第19回 文藝マガジン文戯杯「花火」
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物書きと花火
romcat
投稿時刻 : 2022.05.22 23:32
字数 : 3483
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物書きと花火
romcat


 「物語」を創造することが苦手である。
 ネト小説のコンペでテーマを提示され、それに向けて一編の「物語」を創る、それが致命的な程苦手なのである。
 私とは関わりの無い世界で私が経験もした事もないドラマを描いてみせる、無論、主人公は私などではなく、全くの別人格であり、「物語」には起伏があり、創作性に溢れ、現実世界との微妙なずれを自在に操り、読後にはなんらかのカタルシスがある、そんな一編を夢想するのだが、思い付く物は皆陳腐で手垢に塗れたものばかりなのだ。
 例えば「花火」というテーマで何か書いてみせろというコンペがあたとする。真先に思いつくのは夜空に大輪の花咲かせる花火大会であろう。そうなると浴衣を着た若い男女のイメージが離れない。色恋枯れて久しい私にはもうすでに異世界の出来事といて過言ではない。転生でもしない限り情感あふれる話を創るのは無理な話なのである。却下。
 時勢を鑑みて、コロナ禍で中止されている花火大会、そこを踏まえて個人的に花火を打ち上げる話はどうだろうか。動機はなんだろう。不治の病に罹患した友人を元気づける為に病室から見える位置に花火を打ち上げる、そんな話はどうだろう。素人が花火を打ち上げられるものか調べてみる。するとアマゾンで三尺玉が売ているではないか。荒唐無稽な話でもなくなてきた。法律面での縛りはあるが、そこは違法に打ち上げた方がドラマチクであろう。「不治の病」という陳腐さを若干気してはいるが掘り下げてみる。そもそも、花火大会てやてないのだろうか。調べるとあちらこちらで開催されているようである。ああ、ウズコロナ。抑圧への反抗がドラマを産むのに微妙に優しい世界。なんだかモチベーンが下がた。却下。
 もと「花火」の特色を生かした話は作れないものか。「花火」とはなんぞや? 一瞬の華やかさ、儚さを象徴しているのではないか。それならば、例えば青春の挫折、そんな話を花火と絡めて書けはしないだろうか。私の人生における青春の挫折、それはメジを夢みてバンド活動していた頃のことだろう。これは面白くなりそうだ。記憶に創作を肉付けしていけばいいので一からの創作ではない。スルと書けそうだ。舞台は最後の解散ライブ後。片付けを済ませた我々はコンビニで酒を買い込み近くの公園で乾杯をする。青春の全てをかけた活動がいよいよ終わりを迎える、その現実に皆一様に寂しさ悲しさを隠せなくなる。いいぞ、正に青春の挫折感溢れているではないか。
 ふとメンバーの一人が花火でもやらないか、と提案をする。自分達の活動が辛気臭く終わるのが許せない、と。散たことを嘆くのではなく、一瞬でも咲かせたことを誇りたい、花火みたいに、と。いい感じだ。よし、これで行こう、そう思たとき、頭をよぎる不安があた。
「四人か……
 バンドの構成は少なくとも三人、一般的には四人、私のバンドも四人構成であた。頭の中の映像は四人がそれぞれに語り合いドラマを見せるのだが、それを文章に落とし込むとなると、四人の書き分けをいかようにするのか、短編でそれをやるのは私の筆力では無理そうだ。残念だが却下。
 ああ、もうそうすると何も思い浮かばないのである。花火、花火、花火……
 そもそもに於いて、私には花火に対して何の思い入れも思い出も無いのである。一度だけ行た花火大会はラアワーの地下鉄を遙かに凌駕する人出に苦しんだし、帰りの道はこころ削られるほどの渋滞であた。嫌な記憶しか無い。
 コンビニで買う花火も、バーと派手に火花を散らしている時はいいのだが、火薬尽き闇に戻るあの瞬間に、人生の不吉を重ねてしまいどうにも好きになれない。
 しかし、私は「花火」で何かを書かなければならない。締め切りも近い。実際に花火を体感すれば湧き上がる情感もあるのではないか、そう考えてドンキホーテに行き花火を買てきた。流石にこの季節ではコンビニで売ていなかた。
「おい、おまえたち。今日メシ食たら花火やるぞ。パパ、おまえたちの為に花火買てきたんだ」
「え? マジ? やたー!」
 次女と三女は手放しで喜んだ。コンペの為の散財。少しでも意義を足せるのであればより好ましい。
「えー! 私、塾あるんだけど。さいあくー
 高校受験を控えた長女は塾だなんだと忙しい。というより、中三にもなてまだ家族と花火をしたいか。おまえは思春期を何処に置いてきた。
「花火て何処でやるの?」
 妻が口を挟む。嫌な予感がする。
「近くのこうえ」
「駄目」
 被せるように禁止をする。
「公園、花火禁止て書いてあるじん。駄目」
「そんな固いこというなよー。減るもんじないんだしさー。ちとだけだよー。ねー、お願い! 一回だけ! 一回だけやらせて! 五分で済むからさ!」
 駄目なナンパ師みたいなセリフで頼み込む。
「ダ・メ・に・き・ま・・て・ん・だ・ろ!」
 滝川クリステルのように、スタカートを駆使して否定してきた。これ以上交渉の余地無しの合図だ。
「ち、ママが駄目だてさ」
「ち
「ち
 次女と三女が残念そうに「ち」を重ねる。ぬか喜びさせてしまたことを申し訳なく思た。
 そうはいてもここで引き下がる訳にはいかない。私は「花火」で何かを書き上げなければならないのである。妻がテレビを見ている隙に線香花火だけを四、五本ポケトに入れて「ちとコンビニに行てくる」と告げ公園に向かた。
 夜の公園はひと気なく、街路灯が照らすブランコやら滑り台やらベンチやらが不気味な程淋しい。こんな中で独り、中年男性が線香花火をしていたら通報されそうだ。人間の行動には理由があり、その理由は合理性を客観視できるのが通常である。私が今から起こす行動は客観的に見て合理性に欠ける。無論、私の中できちんと合理的な理由があると信じていても、「あなた、独りで何してるんですか?」と誰かに声をかけられて「いやあ、ネト小説のコンペのお題が花火でしてね」では怪しいことこの上ない。早く済ましてしまおう。
 公園の端のなるべく目立たない所を選び線香花火に火を着ける。一瞬だけ大きく燃え上がり、その後は恒星の様な火球が現れてチロチロと小さな火花を散らしている。そういえば子供の頃、火球を早くに落としてしまい叱られことを思い出した。こよりを揺らさず集中していれば長く楽しめるものなのだ、おまえは集中力に欠ける、そんなような事を言われた気がする。曰く、己れの技術ひとつでこうも楽しみが変わる物は線香花火をおいて他にはない。ああ、辛気臭い。なぜ、楽しみに来てお説教を貰わねばならぬのか。嫌な記憶のせいで、ただでさえ面白くもなんともないものが、より不快になた。火球はこよりの真ん中ら辺までチロチロと燃え、地面に落ちていた。まだ、なんの情感も湧かぬ。
 二本目、三本目とやてもひとつも面白くない。いたい何をしているのだろうと思た時ふとよぎるものがあた。
「子供より親が大事と思いたい」
 太宰治の『桜桃』の一節だた。些細な妻のひと言に腹を立て、子守りに忙しい彼女を置いて太宰は飲み屋に行く。そこで出された桜桃を、これを土産に持ち帰たら子供たちはさぞ喜ぶだろうな、と思いながら不味そうに食べては種を吐き、不味そうに食べては種を吐く。そんな話だ。ああ、今の私も少し太宰と似ているのかもしれない。楽しみにしている花火をこそり持ち出して、つまらないといいながら火球を眺める。
「子供よりも親が大事、と思いたい」言える物だろうか。言えないな。子は大事。あいつらは可愛い。俺は凡庸な父親だ。
 最初に文学に触れたのが太宰治であて、その後、坂口安吾、梶井基次郎と傾倒していた。己れを落伍者と言う人間に憧れ、酒に溺れ、破滅に向かう様をかこいいとおもていた。
 バンドを解散した時、落伍者になれるチンスだた。けれども私の取た行動は正反対だた。落伍から全力で逃げ、勉強して資格を取り、商品を買てもらうべく媚びる様な笑顔を身につけていた。同級の誰もが持ている平凡な生活に追いつくため必死に努力を続けた。今の自分はこれで良かたのだろうか、あの頃の自分が今の自分を見たら、一体何と言うのだろうか。
「子供よりも親が大事、と思えない。親の方がずと弱かたとしても」
 何の警句にもならぬ、何の逆説も孕まぬ、凡庸なことをいてみる。線香花火は五本目を終えた。
 「物語」ひとつ作れぬ凡庸な父は、きと今度の日曜日にはもとたくさんの花火を買い込み、河原かどかで派手に子供たちと花火をしよう。そう心に誓うのであた。
 
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