壁の向こう
「それは視覚器官に捉えられるのであるから、『見える』わけだ」
また、泰輔の訳知り顔で、疎らなあごひげと櫛を通したことの無さそうな乱雑の長髪で斜めに顔を傾げて目を伏せる仕草を思い出す。
――ハンプテ
ィ・ダンプティサットオンアウォール。
別に”今”なんて重要じゃなかったんじゃない。リップを塗り忘れた唇を噛みしめて、瞼をきつく閉じる。そうしないと、身体の中の水分が流れ出してとんでもないことになるのが分かる。
「――コスミックエッグ、ああ、これは宇宙の原初の姿で――」
胸の奥の方で響くような低い声。身体の線の出るようなミニのワンピにウェーブのかかった長髪でひげ面の泰輔と初めてあったのは学祭の時だった。
工業系の単科大学で関東ではそこそこの名門だと思われている大学で、泰輔は応用化学の研究をしていた。
あたしはおんなじ大学だったけど、工業デザインの学部で、三年になるまで出会わなかったのも、茨木の田舎にあたしのキャンパスはあって、泰輔のキャンパスは東京湾の海辺にある近代的なビルだったからだろう。
冷やかしに出かけた都内のキャンパスの学祭のエスカレーターを登り切った先の小さいスペースで、彼は宇宙と生命と題された発表をしていた。工科大学だから男子が多くて、サークルの伝統で、学祭では女装をするのが決まりなんだって郁美に言われて連れて行かれた。年の離れた従兄弟が入って居たサークルだから、面白い物が見れるよと言われたのが、中途半端な女装の軍団だった。誰も彼もが真面目な顔をしてすね毛も剃らず顔もそのままで、スカートを履いて宇宙と生命だとか、カオスがどうとか、エントロピーがどうとかという話をしている。
あたしのインナーカラーの青が見えるのが珍しいのか、何人かの男子が視線を送ってくたけど、その中で一番の長身だった泰輔は、目の前のホワイトボードに自分の研究の内容について絵を交えた説明していた。楕円形のイラストに「egg」と走り書きの英単語が添えられていた。
「――宇宙の始まりは卵だったんだ」
何の話だか全く分からなかった。リケジョの端っこにいたんだろうと思う。学外では理系で扱われてたし、入試は数学で突破したけど、理系ではなくてデザインがやりたかったから科学のことなんてよく分からない。
どことなくそのひげ面が印象に残ったのが最初だった。
郁美とそのサークルのメンバーとの学祭後の飲み会に流れて、その後大学の傍の泰輔の家にみんなで集まった後に、酔っ払って開けた部屋にあった絵を見た。
割れた卵の上から手を出して、今にも生まれて来そうな女がモチーフだった。
「宇宙が大きな生き物だって説があって」
その絵の前で、揺れながらグラスを持っている泰輔の視線はその女に注がれていて、
「それじゃあ宇宙の性別ってなんだろうって思う」
LGBTとかそういった開放運動みたいのが単なる流行なのか、どこまでいっても細分化されてて、自分の好きを自分で探して産み出さなきゃいけないのが、工業デザインにも男性的なもの女性的なものへのジェンダーニュートラルなデザインで今までの『普通』であったヘテロな自分の否定をしているような気がして、あたしは泰輔にそれを一気に話してしまったと思う。お酒の勢いもあって、なんだか感情が高ぶっていて、ボロボロと頬を流れるのがわかってるのに、泣き上戸だっけとか、性別に疲れてて、かわいい女子にかわいいから好きっていうのは、レズの気持ちなのかなとか、迷っているのが、どうしたって髭面でミニスカートを履いていた泰輔の男臭さのかくしきれなさがなんだって悔しいと思ってたからなのか。
「自己認識は好きな方でいいんだよね、相手が居れば好きな自分になれば解決するんだと思うよ」
って言葉が、なんだか水の中みたいな、目を擦ったからぼやけてたのか、絵の中の女の子に言われたような気がした。卒業制作の女の子っぽい作品ばっかり思いつく自分の才能の無さについての気持ちが、枠の外に出られない自分の窮屈さが言葉に出来たのは別の学部の人だったからライバルとか思わなくて済んだからかもしれない。
そんな風に他人の事を認めてくれてた泰輔だったけど、アール・ブリュット展なんかに誘われて何時間も異形のよく分からない小さな字でびっしりと書き込まれた献立を天井から物干しヒモで吊り下げたところで、なんでか泣いてた。
――Humpty Dumpty had a great fall.
泰輔の煙が煙突の先から流れて青空に消えていく。彼の絵のモデルが、郁美だったことを知ったのは、彼に抱かれた後だった。あたしは郁美よりも悲しんでもいいのか分からなくて、隣で泣きじゃくる手をぎゅっと握りしめて唇を噛んだ。