第56回 てきすとぽい杯
 1 «〔 作品2 〕» 3  15 
いつかの夏の人の夢
投稿時刻 : 2020.04.18 23:23
字数 : 825
5
投票しない
いつかの夏の人の夢
犬子蓮木


「また来年に来るよ」とタビが言た。電車の中から。
「約束だよ」とマチは言た。ホームの上から、鳥のような澄んだ声。「また僕に会いに来てくれるて」
 電車の扉がしまる。タビが頷いてから微笑んで手をふた。マチはうつむいて、さして長くはない髪の中に目を伏せた。
 タビはマチの住むこの街から去た。
 それが、夏の終わりのこと。
 あざやかだた季節から日常に戻り、あの喧騒が嘘だたかのように大人しくなた海岸沿いを歩いて、マチは学校へと通う。
 マチは、前と変わらない日々を過ごしていた。友人と遊び、勉強して、家族と過ごし、食べたり寝たり。秋も冬も。別になにかが悪いわけではない。前と一緒だ。
 ただ、ひとつのことをやめていた。
 だから友人からたまに言われる。
「なにかあたの?」
「いや、別に」マチは言た。「そういう気分」
「ふーん」友人が目を細める。「変なの」
 
 自宅。マチは教科書とノートを開いて机に向かている。
 ノートの端にいたずら書き。黒い線を何本も引く。その横に1年後と文字を書き込んで、ため息をはいた。
 斜めを上をぼんやりと見る。手をあげて頭をかいた。

 春が来て、マチは別の学校に通う。友人は変わらない。でも、いくらか増えた。服装は毎日同じものを着るようになた。
 変わたことが多いけれど、夏に近づいていくことは変わらない。
 GWが過ぎて、梅雨があり、それからテストがあて、だんだんと暑くなてくる。週末の海岸には気の早い遊び人たちがあふれはじめていた。
 マチは鏡を見る。
 鏡には、1年前と変わたマチの姿が映ていた。
 切るのをやめた髪の毛は背中の上まで伸びていて、まるで女の子のようだた。
 大きく伸びた背丈とがしりとした体格は、明らかに男性のものだた。
 鏡の中に映る、マチの顔が歪んだ。漏れた笑い声は、石のようだた。目の端に涙が浮かぶ。

 夏。
 マチは駅へ行かずに、髪を切た。離された黒い線たちが床に散らばる。
 タビが戻てきたのかは、わからない。
 会いに行かなかた。                       <了>
← 前の作品へ
次の作品へ →
5 投票しない