやってみないかな?」
児童館でやっているこども将棋クラブの勧誘だった。お姉ちゃんは、たぶんだけど、家に帰っても私の面倒をみなきゃいけないのはつまらないし、どうせならここでもう少し時間をつぶそうと思ったんだと思う。お姉ちゃんは私と違って頭がいいから、将棋のルールとか、打ち方とかを知っていたみたいで、誘われるままにプレイルームに入っていって、すぐに、同じくらいの歳の女の子の向かい側に座らされた。私はもちろん、将棋なんてできるわけがなかったから、プレイルームの隅っこの椅子に、ぼおっと座っていた。細かいことは覚えていないけど、プレイルームにはパイプ机が7、8ぐらいは並べてあって、そこに将棋盤が並べてあって、それを挟んで、小さい子は小学1年生から、大きい子は中学生ぐらいまで、向かい合って座っていた。部屋の隅っこには何人か保護者の人もいたみたいだけど、私みたいな将棋を指さない子供は、他にはいなかった。手持ち無沙汰になった私に気を使ってくれたんだろう。さっき声をかけてきたお兄さんが、将棋盤と、駒の入った木箱を持って、私の元にやってきた。
「お姉ちゃん待ってる間、一緒に山崩ししようか」
何に誘われているのかよくわからなかったので、私は黙ってお兄さんの顔を見つめてにこにこした。バカなんだからせめて愛想良くしなさいっていうのが、お母さんの口癖だった。お兄さんもにこにこして、それから、将棋盤の上で、駒の入った木箱をひっくり返した。パン、と音がして、それから、慎重に木箱を真上に引き上げる。私は目を見張った。木で出来た大小さまざまな五角形のピースが、山になって台の上にそびえ立っていた。じっと見ている私の前で、お兄さんが人差し指でそっと、一つ、山の下の方にある、香車の駒をそっと、ゆっくりと、押さえて、手前に引いていった。私はなぜだかそれが香車であったのを覚えている。当時は漢字も読めず、将棋の駒を見るのも初めてだったのに、あの、お兄さんの指の触れた、中ぐらいの駒の上の、香車の二文字だけは妙にはっきりと思い出せるのだ。山はぴくりとも動かなかった。それから、お兄さんは駒から目を離して、私の顔を見てまたにこりと笑った。同じようにしてごらん、と言われて、私は山に視線を戻す。不規則に積み重なっている駒は、どれもきれいな五角形のフォルムに、かっこいい文字が書かれていて、私はなんだか胸がときめいていた。どれがいいかな、と、私はじっくりじっくり時間をかけて山を見つめていた。複雑な形をした読めない漢字ばっかりの中に、私は唯一、読める赤い文字を見つけた。思わずそれに指を伸ばす。ぱらぱらぱら、と音がして山が激しく崩れた。てっぺんにあったそれを押さえつける。指に他の駒が覆い被さる。駒の表面は、私の体温よりほんの少しだけひんやりしていた。雪崩を起こした山のそこに沈んだ駒が、将棋盤とぶつかって、ぱちん、と乾いた音を鳴らした。
「ああ、ああ、崩れちゃった」
まったくもってルールを理解する気のない様子の私に、お兄さんは困惑して、何度か山崩しのルールを教えようとしたが、結局だめだ