第21回 文藝マガジン文戯杯「Illuminations」
 2 «〔 作品10 〕» 11 
ダニエル
投稿時刻 : 2022.11.19 12:07 最終更新 : 2022.11.19 12:10
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- 2022/11/19 12:10:07
- 2022/11/19 12:07:19
ダニエル
MOJO


 ダウンタウンと住宅街の境にあるセブンイレブンで、缶のバドワイザー半ダースとオニオンフレーバーのドリトス二袋を買て、キンパス内の学生寮に戻る4thアヴを歩きながらダンは言た。
「全ての者はその者の人生における勝利者になるべきである。ケイスケはそう思わないか?」
「なにそれ? 旧約聖書にでも書いてあるのか? おれのたどたどしい英語では小難しいやりとりは無理だぞ」
「シンプルな話さ。それに聖書ではないよ。親父の口癖で,少し前、トヨタを引き取りに実家に戻た時の食事中にまた聴かされたんだ。何故か今、突然思い出して口にしてみただけさ」

「ダン」は「ダニエル」の愛称である。だが学生寮には「ドナルド」もいて、そちらの愛称は「ドン」。
 僕が寮に来た当初は、ラウンジで「ダン」を呼ぶと「ドン」が振り返るという現象が度々起きたが、最近はそうなることが少ない。
 ダンは小柄な白人で背丈も僕より低かた。いつもひとりで、所在なさげにラウンジの隅にいた。アジア系の新入りである僕も似たような状況だたから、ネイテブスピーカーと話す機会が欲しかた僕はダンに近づいた。ラウンジのビリヤード台でのナインボールやピンポンをしながらの会話で、彼が飛び級でハイスクールを卒業したこと。シリコンバレーと呼ばれるこの地域の大学を選び、コンピターに関わる学部を専攻していることなどを知た。あのカーペンターズ兄妹はハイスクールの先輩であることなども。
 アメリカは歴史の浅い国であるが、移民たちは故郷の風習を大切にする。ドイツ系のフストネームがステフンだたり、イタリアにルーツを持つ家系の女子学生にマリネラがいたり。
 ダンは祖父の代にロシアからこの地に渡てきたユダヤ系だという。たまに同祖の者たちが集うパーには行くようだが、敬虔なユダヤ教徒というわけではなかた。学食のメニは当然カシルートに配慮したものではないし、ダンと同席して食事をしても「制限」のようなものは感じられなかた。
 それにしても学食は不味いものばかりで、その理由のひとつに火を通しすぎることがある。鹿の挽き肉を使たメンチカツ状のものは、タマネギの風味が感じられずパサパサしていた。クリームシチのような汁ものの具は鱈であたが、美味いはずの鱈が台無しであた。四方を海に囲まれた小さな島国の民である僕には、サンノゼステイツ・ダイニングコモンのメニは火を入れすぎているように感じたが、遥か昔から広大なユーラシア大陸に棲んでいた人たちの食糧事情はきびしく、丁度よい火加減、などという呑気な概念は育まれることがなかたのかもしれない。レストランならミデアムレアの焼き加減も選べるのだろうが、学生のための食堂では、クリスマスにふるまわれるステーキもウルダン一択であた。
 学食で唯一美味かたメニはホトドグで、モスバーガーで注文できるホトドグは、あの学食のものに近い気がする。

 寮には僕の他に四五人の日本人学生がいたが、彼らは老舗和菓子店の跡取り息子や中小企業創業者の娘で、金銭その他、生活感覚のようなものが僕と違ていた。ガソリンを大量に消費するトランザムやムスタングを乗りまわし、夏休みにはヨセミテやレイクタホにまで旅をした。僕はたまの週末に、ダウンタウンからのグレイハウンドバスでバートと呼ばれる鉄道の駅まで行き、列車でサンフランシスコに出て、映画や絵葉書で見覚えのある坂の多い市街地を走る路面電車に乗たり、フマンズワーフの露天で買た塩茹での蟹を、波止場のベンチに座り、潮風に吹かれながらマヨネーズのタレで食べたりして過ごした。それで不満はなかたが、日本から逃げるようにここに来たはずなのに、金銭事情は似たようなものであた。実家へのコレクトコールは来てすぐに通じなくなり「テンポラリー・デスコネクテド」を告げるテープがまわていた。電話料金を滞納するからそうなるのである。実家は、僕が幼少の頃から住んでいる家を転売し、引越しを繰り返していた。高度成長期はそれで暮らしが成り立ていたが、高校生になたころから、転居の度に都心から離れ、家屋も狭くみすぼらしくなていた。
 今考えると、母親は金勘定の出来ない者であた。住んでいる家を売るのは、複数の消費者金融や町金融からの借金が嵩み、それを精算するためだたようだ。英文科を卒業して教員免許を持ているからか、近所の中学生を集めて英語塾の真似事のようなことや、タイプライターで英文を打つ内職仕事を請け負て日銭を稼ぐようなこともしていた。父親は業界では誰もが知る建築資材メーカーに勤めていて、慎ましく暮らすことは出来たはずだが、家のことは母親に任せていた。入てくる金と出ていく金の帳尻が合わないのが常なのに、それを管理しようとしない父親に不信感のようなものを感じ始めたのが大学受験の頃で、入試では良い結果は得られず、短期のアルバイトをしながらフラフラしていた僕は、一念発起して、早朝から夕方まで食品加工の工場で働き、スパルタ教育で有名な渋谷にある英語専門学校の夜間部に半年間通た。スパルタの実例は、ダイアログのみで構成されている長い物語や、ポーの「黒猫」、ケネデ大統領やキング牧師の演説を丸暗記することであた。校内で日本語を話すことは禁じられ、遅刻欠席にも厳しく、十分以上遅れた者は教室に入れなかたし、欠席が続く者は放校処分になた。

 僕のアメリカ行きを提案したのは母親であた。留学を斡旋する業者への支払いは何とかすると言た。「何とか」は借金だろうが、繰り返される引越しや、玄関先に現れる借金取りたちに芯から嫌気がさしていた僕は、母親の気が変わらないうちに渡米の準備を始めたのだた。
 アメリカでの日常生活で困らないように、白衣とビニールのエプロンを着けて、キベツをみじん切りにする機械を操作しながら、英文のテキストを広げ、ブツブツ復唱する僕を、パートのおばちんたちは訝しげに見ていた。

「あたして男なしだとだめなの」
灯りを暗くした寮の一室で、缶のバドワイザーを片手にサチは言た。
 男女五六人が車座で水パイプを回し、中心に置かれたトウモロコシの粉を固めたスナク菓子やフライドポテトの皿に各々が手を伸ばした。
 サチは中央線の特別快速が停車する駅付近で開業する医者の娘で、お嬢様が通うことで有名な女子大を休学しここに来ていた。複数のネイテブ男子学生と関係を持ち、それを隠そうとしない開けぴろげな性格に僕は好感を持た。しかし、たまにはおれにもやらせてくれよ。この一言を発することは出来なかた。

 ある日、ラウンジのテレビに学生たちが群れていて、少し離れた位置のソフでアコーステクギターを弾いていた僕にブルネトの女子学生が近づいてきて何か言た。ダンのように単語を区切た発音ではなかたので、意味を聴き取れなかた僕はそれを好意的にとらえた。
「What kind of songs do you like? 
 彼女は両手を広げ「No!」と叫び、テレビを見ていた何人かも振り向き、不機嫌な表情で僕を見た。
 いつの間にダンが近くに来ていた。
「レーガンが撃たれて脚を負傷したらしい。いま速報が流れている。ケイスケ、ギターなんて弾いてないで、すぐに部屋に戻た方が良いよ」

 ダンの実家はロスアンジルス近郊で、サンノゼからそう遠くない。ある週末に帰省し、白いトヨタの新車を運転して寮に戻て来た。 
 日本ではコルサとネーミングされたそのクルマは、トヨタ初の前輪駆動仕様で、クルマ関係の雑誌には「FF車」と紹介されていた。FFは「フロントエンジン・フロントドライブ」の略で、小さなボデと広い室内のための技術であるが、この国のゆたりした道路事情にはそぐわなかた。でかいボデにでかいエンジンを積んだリアドライブのアメ車ではなく、日本の小さなFF車を選ぶダンは、やはり奇妙なアメリカ人として僕の目に映た。
 前輪駆動を英語で説明するのは億劫だたし、その頃はまだ「メイド・イン・ジパン」は「ハイ・クオリテ」の代名詞ではなかた。

 ダンのコルサは夜間の空いたダウンタウンを走ていた。水パイプとバドワイザーでハイになた僕が運転し「ブランニ・トヨタ!」と叫びながら片側通行の左車線を走た。後席のダンは「おまえの好きにしろ。事故だけは起こすなよ」と言い、隣に座るサチに「ジパニーズの男てみんなこんななの?」と訊いた。
 郊外に出てしばらく走ると、そこは丘の麓で高級住宅街だた。ある屋敷の広い庭には大型犬が放し飼いで、コルサを停めて口笛を吹くと、犬は片方の前脚を上げてポインテングのポーズで静止した。
「よく躾けられている」
 ダンは言た。
「ポインターだからポインテングしているのね。あたしたちて狩りの獲物に見えるのかしら」
 コルサは緩い坂を上り頂き付近に着いた。そこからは、当時はドメステク路線だけだたサンノゼ空港を臨むことが出来た。小高い丘から見下ろす夜の空港は意図しない電飾であた。離発着の飛行機や滑走路は幻想的で、三人はしばし無言で赤や緑が点滅する様を眺めていた。
 大統領が銃撃されたのに、ギターを弾きながら呑気で明後日な受け答えをした僕は、ネイテブたちの反感を買た。
 あのジパニーズは阿呆、ということが寮中に知れ渡り、沈んだ気分で部屋にこもり気味になた僕を、ダンが夜景スポトに連れてきてくれたのだと思ていた。でも、何故サチがここにいるのだろう。
「サチが好きだ。ガールフレンドになて欲しい」
 唐突にダンが言た。
 困惑した表情でサチが僕を見る。
「ケイスケ、この状況をなんとかして。あたし、ダンは無理なの」
 サチは日本語で言た。
「ガールフレンドになてくれなかたら、ここから飛び降りるぞ」
 ダンは今にも泣き出しそうである。
 サチがビチであることは、寮で知らぬ者はいないのに、こやつは何を言い出すのだろう。おれだてまだやらせてもらえないのに、夜景を見せてくどくのかよ。やり口が陳腐に過ぎるぞ。
 僕は無性に腹が立てきた。
「Dan, you can fly. Go ahead, right now! 
 そう言い放つと、ダンは哀しげな表情で僕を見た。

 帰国すると、実家は同じ市内の狭い公営住宅に変わていた。渡米前は庭で飼われていた小さくない犬も同居していた。
 新聞の求人広告で千葉県柏市にある塾講師のアルバイト職を見つけ、応募し採用された。東武野田線の江戸川台駅から徒歩十分の小さな借家に犬と共に住んだ。
 ある日、封書が実家から転送されてきた。それはサンノゼステイツ日本人会の集まりを告げるもので、僕は出席した。
 そこにはレギラーの学生になて帰省中の者もいた。その者から、ダンがダウンタウンで最も高い建物であたホリデイ・インの屋上から飛び降り自殺を図たこと知た。一命を取り留めたが、以降、日常生活では松葉杖が手放せない状態になたという。しかしそれを契機に、人が変わたように明るく社交的になり、誰にでも積極的に話しかけるようになたそうだ。
 同じ頃、サチは沢山いたボーイフレンドのひとり、ジフと結婚した。ジフはアフリカン・アメリカンで、僕が寮のラウンジで弾くなんちてブルースギターに「プリテ・グド」と笑顔で返してくれた。
 昨今、アメリカでは人種間の「分断」が表面化しているが、ポピラー・ミクの世界においては、ずと以前から逆分断ともいえる現象が起きている。ブルースやR&Bをレパートリーに持つカントリー系のミジシンは少なくないが、カントリーを歌うブルースマンの例を知らない。ビートルズもストーンズも、クラプトンもツペリンも、桑田佳祐も宇多田ヒカルも、ブラク・ミクが在てこその音楽性である。
 僕は目黒雅叙園での披露宴に出席し、ジフの両親と同じテーブルでフレンチのコース料理を食べワインを飲んだ。司会進行の者から事前打ち合わせなしのスピーチを振られ、しかたなく新婦の人柄の良さを定型句で語りながら、三人で夜景を見下ろした夜のことを思い出していた。
 ダンは彼が思うところの勝利者になたのだろうか。
 定型句が尽きた僕は、歌詞をワンコーラスだけ憶えていた加山雄三の「君といつまでも」をアカペラで歌た。
 それは長渕剛の「乾杯」が、結婚披露宴での定番ソングになるずと以前のことであた。


                                   <了>
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