第18回 文藝マガジン文戯杯「Junction」
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恵理子の部屋
投稿時刻 : 2022.02.14 23:34
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恵理子の部屋
MOJO


 恵理子は無口な少女だた。
 私はかつて、北関東のある町で学習塾の講師をしていたことがあり、恵理子は私が受け持たクラスの生徒だた。
 毎週二回、狭い教室に長机をコの字に配置し、ホワイトボードを背にして立つと、七人の少女たち目が一斉に私に注がれた。
 私は多感な少女たちの良き理解者ではなかた。最も反抗的な少女の教科書やノートを窓から放り投げ、二度と来るなと怒鳴りつけたし、その少女の母親が押しかけてきて塾長と同伴で授業を参観されても怯む気持ちにはならなかた。つまり、私は若く気力も充実していたわけだ。しかし、反抗的な少女はそのクラスのリーダー的な存在だたから、その日以来、少女たちの私を見る目は批判的なものになていた。
 そういうなかで、恵理子は皆に同調するでもなく、かといて私の味方である、という態度も示さなかた。ただ一度、少女たちの私に対する糾弾が始まりかけたとき、机に突伏し、声をあげて泣いたことがあた。いつもは大人しい恵理子の、激しい感情の迸りに、私より少女たちが毒気を抜かれたようだた。以降、クラスの雰囲気は徐々に元に戻り、彼女たちはそれぞれの志望校を受験し、ある者は合格し、またある者は本意でない高校に進学した。
 恵理子はその地区で最も有力な進学校に合格し、私は外資系損害保険会社の契約社員の職を得、彼女達の進学と共に講師の職を辞した。
 最後の授業の日、恵理子は私に可愛らしい文面の手紙をくれた。それは私を和んだ心持にさせた。そして私は、縁があれば、再会する事もある旨の返事を書き、ポストに投函した。

 外資系損保会社での私の業務は、飛び込みセールスと、付近の幼稚園や老人クラブを巡回訪問することだた。日常の中に愉しみを見出しがたい退屈な毎日だたが、私は大きな問題も起こさずに仕事をこなした。
 何年かが過ぎ、勤務する部署を選択できる機会が訪れた。私は旅行関係の保険を扱う部署を希望し、その願いは受け入れられた。
 顧客である旅行代理店に通う毎日が続いた。日々彼等と接するうち、彼等の業界の、添乗員、という職は、常に海外を旅する機会に恵まれることを知た。 
 損害保険会社の業績は安定していた。しかし契約社員である私の立場が安定しているわけではなかた。
 ある日、私は新聞の求人欄で、海外旅行添乗員募集、の広告を見つけた。応募してみると、筆記試験と面接の日時が記された封書が届いた。指定された日時にその場所へ行てみると、私の予想を遥かに越えた人数が集まていた。これでは受からないな、と諦める気分で筆記試験と外国人との英語での面接に臨んだ。肩に力が入らなかたことが幸いしたのか、私は採用された。

 ある年の夏、私は長い休みを持て余す教員たちの、シルクロードの遺跡群を巡るツアーに同行した。
 敦煌という街に数日間滞在し、その日はバスで万里の長城の最西端まで足を伸ばした。
 バスが目的地に着き、集合時間を決めて自由行動とした。といても、砂漠の大地には売店一つあるわけではなかた。バスが停また処からそう遠くない位置に、乾ききた巨大なレンガの積み残しのような遺跡が陽炎にゆれていた。私はエアコンの効いたバスを降りずにいた。
 あんなものを観るために、このクソ暑い中、よくここまで来たものだ。
 そんな感慨に耽ていると、扉をノクする音で我に返た。扉を開けると、若い女のバクパカーが首を傾げて立ていた。
「添乗員さん、敦煌まで戻るなら乗せて欲しんですけど。定期便はあと二時間待たないと来ないんです」
 バクパカーたちは、ツアーバスをヒチハイクして旅費を節約する。私は彼らを疎ましく感じ、頼まれても決して同乗させなかたが、それは彼らを羨む気持ちと背中合わせのものともいえた。
「お客さんからクレームがくるから、乗せるわけにはいかないんですよ」
「そこをなんとか、お願いしますよ……先生」
「!」
「先生でし?」
……恵理子か?」
「先生、少し太たね。添乗員なんて楽なことやてるからじない?」
……
「先生、まさか断らないでし?」
 恵理子は笑顔のままで目に力を込め、右手で私のTシツの脇腹あたりを掴んでいる。私は団長格の教員に、体調がすぐれないバクパカーを同乗させたい、と頼みこんだ。
 バスは歩き疲れた教員たちと、私と恵理子を乗せて砂漠に伸びる一本道を延々と走た。車窓からの景色は、どこまで行ても岩と砂だけの荒涼としたものだた。地平線がオレンジ色に染まり、太陽がゆくり沈みだすと、教員たちは鼾をかきはじめ、私は隣りに座る恵理子と小声で話をした。恵理子はかつてとは違い快活だた。     
「先生、保険屋さんになたんじなかけ?」
「あれはつまらないから辞めたんだ」
「添乗員て一年のほとんどがホテル暮らしなんだてね」
「そうさ、おれみたいな売れ子になると、年間で自宅にいるのは百日程度なんだぜ」
「そうみたいね、わたし、あちこちでツアーバスに乗せてもらうのよ」
「おれ、バクパカーはいつも断るんだけどな。おまえ、いま大学生か?」
「そう、でも休学中なの」
「なんでだ?」
「だて、旅から旅で忙しいんだもの」
「それで休学なのか?」
「そうよ。見聞を広めるの」
「何を見た?」
「今回は、野生のラクダを沢山」
「ラクダか。別にいいけどな。……しかし、田舎の無口な少女が別嬪さんになたもんだな」
「うふふ、ありがとう先生、でも、いまどきの女の子に、別嬪さんなんて言わない方がいいと思う」
「やぱりか、小さくボケたつもりなんだけどな」
「そういう小ボケは、小娘には受けないのよ」
 バスがホテルに着いても、ロビーのソフに座り、私と恵理子は暫らく話しこんだ。連絡先を交換し、再会を約束してバクパカーが集まる小さな宿へ恵理子を送る途中、ホテルの部屋で抱き合う私と恵理子を想像してみたが、私は恵理子を誘うことは出来なかた。
 
 それから一年ほど経て、私はまたしても恵理子と遇会した。
 ある証券会社の、研修旅行に同行したときのことである。行き先はアメリカだた。
 研修旅行といても、実際は営業成績の良い者を選抜した慰安旅行で、研修らしい行程は、ニヨークの証券取引所を、ガラス越しに見学することだけであた。証券取引所への訪問は、ものの三十分程度で終り、私は、やり手の証券マンたちを、ウル街からマンハタンとブルクリン地区を渡す橋のたもとの、観光用桟橋まで連れてきた。桟橋沿いのシーフードレストランで昼食をとり、その日はそこで解散となた。
 桟橋にはパントマイムやアカペラコーラスの路上芸人や、手作りのアクセサリーを売る露天商が集まる一角があり、私はベンチに座り、翌日のスケジルや次の訪問地までの航空券の再予約など、とりとめもなく考えながら路上芸人たちを眺めていた。
 身体をブロンズ色にペイントし、自由の女神と同じ格好でひたすら静止しつづけている若い白人の女に目が行き、その女が動きだすまでは視線を外さないつもりでいると
「ちと、見すぎなんじない?」
 突然の日本語に驚いて、声のする方へ振り向くと、恵理子が立ていた。
「エチなこと、考えてたでし、先生」
「恵理子、おまえ、こんなところで何してるんだ?」
「先生、わたしに手紙くれた?」
「いや、おれはもう五年以上、年賀状すら書いてないんだ」
「べつに文句言てるわけじないの。わたし、敦煌で先生に教えた住所にはもういないのよ」
「なんだそり?」
「ほら、あそこでアクセサリーてるでかい男がいるでし。クヌーていて、わたしのフアンセなの。ノルウ人なのよ」
「おまえ、結婚するのか?」
「そうなの。わたしね、ガンジス河の沐浴場の近くの安宿で、身包み剥がれて放り出されちたの。パスポートもお金も全部盗られちて、本当にどうしていいか分らなくて、泣きながら歩いていたら、クヌートが助けてくれたの」
 恵理子が目配せすると、長めの金髪を後で束ねた大男が笑顔で近づいてきた。クヌートは眉毛や睫も金色で、典型的な北欧人の風貌だた。握手をした右手の肘から手首にかけて、意味不明な模様の刺青が彫てあた。
 クヌートは針金屋だた。針金屋とは、手作りのアクセサリーを路上で売りながら世界中を旅して歩く者たちで、なかには非合法なことをする者もいると聞く。私には、恵理子がボヘミアンになれるとはとても思えなかた。
 ホテルに戻てからも、暗澹とした心持ちは晴れなかた。華奢な恵理子が、あの大男の針金屋に組み敷かれるのは、なんとも理不尽なことに思えた。冷蔵庫のリキルを呷てから、私は裏で娼婦の斡旋もする土産物屋のマネーに電話をかけた。

 ひところ、私は仕事を干されていた。
 シンガポールで数百人が参加するある自己啓発セミナーには、添乗員が私を含めて十人以上同行した。そのなかには普段からウマが合わない、と感じていた同僚もいた。
 数百人の研修生が競うオリエンテーリングの下準備のため、公園の藪に入た私は、動物園で見るようなトカゲに何度も遭遇し閉口した。苛ついていた私は些細なことで腹を立て、ホテルのロビーで気にいらない同僚を殴た。飛んできたガードマンたちに取り押さえられ、警察に通報された。シンガポール警察に一晩収監され、解雇を覚悟して帰国したが、意外にも処分は始末書と謹慎だけであた。
 しかしそれ以来、手配業務の者は私を敬遠し、謹慎が明けても私には仕事が回てこなかた。
 私は自宅から近所の川で小魚を釣り、野良猫が集まる公園でそれを猫に与えたりしながら屈託していた。ときには夜の街で酒を飲み、風俗街をうろつくこともあた。
 ある晩、新宿歌舞伎町界隈で酒を飲んだ私は、コマ劇場の裏手の辺りの客引きのいない店を選んで上がた。受付で前金を払い、ボーイが差し出すアルバムから消去法で写真を一枚選び、ボーイが案内する部屋に入ると、白いバスローブを着た女が床に膝まづいていた。
「いらいませ」
 私は女を見た瞬間、恵理子であると気がついた。顔を上げた恵理子は私を確認し、大きく目を見開いた。
 私は平静を装た。
「めずらしい処で会うもんだな」
……
「酒、あるんだろ?」
 恵理子は弾かれたように立ち上がり、冷蔵庫を開けて缶ビールを出した。
「おまえなあ、こういう処では水割りでもつくりながら無駄話して客の緊張を解くものなんだぜ」 
 恵理子はぎこちない仕草で水割りをつくた。グラスと氷がぶつかり合う音が狭い部屋に響いた。
「まあ、あれだ。おれも出来そうにはないし、サカーでも観るか?」
 私は硬い表情のままの恵理子をベドに座らせ、テレビのスイチを入れた。私たちは無言でテレビ画面に見入た。暫らくそうしてから、私は恵理子に決められた額にいくらか乗じた金を渡し部屋を出た。
 それから数日後、私は再びその店を訪れ恵理子を抱いた。そうしなければ恵理子を冒涜しているような気がした。
 恵理子は数月その店で客をとり、オスロへ帰ていた。 

 それから半年ほど経たある日、恵理子からこんな旨の伝言が自宅の電話の留守録に入ていた。
 五反田にいるが、そこには看板がない。三月しかいないから会いに来てほしい。
 その頃になると、ぽつりぽつりと仕事が入るようにはなてはいたが、日当制の雇用だた私は経済的に逼迫しかかていた。しかし、何とか小銭をかき集め、私は恵理子に会いに行た。
 五反田駅に着いて、公衆電話から指定された番号に掛けてみると、呼びだし音が三度鳴り、陰気な男の声が応対にでた。恵理子に会いたい、と告げると電話は転送され恵理子に繋がた。
 恵理子の声は明るかた。教えられた道順を歩くと、まだ建て間もないと思しいマンシンのエントランスに着いた。意外にも性風俗で有名な繁華街とは、隣町に位置する、昔からの金持ちが住む地域にそのマンシンは建ていた。
 部屋の扉の前に立ち、呼び鈴を押した。扉が開くのを待つあいだ、菓子折りでも買てくるべきだた、と後悔する気分が生じたが、恵理子は人懐こい笑顔で私を迎えてくれた。
 恵理子の部屋は簡素なワンルームだた。オフ・ホワイトのカーテンが垂れた窓際に、パイプで組まれたベドが置かれ、ベドの脇の小さな冷蔵庫と電話機以外、家具や装飾品の類いは見あたらず、フローリングの床が妙に冷たそうだた。寝具は淡い青色で統一され、全体的に無機質な印象だが、それは狙た演出であるようにも思われた。
 私はベドに腰掛けた。恵理子は冷蔵庫から缶ビールを出し、プルトプを引いて私に手渡した。
「ここはビールしか置いてないの。先生、どうせ彼女とかいないでしうからアパートに留守伝しちたけど、問題なかたでし?」
「ああ、問題ないさ。しかし、おまえも段々とやることがアレになてくるな。まさか怖いお兄さんがでてきて、おれを脅すわけじないんだろ?」
「そういうことは先生にはしないわよ。先生、お金ないんでし?」
「そうさ。今日だておまえに会うためにアコムのカードを使たんだぜ」
「相変らず冴えないのね。先生て呼ぶの、世界中でわたしだけだと思うわ」
「そうだな。時間は? 一時間か?」
「水臭いわね。居たいだけ居てよ」
「諭吉、三枚でいいか?」
「いいわよ。でも本当は五枚なんだからね。シワーは? 浴びる?」
「いや、面倒くさ。おれ、臭いか?」
 恵理子は私の胸に顔を埋め、匂いを嗅いだ。
「まあ、いいわ。東洋人て匂いが淡いからそんなに気にならないの」
 恵理子の裸体は刺青だらけだた。刺青、と言ても任侠風のものではなく、池袋辺りをたむろしている若者が好みそうなものである。タトと言た方が適切かもしれない。
「おまえ、身体にこんなに絵を描いちて、それで看板のある店には出れないんだな?」
「そうなの、クヌートの好みなのよ。でも、変た嗜好の男てどこにでもいるものなの。人数は少ないけど、前より単価が高く取れるから実入りは似たようなものなの」
 身体を動かすたびに恵理子の腕に彫られた藍色のリングや、肩に描かれた緑と赤の何かを象徴するような模様が歪む。暫らくその状態がつづき、私の顔の横でMの字に開いた恵理子の足の指先がいびつに変形した。

「先生てもてないでし?」
 シワーを浴びた恵理子はバスタオルで身体を拭きながら言た。
「おまえ、セクスした直後の男によくそういうこと言うな」
 私はベドに仰向けのままで応えた。
「余計な事を言わないのはすごく良いのよ。でも言わな過ぎるのもあれだと思う」
「何か言いたいことがあるのか?」
 恵理子はバスローブを着け、ベドの脇に座た。
「あたりまえじない。旦那持ちの女がもぐりの風俗店で働いてるのよ。さりげなく事情を訊いてくれたていいじない」
「いや、言いたくないのかと思てたんだ」
「そこが駄目なのよ。女の扱い方、勉強するべきね」
「勉強して身に付くものなのか?」
「だから、はやく訊いてよ」
「分たよ。クヌートは元気か?」
「あの人ね、クスリ漬けでお酒もたくさん飲むの」
「針金屋は繁盛してないのか?」
「繁盛してる針金屋なんて聞いたことがないわ。いま、オスロに帰てるんだけど、彼はなんにもしないの」
「それで稼いでこい、と言われたわけだな?」
「インドで酷い目にあたわたしを助けてくれた人だからしうがないの、彼がいなかたら、わたしあそこで死んじてたかもしれないもの」
「はいはい。気は済んだか?」
「先生、来てくれてありがとう」
「ああ、このまえはサカー観ただけだたからな」
「また来るでし? 先生、わたしのこと好きだものね」
 恵理子は私に、四隅の丸い小さなピンクのカードを手渡した。カードには恵理子の出勤スケジルが記されていた。
 
「先生、クヌートね、もうすぐ死んじうような気がするの」
「自業自得さ。ヤク中でアル中なんだろ?」
「そうなたら、わたし、どうしたらいいと思う?」
 ツアーから戻ると、私は、五反田の恵理子の部屋へ足げく通た。
「そうなたら、新しい男を見つければいいさ。世の中、ヤク中でもアル中でもない男の方がずと多いんだぜ」
「またあ、無理しちてえ。おれの女になれ、とかいえないの?」
「おれはヤク中にはならないが、アル中の方はなる可能性もあるんだ」
「でも、ヤク中にはならないわけね」
 部屋を出て、五反田駅まで歩く。途中の公園では、すかり葉の落ちた木々に囲まれた、流水の止また噴水池に苔色の水が溜まていた。池の横手から曲がりくねた小道が伸びていて、その先には赤いよだれかけの地蔵が鎮座していた。私は地蔵に手を合わせ、近いうちに恵理子と私の住む部屋を借りる金を工面しなければならない、と考えていた。思春期の少女たちが使う「赤い糸」という言葉が、ふと心に浮かんだ。そして、こうなることは、あの塾の教室で、恵理子が机に突伏して声を上げて泣いたときから、決まていたようにも思えるのだた。

                           <了>
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