ダニエル
ダウンタウンと住宅街の境にあるセブンイレブンで、缶のバドワイザー
半ダースとオニオンフレーバーのドリトス二袋を買って、キャンパス内の学生寮に戻る4thアヴェニューを歩きながらダンは言った。
「全ての者はその者の人生における勝利者になるべきである。ケイスケはそう思わないか?」
「なにそれ? 旧約聖書にでも書いてあるのか? おれのたどたどしい英語では小難しいやりとりは無理だぞ」
「シンプルな話さ。それに聖書ではないよ。親父の口癖で,少し前、トヨタを引き取りに実家に戻った時の食事中にまた聴かされたんだ。何故か今、突然思い出して口にしてみただけさ」
「ダン」は「ダニエル」の愛称である。だが学生寮には「ドナルド」もいて、そちらの愛称は「ドン」。
僕が寮に来た当初は、ラウンジで「ダン」を呼ぶと「ドン」が振り返るという現象が度々起きたが、最近はそうなることが少ない。
ダンは小柄な白人で背丈も僕より低かった。いつもひとりで、所在なさげにラウンジの隅にいた。アジア系の新入りである僕も似たような状況だったから、ネイティブスピーカーと話す機会が欲しかった僕はダンに近づいた。ラウンジのビリヤード台でのナインボールやピンポンをしながらの会話で、彼が飛び級でハイスクールを卒業したこと。シリコンバレーと呼ばれるこの地域の大学を選び、コンピューターに関わる学部を専攻していることなどを知った。あのカーペンターズ兄妹はハイスクールの先輩であることなども。
アメリカは歴史の浅い国であるが、移民たちは故郷の風習を大切にする。ドイツ系のファーストネームがステファンだったり、イタリアにルーツを持つ家系の女子学生にマリネラがいたり。
ダンは祖父の代にロシアからこの地に渡ってきたユダヤ系だという。たまに同祖の者たちが集うパーティには行くようだが、敬虔なユダヤ教徒というわけではなかった。学食のメニューは当然カシュルートに配慮したものではないし、ダンと同席して食事をしても「制限」のようなものは感じられなかった。
それにしても学食は不味いものばかりで、その理由のひとつに火を通しすぎることがある。鹿の挽き肉を使ったメンチカツ状のものは、タマネギの風味が感じられずパサパサしていた。クリームシチューのような汁ものの具は鱈であったが、美味いはずの鱈が台無しであった。四方を海に囲まれた小さな島国の民である僕には、サンノゼステイツ・ダイニングコモンのメニューは火を入れすぎているように感じたが、遥か昔から広大なユーラシア大陸に棲んでいた人たちの食糧事情はきびしく、丁度よい火加減、などという呑気な概念は育まれることがなかったのかもしれない。レストランならミディアムレアの焼き加減も選べるのだろうが、学生のための食堂では、クリスマスにふるまわれるステーキもウェルダン一択であった。
学食で唯一美味かったメニューはホットドッグで、モスバーガーで注文できるホットドッグは、あの学食のものに近い気がする。
寮には僕の他に四~五人の日本人学生がいたが、彼らは老舗和菓子店の跡取り息子や中小企業創業者の娘で、金銭その他、生活感覚のようなものが僕と違っていた。ガソリンを大量に消費するトランザムやムスタングを乗りまわし、夏休みにはヨセミテやレイクタホにまで旅をした。僕はたまの週末に、ダウンタウンからのグレイハウンドバスでバートと呼ばれる鉄道の駅まで行き、列車でサンフランシスコに出て、映画や絵葉書で見覚えのある坂の多い市街地を走る路面電車に乗ったり、フィッシャーマンズワーフの露天で買った塩茹での蟹を、波止場のベンチに座り、潮風に吹かれながらマヨネーズのタレで食べたりして過ごした。それで不満はなかったが、日本から逃げるようにここに来たはずなのに、金銭事情は似たようなものであった。実家へのコレクトコールは来てすぐに通じなくなり「テンポラリー・ディスコネクティッド」を告げるテープがまわっていた。電話料金を滞納するからそうなるのである。実家は、僕が幼少の頃から住んでいる家を転売し、引っ越しを繰り返していた。高度成長期はそれで暮らしが成り立っていたが、高校生になったころから、転居の度に都心から離れ、家屋も狭くみすぼらしくなっていった。
今考えると、母親は金勘定の出来ない者であった。住んでいる家を売るのは、複数の消費者金融や町金融からの借金が嵩み、それを精算するためだったようだ。英文科を卒業して教員免許を持っているからか、近所の中学生を集めて英語塾の真似事のようなことや、タイプライターで英文を打つ内職仕事を請け負って日銭を稼ぐようなこともしていた。父親は業界では誰もが知る建築資材メーカーに勤めていて、慎ましく暮らすことは出来たはずだが、家のことは母親に任せていた。入ってくる金と出ていく金の帳尻が合わないのが常なのに、それを管理しようとしない父親に不信感のようなものを感じ始めたのが大学受験の頃で、入試では良い結果は得られず、短期のアルバイトをしながらフラフラしていた僕は、一念発起して、早朝から夕方まで食品加工の工場で働き、スパルタ教育で有名な渋谷にある英語専門学校の夜間部に半年間通った。スパルタの実例は、ダイアログのみで構成されている長い物語や、ポーの「黒猫」、ケネディ大統領やキング牧師の演説を丸暗記することであった。校内で日本語を話すことは禁じられ、遅刻欠席にも厳しく、十分以上遅れた者は教室に入れなかったし、欠席が続く者は放校処分になった。
僕のアメリカ行きを提案したのは母親であった。留学を斡旋する業者への支払いは何とかすると言った。「何とか」は借金だろうが、繰り返される引っ越しや、玄関先に現れる借金取りたちに芯から嫌気がさしていた僕は、母親の気が変わらないうちに渡米の準備を始めたのだった。
アメリカでの日常生活で困らないように、白衣とビニールのエプロンを着けて、キャベツをみじん切りにする機械を操作しながら、英文のテキストを広げ、ブツブツ復唱する僕を、パートのおばちゃんたちは訝しげに見ていた。
「あたしって男なしだとだめなの」
灯りを暗くした寮の一室で、缶のバドワイザーを片手にサチは言った。
男女五~六人が車座で水パイプを回し、中心に置かれたトウモロコシの粉を固めたスナック菓子やフライドポテトの皿に各々が手を伸ばした。
サチは中央線の特別快速が停車する駅付近で開業する医者の娘で、お嬢様が通うことで有名な女子大を休学しここに来ていた。複数のネイティブ男子学生と関係を持ち、それを隠そうとしない開けっぴろげな性格に僕は好感を持った。しかし、たまにはおれにもやらせてくれよ。この一言を発することは出来なかった。
ある日、ラウンジのテレビに学生たちが群れていて、少し離れた位置のソファーでアコースティックギターを弾いていた僕にブルネットの女子学生が近づいてきて何か言った。ダンのように単語を区切った発音ではなかったので、意味を聴き取れなかった僕はそれを好意的にとらえた。
「What kind of songs do you like? 」
彼女は両手を広げ「No!」と叫び、テレビを見ていた何人かも振り向き、不機嫌な表情で僕を見た。
いつの間にダンが近くに来ていた。
「レーガンが撃たれて脚を負傷したらしい。いま速報が流れている。ケイスケ、ギターなんて弾いてないで、すぐに部屋に戻った方が良いよ」
ダンの実家はロスアンジェルス近郊で、サンノゼからそう遠くない。ある週末に帰省し、白いトヨタの新車を運転して寮に戻って来た。
日本ではコルサとネーミングされたそのクルマは、トヨタ初の前輪駆動仕様で、クルマ関係の雑誌には「FF車」と紹介されていた。FFは「フロントエンジン・フロントドライブ」の略で、小さなボディと広い室内のための技術であるが、この国のゆったりした道路事情にはそぐわなかった。でかいボディにでかいエンジンを積んだリアドライブのアメ車ではなく、日本の小さなFF車を選ぶダンは、やはり奇妙なアメリカ人として僕の目に映った。
前輪駆動を英語で説明するのは億劫だったし、その頃はまだ「メイド・イン・ジャパン」は「ハイ・クオリティ」の代名詞ではなかった。
ダンのコルサは夜間の空いたダウンタウンを走っ