浮舟
何もかもさ、覚えていないんだ。
俺の言うことを目の前の制服の野郎が、訝しげにねめつけているのが分か
った。凛々子を探していますと言われて、電話がかかってきたのが朝の七時。遠い記憶にあった年配の女の声。
ああそうだ、別れた女の母親の声に似ていると、思い当たったのが十時。そして時計の針が真上を指す日曜日の午に、誰も尋ねて来ないはずの路地奥のアパートへ、制服制帽にあずき色のグリップが覗くホルスターを携えた半袖の制服野郎が尋ねてきた。
「まるで、犯罪者を見るみたいな目ですね」
男は帽子のツバに手をやり顎を沈ませるように下げる。会釈をしたのだと思ったのは、昨夜のくだらない飲み会のゲップが出てからだった。
制帽の下の汗ばんだ額から流れる汗に目を細めながら、「凛々子さんは」と話を続けようとした男に、俺は同じことを繰り返す。
「ほとんど何も覚えていないんだ。確かにアイツとは付き合っていた事実はある。名前は凛々子、出身は山形の田舎、一度だけ向こうの実家に行ったことがある。農家らしく大きな平屋だった。当然ながら車で連れて行かれただけなので住所も知らない。それから程なくして別れたよ。良い女だったから、きっと俺の他にも腐るほど交際相手がいるさ」
警官が頷きながら、手帳に何かメモをしている。若そうな警官だからiPhoneのフリック入力でメモして行くのかと思えば、前時代的だなと思った。
男の背後から、日中の蝉が叫んでいるのが聞こえる。
視線で促されて凛々子のことを思いだそうとするが、長い髪の毛に隠れて顔が思い出せない。そこで彼は諦めたような表情を作って、思い出したことがあれば、署まで連絡願いますと言いながら、ドアが閉められた。
冷房にひとしきりあたり、PCのデスクトップを眺める。整理のされていない黄色いフォルダーを片っ端から開いても、凛々子の写真は見つからなかった。フェイスブックで名前を検索しようとしたが、名字が全く思い出せない。浮気、されて別れたような気がする。
あれからもう、十年近く過ぎただろうか。警察が探しに来るようなことをする女だったかどうか。耳の後ろ辺りに小さいタトゥーがある程度の反社会性があったとはいえ、それは髪の毛で隠れるそれと同じ程度の内面のズレだったのではないだろうか。
粘つくように乾いている口内が気になり、冷蔵庫の中から梅酒を出してあおるように飲んだ。女の服が脱ぎ散らかされた部屋を見回して、聡美に言うべきか迷う。
他の女の話をするたびに、まるでキチガイのようにして切れるところのある彼女には、元カノの話をしただけで、ご機嫌を損ねるのは明白だった。夕飯の買い物に出かけた聡美が帰宅するまでそれほどの時間は無いだろう。それまでは、凛々子の行方とやらを探してみるのも悪くない。どこかへ探しに行くほどの時間は無いので、思索するだけに終わるだろうが。
それほど過去の女にも思い入れは無いさ。手近に転がっている聡美のシルクのスカートを引き寄せて放り投げる。できの悪い落下傘のように少し離れたところに転がった。どうにも整理整頓のできない女だ。顔だけ女と付き合うと碌なことはない。
そういえば、梅酒が凛々子の好きな酒だった。というのを思い出した。脳みそが回転すると、古いことでも思い出せるものだ。
スマホの電話をリダイヤルした。繋がって名乗ると、女は、はい、佐藤ですと言ったきり、暫し沈黙した。俺の名前を瞬時で判別するのは不能なようだった。先ほど電話を貰った話をすると、
「凛々子の電話で残っている電話帳を使ってかけているのです。沢山かけさせていただいているものですから」
と、返された。行方が不明になっていた女の携帯が実家に送付されたそうだ。どうみても事件性があると誰もが思う状況だ。
佐藤凛々子はそんな悪戯の好きな女だったろうか。
「こんな悪ふざけをする子ではなかったのですが」
女の言葉に見透かされたような気がした。一度しか会っていない元カノの母親とのぎこちない会話に、何かを思い出したらいいなと、少しだけ暇つぶしのつもりながら、真面目に考えてみる。行方不明になることが、今の自分の生活になんの影響も及ぼさないのが、かつての恋人の存在としては、それほど薄かったのだろうと思うが、それを真摯に探そうとするこの母親が、自分の義理の親になっていた可能性に思いをはせる。
「いつから、居なくなったのですか」
即席探偵のできあがりだ。別に、心の底から知りたいわけでもない。いくつかあった未来の可能性の先で、俺の義母となっているだろうこの女に、親近感、のようなものが沸きそうになって事務的に、制服から尋ねられた言葉を繰り返してみる。
「もう、連絡が取れなくなって、一年になります」
違和感があった。
「警察に届け出をしたりはしなかったのですか」
青っぽいシャツの今朝の警官がよぎる。
「見つけても仕方がないのです」
スマホの角張った割に無駄に薄い筐体が、電話を続けることを拒んでいるような気がした。昔のラウンドしたフォルムの黒電話を使っているように思える山形の母親の声がやけにクリアに届いてくる。
「娘さんが、いなくても別に構わないと」
語尾を上げて同じことを繰り返し、話を促した。
「空き家が増えていましてね。こんな寂れた街がイヤだったんじゃないかと思っています」
自らが東京生まれだったという彼女が呟く。
「居なくなって、安心したんですか」
全く理解ができない。ヒステリックな見た目が綺麗なだけな女だと揶揄していても、聡美が今、買い物から帰らず忽然と消えたとすれば、俺は方々を探すだろう。母親と娘というものはそれに比べるべくもなく。
電柱から落ちた雛を見つめながら泣き続けていた名前の知らない鳥のように。悲嘆に暮れるだろうという予測が裏切られた。
「私もここを離れたかったので」
そういう問題でもないだろう。何かがおかしい。背筋に不快感があった。
「あなたも、ここに関わることが無くて良かった」
人の記憶というのは不思議なもので、同じ台詞を言われたのが、今し方のような気がした。声もイントネーションもまるで同じの。凛々子に言われた言葉。
山形の農村の大きな農家に生まれ、それでも東京でありもしない曖昧な芸術と言う名の自慰行為を学ぶために田舎から出てきた凛々子。卒業後は誰かを拉致してでも郷里に戻って結婚しなければならないのと。泣き笑いの顔で、酒を飲むといつもつぶれるまで聞いたことのない歌をぼやけた瞳で歌っていた。
本家筋だから。
まるで金田一耕助の世界だなと。はやし立てると、土蔵、見に来てもいいわよと、スマホの狭い画面に古ぼけていたが下手な都会の家数戸分もあるような蔵を印籠のようにつきだしてきた凛々子。
忘れるのに、数年かかっていた。手を変え品を変え、詰まらない女の間を渡り、山形の空気と匂いが、東北へ向かう車中で無言だった彼女の横顔がまるでついさっきのように思い出されて、後頭部が痺れた。
それでも、思い出せない鍵をかけた箱があって、自分の思考がそこから逃げだそうとしているのがわかる。
今更開ける必要もないだろうと。
いつの間にか切れていたエアコンのせいか、全身から汗が噴き出していた。
本当のことが、今では凛々子の嘘が全て分かっている。後輩の男に手をつけられた。
にやけたニキビ面の男だった。揃いの指輪が薬指にはまっていて。
「あなたが逃げたからじゃないの。弱虫は嫌い」
最後まで聞かずに、凛々子の頬をはった。上目遣いで睨み付けられた。周りの奴に引きずられるようにして、引き離されて、それきり。二股だったと。
それから数年後に、地下鉄の駅であった彼は別の女と子供を抱えて声をかけてくれた。罪悪感でどうしようもうもなかったと。浮気の事実などなく、ただ凛々子に懇願されて俺に打った芝居だったと。
ああ、そんな悪戯をする女だった。
浮舟にあこがれていると、ツンとすました顔で男を馬鹿にしたようにしながら、確かに凄みのある美しさがあった。
源氏物語の浮舟のように、今頃俗世間から断絶した寺で尼にでもなっているのではないだろうか。
「尼寺でも探してみたらいかがですか」
女の息を飲む声を聞く。
そして沈黙。
受話器の向こうで、凛々子を呼ぶ声。
「バレてたかな」
「本当に忘れてたんだ。警察はエキストラかい」
かみ殺すように受話器の向こうの凛々子が笑う。
「同窓会の名簿が回ってきてね、交番に電話してみただけで、即対応とは速いわ。今度結婚するのよ。学生時代で一番の思い出だったあなたに少しだけね」
未練があったの、と続くのだろうか。俺は、聞こえなかったふりをして、次の言葉を探そうとして、玄関のチャイムを聞く。
「愛しい人の帰宅みたいよ」
「わが世尽きぬと君に伝へよ、か」
「知ってたんだ」
「悪趣味なところは変わってない」
「変わったことも沢山あるけど、教えてあげない」屈託ない声で笑った。
「さよなら」「うん、バイバイ」
遠くに見える何かの筋が切断されたのが分かった。
買い物袋のがさがさという音が玄関から聞こえる。スマホに残った着信履歴を――。