菫色の毒
十二時間前の私は、浅い眠りから目を覚ましたばかりだ
った。
付き合って初めての彼の誕生日は、天気のいい土曜日で。前日まで仕事に追われてバタバタしていた私は、お昼少し前に目を覚ました。
少し寝坊したかなと思ったけれど、このくらいは想定内だ。前々から金曜日は会社の先輩と飲み会の予定だったから、今日のデートは夕方ごろに待ち合わせにしていた。
いつも私のために色々考えてくれる彼だから「今日くらいは」と私が提案したデートプラン。
喜んでくれるといいんだけどな。 少しのドキドキと、ワクワクで。私の胸は早くもはちきれそうだった。
八時間前の私は、鏡の前に立っていた。
「これ、やっぱり変じゃないかなぁ……。大丈夫かなぁ」
今日のために新調したワンピース。すみれ色をした、裾がふんわりと広がったシンプルな一着。
『ゆかりなら絶対これが似合うよ!』
脳裏に浮かぶ、親友のガッツポーズ。三時間かけて新宿を歩き回って、お気に入りの一着を見つけたのだけれど。それでもいざ着てみると自信がない。
彼は、私を可愛いと言ってくれるだろうか。愛しいと思ってくれるだろうか。
早く逢いたいなぁ。
あと少しで逢えるのに、考えるのはそればかりだ。
四時間前の私は、待ち合わせ場所に向かう電車の中にいた。
いつもだったら電車の中ではスマホをいじるか、本を読むかのどちらかだけど、今日はそわそわして落ち着かなくてキョロキョロとあたりを見回してばかりだ。
はたから見たら私は、挙動不審者に見えるんだろうな。
頭の隅でうっすらそんなことを考えたけど、そんなのに構ってられない。今私の頭のほとんどを占めているのは、今日のデートの段取りだ。
いつも私を喜ばせてくれる彼には敵わないけど。でも。少しでも楽しく過ごしてくれたら嬉しい。
二時間前の私は、レストランでのディナーを終えて彼とホテルに移動する途中だった。
「ゆかりのおすすめ、すごくいいお店だったね。料理も美味しかったし、雰囲気も素敵だった」
「本当に? ハルにそう言ってもらえて嬉しい。お誕生日だったからステキなお祝いがしたくて」
斜め下から見上げた彼の表情はいつも通り柔らかくて優しくて。美味しい料理で満たされたお腹の重みも手伝ってとても幸せな気分だった。
「それで? 今日泊まるのはどんなホテル?」
「ふふふ。それは着いてからのお楽しみ」
ああ、早くその腕の中に飛び込みたい。
一時間前の私は、ドキドキしながらシャワーを浴びていた。
ベッドルームでは、先にシャワーを浴びた彼がバスローブを着て待っている。
そう思うだけで、胸がドキドキして、頭が真っ白になって、どうにかなってしまいそうだ。
今日は少し気合を入れて、ワンピースと一緒に下着も新調したのだ。レースのたくさん付いた、可愛いブラジャーとショーツ
ワンピース以上に、緊張する。彼はどんな反応をするんだろう。
今、私は、ダブルベッドの上で彼から別れ話を聞いていた。
「別に好きな子が出来て」
「ずっと言えなくて」
「こんなところで言うことになって本当にごめん」
うなだれた彼の頭ばかりをぼんやり眺めながら、本当に悲しいときは涙も出ないんだなぁと気づいた。
ベッドサイドにはまだ栓も空いてないシャンパンボトルが、沢山の冷や汗をかきながら所在無げに立っていた。
うん、君は悪くないよ。ごめんね、こんな時にシャンパンなんて頼んじゃって。
「ごめん、ゆかり。俺が全部悪いんだ」
ずるいなぁ。そんな顔まで私好みだ。
世界一ひどい振られ方をされていると言うのに私はまだ、彼のことを諦めきれない。
五分後の私は、きっと彼にこう強請るんだろう。
『別れる前に、私を抱いて』
一番最後の、私のわがまま。それが朝には、自分を傷つける思い出になると知っていても。
『ねぇ、お願い』
ゆるゆると体を痺れさせる菫の毒をあえて飲み干すように、私は口を開くのだ。