林檎の彼女 ~私が彼女と付き合うまで~
大学構内を長い髪をなびかせて颯爽と歩く彼女は凛々しく、そして美しか
った。
思えば、私は彼女を初めて見た時に、彼女の虜になっていたのだろう。
恋する私は彼女の右手にいつも握られている赤い果物を気にすることがなかった。私は穏やかな気持ちでこう思ったものだ。林檎が好きなお嬢さんなのだな、と。
私は大学に入学した当初、いよいよこれから私は華のキャンパスライフを送り、友との熱い抱擁や恋人との胸焦がす夜を、それはごく当然のごとく体験してゆくのだろうと思った。
しかし、入学後の様々な煩悶とした事務的手続きを経て、心は緩やかに萎んでいった。このまま、何も経験せず終わるのだろうかと苦しみが私の中に生まれた。
そんな時、私は大学構内で件の彼女を見かけたのである。林檎の彼女である。
今となっては彼女は病的なほど林檎を愛していることを知っているが、当時は初対面であるから何も知らない。例えば彼女が決して林檎を手放すこと無く、気が向けば、左手にナイフを握り、しゃりしゃりと音を立ててリンゴの皮をむき、思うままに口に放り込む、というような一面があることを知らないし、彼女が恋人が林檎病という伝染病にかかれば、ナイフを持ちだし、私は林檎と恋人のハイブリットした物を食べたい、と襲いかかるとなど、露とも知らない。
だから私は彼女に恋したし、彼女の透き通るような白い肌と、それこそ林檎のような真っ赤な唇に心を躍らせた。
私は少しでも彼女に近づこうと果物愛好サークルに入った。そこは果物と名のつくものにフェチズム的愛を傾ける怪しげな団体であるのだが、私はよく内情を知らず、ただ、彼女が在籍しているという情報のみで門戸を叩いた。
果物愛好サークルでの最初の課題は、ミカンを皮から搾り出る汁に刹那的快楽を感じることだった。至極ノーマルである私にはこの課題をクリアすることは地獄のように苦しかったが、ミカンの汁の向こうに彼女の笑顔があると思えば、乗り切ることができた。部長はうざったい人間で、「ミカンの汁に何を感じたのかね? 言ってみたまえ、さあ、我慢せずにぶちまけてしまいたまえ!」と耳元で唾を飛ばすので厄介であった。
そういう日々を送る中で、どうやら彼女の周りには恋のライバルがいるらしいことが分かった。
伊達眼鏡をかけた超名門高校出身のシンジ、野球部の筋肉自慢のタケル、文芸部の王子様ジン、の三人である。
果物愛好サークルの部室には彼らが足繁く通い、彼女に熱い視線やら熱い言葉やら熱い手紙を投げかけていた。
「ここは果物に熱き情熱をかける者の聖地であるので、お引き取り願いたい」
私はぷりぷりと怒って、彼らに言った。
「僕は林檎の彼女に会いたいけれど、このサークルには入りたくないんだよなあ。ここに入るなら、死んだ方がいい」
辛辣な言葉を伊達眼鏡シンジが放つ。
「ならば、何故、このサークルに入っている女性を狙うのかね? 矛盾していないかね?」
私はシンジを睨み付ける。
「いいや、矛盾していないよ。このサークルの価値より彼女の価値の方が上なんだ。価値が下の物は上の物に影響を及ぼさないよ」
私は底辺高校出身である。シンジの言葉は訳が分からぬ。
「屁理屈である!」
私は怒鳴って、シンジを追い返した。彼は虫けらを見るような目つきで私を見た。
「おい、ひょろガリ。彼女はどこだい?」
別の日には野球部のタケルの相手をした。タケルは筋肉馬鹿である。標準体形の私をひょろガリ扱いである。
「知らんね。帰りたまえ」
「殴られたいのか?」
「林檎の木の剪定に向かいました」
私は青い顔をしてぶるぶると震えて答える。私は暴力が嫌いである。
「それはどこにある?」
「確か、ここから二山越えた先にありますが、電車もバスも通っておらず、歩いて行かねばなりません。こちらが地図となっております」
私は鉛筆で書かれた地図を渡した。タケルは地図を奪い取ると、しげしげと眺めた。
「なるほど。俺の足では三日で行けるな。もう用はない。ひょろガリ」
そう言うとタケルは私を突き飛ばし、駆けていった。私はもんどりをうってひっくり返る。おかしい。私は標準体形であるはずなのに。
いてて、と腰に手を当てながら、にやりと瞳を鈍く光らせた。
彼女が林檎の木の剪定に行ったなど、嘘である。馬鹿な男め。彼女は林檎パイを作るために家に帰っておるわ。
「儂は彼女のことを愛しておる。文に著わしたのだが、君、渡してもらえんかのう」
文芸部のジンはイケメンである。古臭い喋り方をするが、気の良い奴だ。私は彼を裏切りたくない。恋のライバルであるが、彼を応援したい。
「分かった」
私は彼の手紙を恭しく受け取る。
「恩に着る。立派な青年じゃ」
ジンが立ち去ると、私はこの手紙を彼女に必ず届けるのだ、と強く誓った、が手元が緩んで、手紙はゴミ箱の中へと放り込まれた。これはいかん。すぐに拾わねば、と思ったが、ゴミ箱の中は不潔である。その中に落ちたものを彼女に渡すのは忍びない。しかし、ジンを裏切るのもまた、私の人間としての自尊心を傷つける。
私はごみ箱から手紙をさっと拾い上げた。そして、石鹸をつけて、手紙を洗う。
水に濡れてふやける手紙を見て、私は、まだこの手紙は汚れているような気がしてならなかった。決して他意は無い。純粋に私は綺麗好きなのである。であるから、私はせっせと手紙を洗う。
不思議である。手元には濡れた紙の断片がちりぢりとなって残るばかり。これでは彼女に手紙を渡せない。私は悔しくて、声を殺して泣いてみた。しかし、涙は出なかった。
そんな日々を送っているある日である。
彼女が微笑んで宣言した。
「私は彼氏が欲しいわ」
その声に私も恋のライバルも興奮せざるをえなかった。
「僕と付き合えば、君はエリートになれる可能性が高い。僕は司法試験を目指しているからね」
シンジが自信ありげに言った。
彼女は眉間にしわを寄せた。
「嘘。だって、この大学から司法試験に合格? 無理でしょ。ここ、Fランクの大学よ。あなた、大学受験に壮絶に失敗しているじゃない」
シンジは泣き崩れ、君がそんな女だったなんて、と吐き捨て、去って行った。
「おっぱいちゃん、俺と付き合えば、どんな奴だって殴ってやるよ」
タケルが力こぶを作ってみせる。
彼女はため息をついて首を振った。
「あのね、その呼び方やめて。それに人を殴ったらいけないでしょ? あなたリングの上のボクサーじゃないでしょ。考えるという行為があることを知って」
タケルが怒り狂い、去っていったシンジに追いつくと、八つ当たりで彼の背中を蹴りつけた。シンジは痛みに苦しみつつ、伊達眼鏡をくいっとあげた。それに意味があるとは、私には思えない。
「なあ、儂の手紙を読んでくれたやろ? 儂は君の事が好きぃて好きぃて、しゃあないんや」
ジンが緊張した面持ちで、彼女に告白した。
彼女は不思議な顔で彼を見た。
「っていうか、あなた、だれ? 初めて会うよね? 手紙って何?」
ジンは驚いた表情を浮かべた後、何かを察した表情になり、私を睨み付けた。
私は、これはまずい、と思った。
「こいつ、きっと、ストーカーって奴ですよ! 手紙ってなんです? 怪しいですよね! 喋り方もなんか不審者だし!」
私は恋のライバルとしてあるまじき、いや、人間として最低の言葉を放った。
「そうね。あなた、もう半径五メートルには近づかないで。私の林檎が腐るわ」
彼女は冷酷に言い放った。
ジンはその事がよほどショックだったのだろう。もう私の方を見ず、肩を落として去っていった。
しばらく、気まずい雰囲気が私の中でだけ漂った。
「まったく、なんなのかしらね? そう思わない?」
ん? チャンスかもしれない。ライバルは去った。今が告白時かもしれない。私の胸がドキドキとしてきた。
「ん? どうしたの?」
さあ、言おう。どんなかっこいい台詞を言おう。
陸地に生きるすべての生物があなたに恋をするだろう。いいや、海に生きる者たちもあなたに恋をするだろう。けれど、誰よりもあなたの瞳に囚われているのは、あなたの目の前にいる、この私だ。――よし、これでいこう!
「りぃっ!」
やべ、噛んだ!
「え、なに?」
「り、り……」
迷った。今から言ってもかっこ悪い。その時、彼女の右手に目がいった。赤い果物、林檎がある。
「り……りんごが、僕も好きである。私と付き合ってください」
彼女が頬を染めた。
「……嬉しい。あなたなら、分かってくれると思っていたわ」
おやおや、なんだ、この展開は?
「他の男は何だったんだろうね。私はただ、林檎が好きだと言ってほしかったの。私の愛する林檎を、同じように好きだと言ってくれる相手であって欲しかったの」
彼女はそう言って、空いている左手で僕の頬を撫でた。
「生涯、愛を育みましょう」
こうして、私は正式に林檎の彼女の恋人になったのである。
了