私のお金
「あ、これ、私のお金だ
……」
手渡した一万八千円のお金、その内の一万円札を透かすように手に持ち、女は嬉しそうにい
った。
「え? まあ、君に払ったんだから、君のお金に違いないとは思うけど……」
私は女の言葉の真意を測りかねていた。その金は今しがた終えたばかりの行為に対する報酬である。確かにこの女の金に違いない。けれども、それをわざわざ口にするということは何か他に理由があるのだろう。続く女の言葉を待った。
「ほら見て、ここ。お札の右隅のところ」
そういい、ベッドに腰を掛け裸のままの身を寄せてくる。乳房の谷間に三つの黒子があることにいまさら気がついた。やや小ぶりだが形の良い乳房。私は女のいう「私のお金」を確認するために、ソファの背もたれに掛けておいた上着のポケットから眼鏡を取り出した。
「Y.T……と書いてある…イニシャルのようだね。君の名前か何かかな?」
「ううん、違うの。でもこれは私のお金」
「どういうこと?」
勿体ぶった言いまわし、けれども彼女の話に興味を持った。
「私がね、この仕事を始めたとき、一番最初のお客さんからチップを貰ったの。一万円。その時は気づかなかったんだけど、あとからお金を店に入れる時に気付いたんだ、お札にイニシャルが書いてあったこと」
「どうしてそのお客さんの払ったお金って分かったの? 後から気付いたって……」
「店長がさ、お金の確認をしてるとき『なんじゃこれっ』ってそのお札を手に持っててね、そんで私も見てみたら売り上げの中の二万円分だけイニシャルが入ってて」
「なるほど。で、君が財布に入れたチップの一万円札にもイニシャルが入ってたってわけか」
「そう。もう何年も昔の話だけどね。あの頃はもっと稼げてたのになあ。女も三十を超えると価値が下がるのね」
「え? ホームページには『りさ 二十七歳 人妻』となっていたけれど……」
私は女をからかうようにいったが彼女はその言葉には答えることもなく、シャワー先に浴びるね、と残して浴室に消えていった。
退屈しのぎにタバコでも吸おうかと考えたが灰皿が見当たらない。そういえばここが禁煙ルームであることを思い出した。禁煙化の波はラブホテルにまで及んでいる。自分が少しずつ時代に置いていかれるような、そんな感覚を覚えた。
私は女と入れ替わるようにシャワーを浴び、浴室を出ると彼女は着替えを済ませていた。鏡台をまえに化粧を直している。
「まだ、時間はある?」、私がそう尋ねると女は手元のタイマーを確認して「20分くらいなら」と答えた。
「なに? もう一回したくなっちゃったの?」
女は笑いながらいう。
「いや、さっきのお金の話なんだけどね、なんでそんな昔のことを覚えているのかなって聞きたくなってさ」
私はその「私のお金」の話をもっと詳しく知りたかった。
「そうね、なんだろ、嬉しかったんだろうな、普通に。お金を余分に貰えた、そのこと自体も嬉しかったんだけど、そのお客さんの気持ちがね、ありがたかったというか、暖かかったというか」
「そうなんだ」
「そう。初めての仕事のときは、やっぱ泣けてきちゃってさ。そのお客さんとしたあとに大泣きしたの。好きでこの業界に入ったわけじゃないからね」
女は化粧道具をしまい、こちらを向いた。
「私を捨てた男のこと、騙し取られたお金のこと、背負わされた借金のこと、これからあと何人男と寝たら借金が返せるのかっていう将来の不安、そんなことが頭の中でぐちゃぐちゃに混ざって、気持ちが抑え切れなくなってさ」
「そのお客さんは何て?」
「さすがに慌ててた。でも肩を抱きしめてくれた。何があったかは知らないけど、これで美味しいものでも食べて、そういってこの一万円札をくれたの」
女は再び財布から一万円札を取り出し嬉しそうに笑った。
「この一万円札もね、ずっとお守りみたいにして持ってたの。辛いこととかあったとき、握り締めたりしてさ、こころの支え、ってほど大袈裟なものじゃないけど、ひとの優しさを思い出したいときなんかに、ね」
「でも、使っちゃったんだ」
「うん。使った。ほらよくあるでしょ、スーパーのレジを出たところにさ、何とか災害の義援金とかいって透明な箱の中にお金が入ってるやつ。ある時、ふとこの一万円札を入れてやろうって考えたの。何の災害かも、そもそも災害のじゃないかもしれない義援金の募金箱にね」
「どうして? お守りみたいに大切にしていたのに? そもそも君だっていろいろお金のことが大変でこの仕事についたんだろ? 『何の義援金だか分からない』くらいの興味しかないものによく寄付をしたね」
私が女にそういうとタイマーがピピッという音を鳴らした。それは私がこの女を自由にできる時間が終わったことを知らせるものだった。女は立ち上がり「一緒にホテルを出る? それとも別々に出る?」と尋ねた。一緒に出よう、私がそういうと、分かったわ、と微笑みを返す。決して若くはないが美しい女だと思った。
「よく寄付をしたな、って私も思うのよ。あの頃はまだ借金も残ってたし」
ロビーに降りるエレベーターの中で、女は先程の私の問いに答えた。
「でも、なんだろう。あの一万円札は私のなかで、人の優しさの象徴、みたいになっててさ。その優しさがお金みたいに世の中を巡ってさ、色んな人のこころを温かくして私のところに戻ってくる。もし、あの『私のお金』がいつか私の元に帰ってくることがあったら、そんな優しい世界を信じることができるんじゃないか、あの時はそう思ったの」
「そして今日偶然に戻って来た」
「そうね。本当に、こんな偶然ってあるんだね」
ピンポーン、と音が鳴り、エレベーターはロビー階に停止した。扉が開き「ここでお別れだね」と私がいうと「また指名してね」と返ってきた。少し細身の女の後ろ姿は、そうしてラブホテルの外の闇へと消えていった。
「偶然かあ」
私は咥えたタバコに火をつけ独り呟く。煙を大きく吸い込んだあと、溜め息のようにそれを吐き出した。
女の元に訪れた偶然、しかし私はあの一万円札が女のものではないことを知っている。胸元の黒子、そして行為の後に号泣した話、間違いない、五、六年前に私が買った女だ。
あの時確かに私はチップを女に与えた。覚えている。
ちょっとしたおまじない、くらいの気持ちで私は持ち歩く現金、それも一万円札にイニシャルを落書きする悪戯をやる。なるべく早く俺のところに戻ってくるんだぞ、という気持ちと、やはり女の思いと同じで、いつか自分のところに戻ってくることがあるのだろうか、という興味があった。
よく使い枚数も多い千円札や五千円札に一枚一枚イニシャルを書くのも面倒だから一番高額な一万円札に限定している。けれども何年も続けているが一度としてイニシャル入りの紙幣が戻ってきたことはなかった。調べると紙幣の寿命は四、五年で、古い紙幣は金融機関を通して日本銀行により処分されるらしい。つまり、女のいう「偶然」は巡り巡って一万円札が戻ってきたことではなく、私が年月を経て「偶然」指名したことによるものだ。
女は優しさや善意が紙幣のように人から人を巡る世の中を夢見た。優しくされたことを他の誰かに返し、他の誰がまた別の誰かに優しさを返す、そんな善意の流通を。
私はタバコをアスファルトで揉み消し、吸い殻を携帯灰皿に入れ、街の明るい方を目指して歩きはじめる。どこかでタクシーを拾えないものかとそう考えていた。
女の「偶然」は女の望んだ「偶然」ではなかったのかもしれない。そしてその事実を知るのは私独りだけだ。真実や事実が人を幸せにするわけではない、きっとそういうことなのだろう。女はあの一万円札をまたお守り代わりにするのかもしれない。あるいは善意の流通を信じて再び他の誰かの為に使うのかもしれない。いずれにしても彼女が私の悪戯に騙されている間は、彼女は優しい世界に守られて生きていくのだ。
人通りの少ないラブホテル街の薄暗い闇をイルミネーションが赤く染め、青く染め、白く染め、少しだけ闇に戻り、また赤く染めている。クリスマスも近いのだな、と今気づいたかのような呑気なことを考えてみる。
タクシーを拾うのをやめて一杯だけ飲んで帰るのも悪くない。
私はそう想い直していた。