第21回 文藝マガジン文戯杯「Illuminations」
もう多摩川を渡らない
hato_hato
投稿時刻 : 2022.11.04 04:06 最終更新 : 2022.11.04 05:55
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- 2022/11/04 05:55:49
- 2022/11/04 04:06:07
もう多摩川を渡らない
hato_hato


もう多摩川を渡らない
久遠大雄

 京急電車が多摩川を渡り、川崎駅に着いた。
 席に座ていた俺は、息をついた。
 窓から刺す五月の陽射しはまぶしかた。
 もう、多摩川を渡て仕事へ行くこともないだろう。
 なにかが、終わた感じがした。
 いや、はじまりだたのかもしれない。

 今日は、十年勤めた会社の最終出勤日だた。
 最終出勤日と言ても、前日までに庶務的な手続きはすませていたので、荷物を取りに行くだけだた。
 荷物も何冊かの本とお気に入りの文房具ぐらいだた。
 送別会を開きたいと言われていたが、そういう気分ではないので、つつしんでお断りした。
 会社を退職した理由は、十年勤務だと割増退職金のリストラをはじめたからだ。
 数年前から有報を見ていると勘定科目のつけかえなどが行われていて、これはもう長くないなと思い、条件のいいうちに辞めて、次のことを考えた方がいいと思たからだ。
 上長に、その旨を伝えたのは一月前だた。
 上長は、すぐに人事へ話をつけてくれた。
 どうも、内部的には各部、リストラする人数のノルマがあるらしかたようで、俺のいた部からは誰も挙手しないので困ていたらしい。
 それも賞与支給前までに人を減らしたかたらしい。
 その後、お決まりの有休消化。
 そして、今日の最終出勤だ。
 そのような状況で十年も在籍していた企業だから、何回も送別会には呼ばれていた。
 それを、自分もそれをやられるのがイヤだた。
 辞めるのを肴にしての愚痴大会の宴会なんて、こりごりだ。

 川崎を過ぎ、俺の降りる駅に京急がついた。
 ここで降り、タクシー乗り場に向かた。
 タクシー乗り場前のターミナルビルにはイルミネーンが光ていた。もう、冬かと思た。よく考えれば、そのとおりだ割増退職金と言うのももうすぐ支給予定の冬の賞与を込みで見た目をよくしたものだたのだから。
 両手に荷物を抱えていたので、自宅のアパートまで、タクシーに乗ることにした。
 「団地の付近まで」と運転手に言うと、返事があり、すんなり発車した。
 途中、道案内をしつつ、アパートについた。
 冷蔵庫からミネラルウターを出し、一口飲んだ。
 さて、明日からどうするか?
 次の転職先は決めていなかた。
 本来は、もう若くないし、転職先を決めないで退職するのは無謀だが、もう社内のムードが落ち着いていなくて、そういう雰囲気でもなか
 だから、退職のほうが先になた。
 両親へはもう話をしてある。
 父親は株式投資をやていたので、勤務先のIR情報を見て、俺より、よぽど勤務先のことを把握していた。
 父親からはよく心配されていた。
 だから、反対はないどころか、いまの年齢ならやり直しがきくと賛成だた。
 そう言えば、社外には会社を辞めたことを伝えていなかたのを思い出した。
 Macの電源をつけて、SNSを開いた。
 なにを書くか、またく考えていなかたので、思いつかなかた。
 しかたがないので、率直なことを書いた。
「私は、今日で会社を退職しました。次は決まていません。勤務中、お世話になた方には会社の事情でご挨拶もできず申し訳ありませんでした。明日からは浪人生活です。実家にでも帰ろうと思います」
 書いた一時間後には、コメントがいくつか書き込まれていた。
「お疲れ様です。長い間、よくがんばたな」
「状況は聞いています。いい判断だたと思う」
「うちに仕事を手伝いに来ない?」
「そのうち、飲みましう!」
 それらに返事をしているうちに食事の時間になた。
 クロクスを履いて、近所のラーメン屋へ出かけた。
 大将が「いらい! 今日は早いね」
 俺は、「ま、いろいろとね。いつものお願い」
「あいよ」
 大将は麺を茹ではじめた。
 いつものは、横浜風タンタン麺のニンニク入りだ。
 学生時代から、この店に通ている。
 大学がこの近所にあり、上京した時から越していない。
 都内に住むことも考えて、物件を見たが、あまり環境が変わらないので、越すことがなかた。
 タンタン麺が出てきた。
 今は食べて、元気を出そう。
 ニンニクの入りのタンタン麺は元気の源。
 その後にいろいろなことは考えればいい。
 タンタン麺を食べ終え、アパートへ帰ると、ドアの前で彼女のユキが立ていた。
 ユキの身長はそんなに高くなく、スリムで胸が小さいことを気にしている子だ。
 髪はシトより長いが、肩までかかるほどではない。
 家は都内にある。
 どうも機嫌が悪いようだ。
「ちと、今日、最終日でし?」
「うん」
「わたしに挨拶ぐらい、いいんじない」
 そう言えば、電話もしていなかた。
「悪い」
「明日は私と付き合て。今日は泊まていくから」
 ユキの瞳は猫のようだ。
 起こているときはわかりやすい。
 でも、喜んでいるときもまたわかりやすい。
 今はご機嫌が斜めだ。
「はい」

#2

 俺は寝ていたが、窓からの陽射しが差し掃除機の音がうるさく、目がさめてしまた。
 ユキが「そろそろ、起きなさい。先方には昼頃に行くて言てあるから」
 ああ、そう言えば、昨夜、今日はユキが私に付き合えと言ていたことを思い出した。
 ユキは、ワードローブから、ちんと襟のついたYシツとジトを取り出した。
「それを着て。朝ご飯はテーブルの上にあるから」
 今朝のユキは怒ていないようだた。
 いつものユキだ。
 トーストとスクランブルエグとコーヒーがあた。
 俺は、それを食べた。
 時計を見ると九時を回ていた。
 平日にこんなにゆくり寝たのも久々だ。
 着替えないでいると、ユキが着替えてと言てきた。
 俺は、渋々着替えた。
 でも、俺の疑問はまたく解決していなかた。口にした。
「で、俺はどこに連れて行かれるんだ?」
「区役所の近くの医療事務の専門学校で週四コマを担当する講師を探しているから、それの面接」
 俺は、会社を辞めて、のんびりする気でいたから、反対した。
 すると、「友達もいないあんたが、仕事もしなかたら、社会とのつながりがなくなるでし。あたしだて、しう相手できないんだから」
 それは言えている。
「だから、とりあえずやりなさい。期限もまだ決まていないんだから」
 それから、Macを開き、日経電子版を見た。人事欄もオプシンで購読しているので、取引先の異動情報が出てきたが、もう関係ないことだ。
 すると、ユキが「行くわよ。タクシーは呼んだから」
 そこの場所は俺をなんとなく知ていた。
 休日には散歩していた。
 最寄りのバス停からのバスはなく、歩くと結構めんどうだた。
 俺は、あわてて、靴を履いて、玄関の鍵をしめ、出た。
 タクシーに乗ると、ユキが、「私の学生時代の友達が講師をやている学校だから、面接と言ても形だけ」
「ああ、俺は面接て奴が苦手だから助かる」
「書類は私が作て、送ておいたから」
 おいおい、いつの間にと思たが。
「着いたわ」
 たまに散歩する時に見かけるビルだた。
 通うとなたら歩けば健康にいいかなと思た。
 ユキはタクシー料金を払い、タクシーを降り、どしどし進んでいく。
 受付で内線電話をすると、ユキと同じくらい年齢の女性が出てきた。
「はじめまして、大野です。ユキから話は聞いています。まずは、応接でお話を」
「行くわよ」
 俺は「はい」と答えた。
 応接には、校是と思われるものが額に飾てあたぐらいでシンプルな部屋だた。
 大野が、「上にはもう話は通してありまして、できたら来週から来て欲しいのですが、可能でしうか?」
 事情が気になたので、訊いてみた。
「PC実習の前任の講師が交通事故で足を骨折して、それで、講義ができなくなりまして。もう、シラパスやテキストとかはできています。実習への対応、レクチが中心になります。講義はとりあえずテキストの通りに進めていただければと思います」
 ユキが「はい、大丈夫です」
 それは、俺が言うことだろうかと思たが、どうも大野とは会たことがある気がする。
「あの、大野さん、前にお会いしたことありませんか?」
 大野は笑みを浮かべて、「デズニーランドへダブルデートで行たのを覚えていませんか?」
 思い出した。まだ新卒二年目ぐらいでユキとも付き合いはじめたばかりの頃だ。
「ま、そんなわけで、人となりも知ておりますので、あとは契約書へサインしていただいて、来週から来ていただければ」
 俺も、まなにもしないよりはいいだろうと思い、「では、お引き受けします。できたら教室とかも今日、見たいのですが」
「はい、案内します」
 連れて行かれたところは、大学時代の情報処理の演習の部屋みたいな感じだた。ただ、壁紙は女子学生が多いせいか、パステル調だた。
 使われているPCは一世代前のものだが、問題ないと感じた。
 大野が、「ちとログインして、環境をお見せします」と言い、一台のPCを起動した。
「では、ちと触ていただければ」
 うん、会社で使ていたのとほぼ変わりない。
 正直に、「これなら会社で使ていたのと同じで、すぐに講義をできると思います」
「よろしくお願いいたします」
 ユキが「こちらこそ、お願いいたします」
 そう言うと大野が、なにかユキに耳打ちした、なんとなく聞こえたが「がんばてね!」と。
 なんのことだと思た。
 ま、とりあえず糊口をしのげる。しかし、二コマの講義を週二日。もうちと、やることがないと、ユキのいうとおり単なるろくでなしになてしまう。なにかを考えないと。

#3

 講師の仕事がはじまた。
 予想以上に順調だた。
 新卒で辞めた会社に入社した時より順調なくらいだ。
 学生たちは荒れることもなく、俺が学生の頃より熱心に聴講していた。
 たまに、俺でさえ悩む質問もしてくることもあた。それぐらい、みんな講義をちんと受けていた。
 この仕事を紹介してくれたユキの友達の大野いわく、「評判いいですよ」と言てくれて、とりあえず、お役は果たしていた。
 それはユキにも伝わり、会うと「あんた、女子学生相手ににやけているかと思たら、まじめじない」と、からかわれた。
 ただ単に力を抜く余裕がなかただけなんだが。
 とは言え、前職と仕事が全く変わて、まだ余裕がなかたのは、逆に気がまぎれてよかた。
 新しいことをしている実感があた。
 職を変えて、自分の新しい一面を見た。
 教科書も補助教科書などを作り始めた。
 それを見た学生たちは、こういうのが欲しかたと口々に言い、評判がよかた。
 ユキに見せたら、「あなた、意外と文章がうまいわね。こういうことにもチレンジしてみたら?」と言われた。
 自分の文章がうまいと思たことなんてなかた。
 ただ、社会人十年の間に文章でなにかを言われたこともなかた。
 下手ともうまいとも。
 上司に報告書を出した時も、何も言われなかた。
 報告書でほめられもしなかたが、怒られたことはない。
 だから、うまいと言われたのは意外だた。
 それを読んだ、大野が来期の募集のパンフレトを書かないかと言てきた。
 もちろん、仕事のうちだから、引き受けた。
 自分でも思ている以上にすらすら書けたし、各科目の特徴もよく表現できていた。
 ちと、書く仕事をやてみようかなと思た。

 SNSの連絡先を見て、メデア関係に勤めている知人にあたてみた。
 翌週、大学時代の友達の大葉を会うことになた。
 ビジネス関係のWebメデアの副編集長だた。
 メセージを送ると、翌週、中目黒で飲もうと言うことになた。

 中目黒駅前で大場と待ち合わせをして、近所の焼き鳥屋に入た。
 あまり都心部に出るのに乗る気でもないことも説明してあた。
 ふたりともハイボールを頼んだ。焼き鳥は店の大将のお任せにした。
「聞いたよ、会社をやめたんだてな」
「ああ。今はユキの紹介で専門学校の講師をしている」
「お前はのんびり屋だから、それがいいかもな。で、文章を見て欲しいて」
 俺はカバンから、補助教材とパンフレトを出した。
 それを大場は読んだ。
「うん、うまいじないか。商業ライターをやれるんじないか? ただ、商業ライターと言ても、ギラは安いぞ」
「今はとにかく仕事の数をこなさないと食えないからな」
「そういうことなら、一応、担当に見てもらう。儀礼的だがサンプル文を作成してもらう」
「ああ、頼む」
「ただ、お前、学生時代、小説を書いていたじないか」
 言われて思い出した。
「結局、公募の一次突破がやとだたけどな」
「今なら、時間があるし、そちのほうがいいんじないのか?」
「うーん、ま小説家は食えるまで大変だからな」
 大場が苦笑いしなが言う。
「どんな仕事だて一緒だよ。サラリーマンがおかしいの。デスクでPCをいじているだけで毎月、口座にお金が入るなんて」
「そうかも、しれない」
 大場はかなり酔てきたようだ。
「うちのライターでも小説家を目指しながら、書いている人はいるぞ」
「そうなのか?」
「ああ。だから、そういう道もあるんじないかな」
「うーん」
「学生時代、お前の小説は結構、面白かたぜ」
「そんなこと、当時は言わなかたのに」
「そり、くやしいからな。人は嫉妬するものだぜ」
 そうか。俺は小説を書くのもいいかもしれない。
「サンプルをメールしておく。あと、小説を書いているライターさんも紹介してやる」
 それで、その夜は大場と別れた。
 久しぶりに気心の知れた友人と飲めていい夜だた。

#4

 翌々日、大場からサンプル文章の書き方のメールが送られてきた。
 読んだ途端、めまいがした。
「なんだ、こりSEOを意識しすぎだ」
 SEOと言うのは、インタートの検索でキーワードによて上位に来るようにする仕組みだ。
 前職では、サービス企画関係のことをやていたので、一応、インタート広告の知識は持ていた。
 これは、ほとんどライターの個性を出せない。
 キーワードをうまく使た文章らしきものを書く。
 しかし、専門学校の講師業だけで暮らせるわけもないので、引き受けるしかなく、サンプル文章のもととなるプレスリリースをもとにサイトに掲載する文章を書き始めた。
 三十分で飽きた。
 俺の部屋は一階にあり、庭に面していた。
 部屋の空気を入れ換えようと、引き戸を開けると、茶トラ猫が二匹、じれあていた。
 俺が、外に出ると足のまわりにまとわてきた。
 茶トラ猫の一匹はまだ子猫だた。
 お腹が空いている様子だたので、台所から缶詰のイワシを出してきて、二匹の前に置いた。
 そうすると、二匹とも喜んで食べた。
 底の汁までなめ終えると、お礼でも言うように「に」とかわいく泣き、首を下げて、去て行た。
 さて、俺も仕事に戻らねば。
 なんとか、それから一時間して書き終わて、四百文字原稿用紙二枚で一万円。
 うーん、正社員だたころの時給と比べると……考えてやめた。
 もう、正社員に戻るのはこりごりだ。
 それに、小説も書いてみたい。
 とりあえず、書いた文章を半日おかせることにした。
 その間に講師のほうのプリントを作ていた。

 夕方になると、大場からスマフへ電話があた。
「よお」
「サンプル文章なら、もう少ししたらメールで送るよ」
「ああ、わかた。今日は、それじなくて、小説志望のライターさんと一回、会わないかてこと」
「おお、それはありがたいな」
「酒を飲めない人だから、ランチのほうがいいて言うんだけど、中目黒でまたいいか?」
「ああ、いいよ」
「じあ、調整してメールする」
「了解」
 その人と会うのは、二日後になた。

 中目黒のバールで、大葉とは待ち合わせた。
 大葉は、俺を見つけると手を挙げた。
 見ると、女性と一緒だた。
 俺より、五つぐらい上か。紺色のきりりとしたスーツ姿だた。
 日本人形のような眼と黒髪が目を引いた。
 なんとなく「女史」と言うのが似合う人だた。
 席に座ると、大葉が紹介してくれた。
 大葉の隣の席に女性が座ていた。
「紹介するよ、杉本さん。うちのメインライターで、コンテンツのチクもしてもらている。今はえーと」
「女性向けレーベルの小説も書いています」
「そうだたね。あ、もうオーダーはしておいたから。ランチセトでいいだろ」
「ああ、それでいい」
「いきなりなんですが、私、高校生デビなんです」
大葉もおどろいて、「はじめて聞いた」
「あまり、この話はしていませんからね。純文だたのですけど、公募で大賞を獲て、結局、三冊書いたかな」
 俺は、「ま、そういうことですか」と。
「そういうことです。売れませんでした。図書館へ配る最低部数と呼ばれる四千部以上売れなくて、路線を変更しました。今はBLを書いています。一応シリーズになて、初版一万部ですが、それだけでは食べられませんね」
 大葉が言た。
「今、そのジンルの文庫本だと、定価六百円てところで印税が初版で六十万円てところだね」
「ま、そうです。重版かかる時もありますから、もうちと収入はいいですが、目安としてはこんなところです、それでもチレンジしますか? 毎月、銀行引き落としに心配しない生活はいいですよ」と、杉本女史は笑て言た。
 俺は、少しうなり、杉本女史のほうを向いた。
「ま、でも、今日は中目黒に出てきていますけど、都心への通勤はしたくないんです。そうすると仕事が限られてきますから」
「そういうことですか。気持ちはわかります。私も、この街はあまり好きではないですよ。まずは、大場さんのところで書いて、書くことを自分が好きかを判断してみてはいかがですか? 書くことが嫌いな人に小説家はつらいと思います」
 俺は首肯した。それと同時に大葉が。
「あ、言い忘れた、サンプル文章はこの杉本さんと編集長が合格点をつけた。これから、たくさん仕事を回すからよろしく頼むよ」
 杉本女史も、「うちはライター不足なので、よろしくお願いします」
 悪くないと思た。
 専門学校の講師とライター業。
 会社員時代とは全く違う仕事だ。
 実力が如実に問われる。それはそれでおもしろい世界だ。

#5

 社長がまた、論理が通ていないことを言いはじめた。
「この店舗の営業責任者は誰だ? 責任者は売上が少ないから減俸三月な」
 担当者は無言で肩を落として、無表情になている。
 俺は、この裏を知ている。
 もともと、不動産屋が店舗開発担当のところに持ち込んだ物件で、最終的に社長が決断した。それを店舗開発担当者に戻し、あとはコンプラアンス上問題ないように処理しただけだ。
 店舗の営業部門の責任者が見つけて来て、開店を決めた物件ではない。
問題は裏でどんな金の動きがあるかだ。それは社長自身も知らなかたようだ。
 社長に同情すべきなのか。
 どうも会社の業績が悪くて、社長は不眠症になり心療内科に通ていると言う噂もあた。
 ただ、俺までタートになるとは思ていなかた。
「次は、新サービスだけど、数字が未達成。担当者は減俸三月」
 俺の担当しているサービスだ。
「いや、まだこのサービスは立ち上げて、二月なので、猶予をください」と反論した。
 社長は、「二月もしても、だろ? ライバルのほうは数字があがているて話だよ」
 もともと、このサービスも競合が立ち上げたサービスを出入り業者がそのサービスを同じままコピーして、社長のところに持てきて、俺が担当したものだ。
 しかし、この会社は社長に反論できる空気はない。
 社長が株式の議決権の半数以上を握ているので、革命は起こせない。
 だから、みんな辞めていく。
 離職率は正常な値ではなかた。
「わかりました。てこ入れをしてみます」
「正直でいい。では、今期は、とにかく赤字をなくそう」
 もう、会社は銀行からの融資をされるのがきついほどに業績は悪化していた。
 一応は上場企業だたが、上場維持がやとだた。
 社長が無能というより、会社の業態がニエコノミーについていけなくなていた。
 お客様が減ているのは、あきらかに数字に出ていた。
 社内も混乱していて、人事部長の役員の交代は恒例行事になていた。
 なる人はみな根本的なリストラをしなければ無理なのに、給与を下げるぐらいの小手先の改革しかできない無能ばかりだた。

 俺が入社した時には、すでに衰退の道に入ていたが、俺は就職活動に出遅れて、残た企業がここだけだた。
 その頃は、もうちと都心にあたが、経費削減で本社を湾岸に移転させた。
 それで通勤時間がかかるようになり、加えて仕事にもうんざりしていた。
 大学は東京ではなく、多摩川を渡たほうにあた。
 のんびりした地域だた。
 入社して、東京への通勤に慣れるのは時間がかかた。
 それでも、慣れれば慣れるもので、なんとか十年間勤めた。
 ただ、サボリーマンで朝、起きて機嫌が悪いと通勤がイヤで、不思議なことに熱が出たり、両親の調子が悪くなた。
 そして、会社を休む。
 よくクビにならなかたものだ。
 ま、そういう、だれた体質の会社だた。

 この社長会議の後で、社長が「来週から、戦略コンサルタントが入て、人事制度の改革をやるから、コンサルタントに各自協力するように」と言た。
 俺は、これを聞いて、ようやくパンドラの箱を開ける気に社長がなたかと思た。

 そして、戦略コンサルタントが会議室と社長室を往復して、社内は落ち着かない雰囲気になた。
 徹底的にやていると言う感じだた。
 それで、発表されたのが、大幅な人員削減だた。
 どうも、大株主の会社がリストラ費用を出す話を社長がうまくまとめたらしい。
 それで、リストラの結果の利益増による株価の上昇で補うと。

 でも、まさか三十代まで対象になるとは思わなかた。
 新しい人事制度を読むと、残ると収入が下がる、辞めると一時金。
 それで、もうこの会社にいても、芽が出ないと思い退社を決意した。
 しかし、思たより周囲は退社を決意しなかた。
 生活があるから、やめられないのだろう。
 俺は、収入があての生活ではなく、生活があての収入と思ていたから、退社を選んだ。
 東京での高いランチを食べるような生活にもうんざりしていた。
 朝夕の通勤ラもうんざり。
 もう、多摩川を渡らずに暮らそうと思た。
 それほど、俺には東京は魅力的な街ではなかた。

#6

 大葉からの原稿依頼はとりあえず、講義のない日に書くために週四本にしてもらた。
 毎回、小説家の杉本女史の朱入れがたくさん入て帰てきた。
 朱入れが減てきたのは、十本を書き終えたころだろうか。
そして、メールで杉本女史から「今回は、これでOK」と最初に出した原稿で返信が来るようになた。
 スピードもそれと同時にあがてきて、最初は原稿一本書くのに半日かかていたのが、二時間ぐらいになた。
 そうすると、手持ち無沙汰になた。
 大場へ仕事を増やせないか連絡した。
 そうしたら、意外な返信が返てきた。
「今、頼んでいる原稿と違うけど、うちで紀行文を書く人を探しているから、ちと書いてみないか?」
 面白そうだ。小説にもつながる。
 カメラも用意してくれるということなので、引き受けることにした。
 ロケ先は江ノ島だた。
 電車で江ノ島へは行た。
 何件かのレストランとお土産店を取材して、それをまとめた。
 時間があたので、江ノ島神社に行たら、猫がいぱいいた。
 ミケ、白黒、茶、トラ、様々な毛色の猫がいた。
 カメラのメモリに空きがあたので、猫の写真も撮た。
 どの子もおどろかず、珍しそうに近づいてきた。
 試しに足元に来た子をなでたら、のどをならした。
 小一時間ぐらいだろうか、猫とたわむれていた。
 そんなこんなで、夕方になたので自宅へ戻た。
 帰り際、ふと思た。
 いままでは朝、上り電車に乗ていたが、夕方に上り電車に乗るようになるとは、俺の生活は確実に変化しているのだな。
 下り電車の混雑を見ながら思た。
 そういえば、近頃、大場とも会ていないし、多摩川を渡て東京にも出ていない。

 翌日、文章をまとめ、写真の画像データを圧縮して、大場のところへメールで送信した。
 そうしたら、意外なメールが来た。
 杉本女史から、「猫の写真がかわいいですね。企画を変えて猫メインにします。申し訳ないですが、文章の書き直しを」
 大場からもスマフに電話がかかてきて、「あの猫の写真よかたよ、あちのほうがアホなレストランの記事より面白い」
 あまり一日分の仕事が無駄になたという気はしなかた。
 こういうこともあるだろう。
 会た猫たちの印象や、猫たちの様子をまとめて書いた。
 思たより、すらすら文章が浮かんできて、締め切りより早く、大場のところへ送信できた。
 猫の原稿は無事、メデアに公開された。
 そうしたら、杉本女史から、意外なメールが届いた、「小説的な文章で興味深く読ませていただきました。漱石のような雰囲気がありますね。どうですか? 小説を書かれてみては?一度、今のトレンドをお教えしますから、どこかでお会いしませんか?」
 いや、まいた。ユキと付き合いはじめてから、女性と一対一で会たことなどない。
 困た。が、先へ進むためだ。
「はい、承知しました。この前の中目黒の店で」と返信した。

 中目黒の店へ着くと、まだ杉本女史は来ていなかた。陽射しが熱い日だたので、ノンアルコールのサングリアをオーダーして、飲みながら待つことにした。
 サングリアには生のフルーツが入ていて、気持ちがさわやかになた。
 店へ入てきたのは……杉本女史だけかと思たら、男性も一緒だた。
「どうも、こんにちわ。今日、お連れしたのは冬秋出版の編集者の小川さんです」
「この前の猫の特集を読んで興味を持ちまして。私からお目にかかりたいと、杉本さんへお願いしました」
「どうも、よろしくお願いいたします」
 小川はテーブルの上のサングリアを見て、
「ノンアルコールのサングリアですか?でしたら、私たちもオーダーしましう。ちと、短い話でもないので」
 短い話ではない?

#7

 杉本女史と編集者の小川のところへサングリアが運ばれてきた。
 小川は喉が渇いていたのか、一気に半分ぐらい飲んでしまた。
「自己紹介が遅れましたが、私は文芸誌の編集をやています。昨今の猫ブームで猫特集をやろうと言うことになたのですが、書き手がなかなかいませんで。それで……
 俺は、なんとなく言わんとしていることがわかてきた。
「あの江ノ島の猫特集を読んでと」
「そうです」
「枚数はどのくらいですか?」
「ペラで五十枚くらいの掌編を」
 原稿料を提示してきたが悪くない。
「ただ、締め切りが一週間後です。なんとか、なりますか?」
 俺は、ちと自信がなかた。
 杉本女史がそれを見抜いたのか。
「いいチンスですよ。文芸誌から依頼なんて、なかなかないです。売れ子の作家と名前が並ぶなんて。うちの仕事を半分にしてあげますから」
 これで、俺は決心がついた。
「小川さん、お引き受けします」
「ありがとうございます。内容に関してはお任せします。口出しをしませんので、よろしくお願いいたします」
 その後、小川から最近の文芸業界の話などを聞いていたが、どんな話を書くかも考えていた。
 家に帰り、Macへ向かた。アイデアが浮かばない。
 そのまま二日が経た。
 ユキが家にやてきた。
 俺を見て。
「何を悩んでいるの?」
 小説のことを話した。
「うーん、そうしたらトラたちのことでも書いたら?」
 そういえば、トラたちはすかり家になついて、毎日来るようになていた。
「うん、それで書けそうな気がする」
「じあ、それを書いてみなよ。あんた、どうせ、まともな物を食べていないでし。夕食を作るわ」
 ユキは料理をはじめた。
 ユキの料理はおふくろの味付けに近くて、好きだた。

 結局、ユキのヒントのおかげで締め切りまでに小説はできあがた。
 内容としては、トラの親子が家にいついて、ごはんをあげていた。体をきれいにしてあげて、一緒に寝たりもした。ある日、トラたちはいなくなた。机の上に一枚の宝くじを残していた。その宝くじで二等が当たた。
 編集の小川に読んでもらたところ、「フンタジーでいいですね。校閲と校正は通しますが、基本的にはこれでOKです」

 ところが、この小説が話題を呼ぶ。
 なんと、直木賞の候補になたのだ。
 直木賞は単行本でないと基本的に候補にならないので、珍しいケースだと、杉本女史から教えてもらた。
 ユキに伝えたら、意外にあさりした反応だた。
「よかたわね。でも、受賞しないと意味はないわよ」
 たしかにそうだ。受賞は難しいと文壇では言われていた。
 選考日は、ユキと二人で、家で過ごしていた。
 編集からも今回の受賞は難しいので、そんなに構えないでいいですよと言われていた。
 結局、受賞はできなかた。
 ただ、小川から、前もて言われていた。受賞の有無にかかわらず、このシリーズを連載にしたいと。それで、本数がたまたら、単行本として出版したい。
 上もその方針だと。
 だから、別に受賞できなかたことにがかりはしなかた。
 それより、次の話のアイデアを考えることに夢中だた。
 大場のところのライターもやり、専門学校の講師もやり、小説も書く。
 東京でサラリーマンをやている頃より、忙しくなてきた。

 トラたちにはご褒美に、さば缶をごちそうした。
 トラたちは満足したようだた。
 だんだん、トラたちも家になじんできて、うちの軒先で過ごしていることが多くなた。

#8 

 トラたちは、だんだん部屋の中に入てきて、親子で、ベドで寝ていることもあた。
 それを見た、ユキが「もう、うちの猫にしちえば」と言てきた。
 俺も、トラたちに愛情が生まれてきたので、賛成だた。
 どうせ、昼は家にいることは多いから、外との半室内飼いもできる。
「そうだな、トラたちをうちの子にしよう」

 ユキは子トラを抱くのを好んだ。
 そうすると、親トラが焼き餅を焼くので、俺が親トラを抱いた。
 夜、ベドで寝ていると、親子で布団の中にも入るようになた。
 トラたちは、昼は天気がいいと、親子で外に遊びに行ていた。
 夜は、家にちんと帰てきた。
 猫の集会には参加していないようだた。
 と言うか、猫の集会が本当にあるかは知らない。

 猫の小説もいつまでもトラたちをネタにするわけに行かないので、ネコカフに取材に行くこともあた。
 ユキと一緒に行くこともあた。
 すると、ユキは俺をそちのけで猫とたわむれていた。
 そこの猫を写真に撮り、その毛色、模様や表情からアイデアを生み出す。
 苦労することもあた。
 毎月、原稿を落とさず、三月続いた。
 冬秋出版の編集の小川が、そろそろ単行本化を考えたいと言てきた。
 ひいては、表紙などの希望を出してくれと。
 なんとなくユキに相談した。
「うーん、わたしに相談されても困るんだけど。トラたちには感謝しないといけないわね」
「表紙はトラたちにしようか?」
「それなら、イラストのほうがいいんじない?子トラが小さいうちに」
 子トラも気づけば、随分大きくなてきていた。
 その旨を、小川に伝えた。
「それなら、うちでよくイラストを描いてもらている方がいるので、家に行てもらいます」
「それでお願いします」

 女性のイラストレイターが家にやてきたのは、一週間後だた。
 ユキにも同席してもらた。
 イラストレイターは、トラたちを見た途端に、「この子たちは、なにか幸せを運ぶ雰囲気がありますね」
 ユキは、疑ていたが、イラストレイターが二時間くらいで描いたイラストを見て、考えが変わたようだ。
「たしかにほのぼのした雰囲気がありますね」
「そうでし。この子たちは、あなたたちに随分なついていますね」
「ひこり、この部屋にやてきたのですけどね」
「でも、そんなものですよ。猫との出会いは」
 後で、同級生の大場にそのイラストレイターの名前を出したら、大物だとわかた。
 どおりで巧みなイラストを描くわけだ。
 
 単行本は発売され、ベストセラーでもないけれど、出版社が赤字と言うほどもひどくない売上になた。
 いくつかの新聞では書評にも取り上げられた。
 印税は単行本だたので、思たより入た。
 ユキには、入てきた印税の額はとぼけていた。
 でも、ユキは俺の様子を見て、「トラたちには感謝しなさい。なにか、私にもおいしいものぐらいおごてよ」と言われた。
 トラたちには、猫に人気の餌を食べさせてあげた。
 トラ親子はおいしいそうに食べ、おねだりまでしてきた。
 ユキは、すしざんまいに連れて行た。
「回らないけど、微妙なところね。ま、妥協してあげる」と、納得してくれたようだた。

 ところが、この印税だが、思ていないところで用途ができた。
 ある日、部屋の大家さんがやてきた。
 大家さんは、地元でいくつかアパートを持ている老婦人だ。
 旦那さんは、もう亡くなていて、一人で資産を管理している。
 いつも洋装のきれいな格好をしている。
 そんな大家さんが渋い顔をしながら、「私も、あまり気にしていないけど、おたく猫ちんを飼い始めたでし?」
 俺は、素直に認めた。
「はい。いつの間にか、うちに居座てしまい、追い出すわけにも行かなくて」
「そうよね。あなたルールを破る人ではないものね。それで提案があるの」
 俺は、なんだろうと思た。
「私の息子が住んでいた一戸建てに引越さない? 長いこと空き家なの。家賃はそんなにいらないわ。人が住まなくなると家は傷むから、困ていたの。住んでくれると、うちも助かるの。そこなら、猫を飼てもいいわよ」

#9

 週末、ユキと大家さんで、大家さんの息子さんが住んでいた家を見に行た。
 道路から一本筋に入たところで車庫なしだた。
 とは言え、車には乗らないから、そこは気にならなかた。
 庭は猫のひたいほどだがあり、ユキは軽いガーデニングぐらいができそうと言た。
 家自体も平屋だが、部屋数はそれなりにあり、寝室と執筆するための部屋を別にできる。
 建物自体は古いが、そんなには痛んでいなかた。
 大家さんはリフムも俺がしたいなら、していいと言うことだた。
 ユキは、「ちと、水回り関係に手を入れれば、住みやすいと思うわ」
 水回りはたしかに古かた。
 流しやガス台の高さがあた。
 家賃は相場よりちと安いぐらいだた。
 俺がアパートに長く住んでくれていたということで、大家さんが割り引いてくれた。
 俺もリフムの予算は単行本の印税でなんとかなりそうだたから、その一戸建てへ引越すことに決めた。

 リフムが一月ぐらいかかり、いざ引越すとなると、なぜかユキの荷物が届いていた。
 ユキに問うと、「お父さんが、もう面倒だから一緒に住めばいいて言てくれたの」
 俺は、困惑したが、ユキの家の電話番号は知ていたので、一応、電話をして、ユキの父親へ挨拶をした。
 ユキの父親は、「ま、籍を入れるかは任せるが、一度、ユキは家から出た方がいいと思ていたのでいい機会だとね。ま、よろしく頼む」
 あけなかた。
 なんか、期待していたものもあたが、いざとなるとこんなものかと思た。
 そういえば、それとは違う荷物も来た。
 ユキあてのペト・シプからの大きな段ボールだた。
 なんだろうと思た。
 ユキが帰てきたら、喜んで「トラちんたちが遊んでくれるとはいいわ」
 俺が訊いたら、ユキは「キトタワーよ。憧れだたの」
 いざ開梱して、組み立てると、トラたちは上下をしながら喜び遊びはじめた。
 それをユキはスマフのカメラで撮影して、インスタグラムに投稿していた。
 結構、いいね、がついたようだた。
 リビングの陽射しの入るところに置いたので、暖かい日は、トラたちはそこでよく寝ていた。
 
 そうして、俺とユキ、トラ親子の生活がはじまた。
 ネコの本を単行本化した後、文芸関係を中心に数誌からの執筆依頼もあた。
 一応、冬秋出版の編集の小川とライターの杉本女史にメールで相談した。
 小川は他誌で書くことはうちの宣伝にもなるので構わないけど、うちも引き続きお願いしますと言う返信だた。二作目は小川の冬秋出版と約束をした。
 杉本女史のアドバイスは、二作目のジンクスに気をつけてだた。
 一作目は経験だけで書けるけど、二作目はそうはいかないから、そこで売れなくなる作家が多いから、二作目は丁寧に書いてと言われた。

 ところが、小川のところから依頼されていた二作目がどうにもアイデアが浮かばない。
 なんとか、アイデアをひねり出して、五枚ぐらい書くと、なんとなく、これはだめだと思い、書くのを辞める。
 そんなことの繰り返しだた。
 それでも、依頼してきた小川は待ていてくれたが、自分の中ではあせりが出てきた。
 このまま、一作だけの人で終わるのではないかと。
 そこで、杉本女史へ相談した。

 ちと用事があたから、杉本女史も昼間にいる、ライターの仕事をさせてもらている大場もいるオフスだた。
 二人に、そのことを話した。
 杉本女史は、ちと書くことから離れてみたらいいということだた。
 大場が、そうしたら、ちとユキと旅行でも行けば、いいじないかと言うことになり、大場の知人のやている、江ノ島の民宿を紹介してくれた。
 シーズンオフだから、すぐに予約が取れた。
 大場は、ま新婚旅行みたいなものだとからかてきた。
 江ノ島かと思た。
 スタート地点に戻るのも悪くない。
 その話に素直に乗た。

#10

 大場の紹介してくれた宿は江ノ島神社の参道にあた。
 江ノ島までは、電車でユキともあまり話をせずに、窓からの風景を眺めていた。
 ただ、ユキとの関係はそういう感じで、近づきすぎず、遠すぎずで、気持ちがよかた。

 宿に着くと、和服を着た、女将が出てきた。
 和服と言ても、箱根の高級旅館みたいな感じではなく、昔の日本の母親みたいな感じだた。
 そこが気持ちよかた。
 田舎の旅館によくある玄関に熊の飾り物とかもなく、江ノ島と富士山が写ている写真と魚拓が多かた。
「大場様のご紹介の方ですね?」
 女将が尋ねてきた。
 ユキがすかさず、「今夜はよろしくお願いいたします」と言た。
「はい、承知しております。たいしたおかまいはできませんが、のんびりしてください」
 俺が、「そうさせていただきます」
 女将が「先にお部屋に入て、お茶はいかがですか?」と言うので、その通りにした。
 部屋は二階の相模湾を望める部屋だた。
 広くもなく、狭くもない。だけど清潔な部屋だた。

 窓から、ユキと海を眺めていると、女将がお茶を淹れに来た。
「いい景色でございますでし?」
 ユキが「東京湾とは違いますね」
「そうですね、相模湾は晴れの日は静かな海です」
「私と同じですね」
 そうユキが言うと、女将はくすと笑みをもらした。
 女将は俺に向けて「いい方ですね」と言た。
 俺は返答に困たが、「ま、悪い女ではないです」
 女将はお茶を淹れると、「夕食までは、時間がありますので、お散歩でもいかれるといいと思います。それでは失礼します」
 お茶は美味しかた。

 ユキと俺は二人になり、静寂が訪れた。
 ユキは「私、例の江ノ島神社に行きたい」
 俺は反論することもないので、従うことにした。

 江ノ島神社に行くと、自由猫たちがユキの足元にすりすりをしてきた。
 でも、ユキは「トラちんたちのほうがかわいいわね」
 俺は、笑てしまた。
「ユキがそんなにトラたちを好きと思ていなかたよ」
「今は、あなたよりトラちんたちのほうが好きよ」と言て、ほほえんだ。
「でも、この子たちもかわいい。あなたが、この猫たちから何かが浮かんだのがわかるわ」
「うん、自分でもそう思う。この子たち、それぞれのストーリーがあるんだよ」
「そうね」
 猫と三十分ぐらいたわむれると、ユキが「ね、おみやげ屋さんをのぞきたい」
 俺は不思議に思い、「別におみやげを買うほどではないだろ?」
「久々の観光地の旅行だから、なんて言うかおもしろいおみやげグズが見たいの」
 俺は、ユキらしいと思た。
 こういう好奇心があるのがユキだ。
「じあ、ちと宿からは遠くなるけど、歩くか」

 おみやげ屋さんでユキは、ソフトビニールのヘビや、テナント、女子の名前の書いたキーホルダーをめずらしそうに見ていた。
「こういうのて、作る人は何を考えているのかしらね
「さ? 需要があるから、作るんじないの?」
「でも、こういうキーホルダーをしている女子高生や中学生を見たことある?」
「ない」
「不思議よね
 そこで、なんか俺にひかかるものがあた。
 店を出て、外に出ると陽が落ち始めていた。

「そろそろ、夕食の時間だろう。宿に戻ろうか」
「そうしましう」

 夕食はいわゆる豪勢とは違うが、相模湾で取たと思われる魚や貝の刺身。それを、焼き魚にしたものなど手の込んだものだた。
 ユキは、満足げな顔をしながら食べていた。
 俺も、新鮮な魚で満足だた。
 女将は遠慮がちだたが、とんでもございませんと。
 大葉はいい宿を紹介してくれたと思た。

 夕食を食べると、交代で風呂に入た。
 それでも、まだ二十二時前だた。
 ちと、さき気になたことをユキに訊いてみた。
「ユキ、さきのおみやげの話だけど、需要があて、ああいうものをやぱり作るのかな?」
「うーん、難しいところね。定番てものもなんとなくあるし、いわゆるウケ狙いもあるでし
「そうか。うーん、おみやげを作る話を書いたらおもしろいかなと思て」
「いままで、あんまり聞いたことのないジンルね。書いてみたら。ボツになたらなたで、いいじない」
「帰たら、ちと書いてみる」
「旅行に来て正解だたじない」
「そうかもしれない」
 ユキは、窓から真暗な海を見ている。
「ユキ、何か見える」
「なにも見えない。でも、なにか心が落ち着くわ」
 そこで、ユキのくちびるにキスをした。
 ユキはいやがらず、俺を抱いてきた。
「今日は、ここまでよ」
「うん」
「さ、早寝しましう」
「わかた」

#11

 俺は、家に戻てから、まずインタートでおみやげ問屋のカタログを見始めた。
 こうやて、改めて調べると、おみやげにはストラプにマトにキーホルダー、さらに食料品と様々なものがあることを知た。
 だが、どうにもとかかりが見つからない。
 江ノ島で見た、ヘビのソフトビニール人形が気になてしかたがない。
 そこで、数件のおみやげ問屋にメールや電話をしてみた。
 結果は芳しくなかた。
 だが、一社、アドバイスをくれた。
「浅草橋のおもち問屋に行けば、そういうもの、まだやているかも」

 俺は、久々に多摩川を越えて、浅草橋に向かた。
 なぜか、多摩川を越えることに抵抗がなくなていた。
 しかし、おもち問屋を回ても、もう扱ていなかた。
 みな「昔はあたけど。いつごろまでやていたかな?」と言うような返事だた。
 ただ「業平から本所にかけてなら、まだ作ているところがあるかもしれないよ」とも言われた。
 途方にくれた。
 ここまで、来たことだし、東京スカイツリーに行たことがないので、なにかに役立つかもしれないと思い、スカイツリーに向かうために浅草駅に向かう途中にふるびたおもち屋さんがあた。
 入てみると、怪獣やヒーローのソフトビニール人形が多く置いてあた。
 主人に声をかけてみる。
「あのー、ヘビのソフトビニール人形はありませんか?」
「うちにはないけど、まだ作ているところが業平にまだ一軒あるんじないかな。コレクターかなにか?」
 事情を正直に話した。俺は、元来正直な人間だ。ここで嘘をついてもしかたがない。
「地図を書いてやるよ。ま、期待しないで行て来な。スカイツリーでも見に行く気分でさ」

 旧・業平橋駅。現・東京スカイツリー駅についた。
 地図を見て、その工場へ向かた。
 住宅街の中にひそりとその工場はあた。
 いかにも下町の工場と言う鉄筋の古びたビルだた。
 入り口が大きく開いていて、出入りがしやすい感じだ。
 外からなにかしらの工作機械が見えた。
 おじいさんが、入り口でオイル缶に座り一人で新聞を読んでいた。
 恐る恐る、声をかけてみた。
「あのー、ヘビのソフトビニール人形を作ていると聞いたんですけど」
 そうすると、おじいさんの顔が変わり。
「お、なつかしいな。最後に作たのは、もう何年前か忘れたよ。ただ、在庫はまだあるよ」
 正直に、「いえ、コレクターでないので、買いに来たのではなくて、作家でして取材していまして」
 そうすると、「ま、今時、あんなもの買う奴はいないよな」としんぼりした。
 俺も、だんだん取材のこつがわかてきたのか、「なら、一杯、飲みに行きませんか?」
「おにいちんのおごり?」
「もちろんです」
「かん、出かけてくる」とおじいさんは、奥の事務所らしきところに声をかけ、押上の方に行きつけの店があるから、ついてこいと言われた。

 店は渋い店だた。のれんがかかていた。居酒屋と焼き鳥屋の中間のような店だた。
 おじいさんは、「なんでも、頼んでもいい?」
 俺は、どうせ経費だから、「ええ、いいです。でも、話ができるぐらいまでにしてくださいよ」
「大将! 適当なものを二人前。あとホピー。お兄ちんは、何にする?」
 一応、取材中なので、「ウーロン茶」と言おうとしたら、「ノリが悪いお兄ちんだな。おじさん、話をしないよ」。おじいさんは案外いじわるだた。
 しかたがないので、「同じものをお願いします」となた。

 最初は、カバンの中の俺の書いた本を見せたり、江ノ島で撮た写真を見てもらた。
「お、まだ売ているところがあるのか。あれ、最後に問屋に卸したの、前の東京オリンピクの頃じないか」
「そんなに古いんですか!?」
「冗談だよ。少なくとも天皇陛下が変わてからは、卸した覚えがないんだよな」
 一瞬、平成の代替わりと令和の代替わりどちだとは思た。当て推量で言てみた。
「そうすると三十数年前ですか?」
「多分、そうだと思う。工場にも帳簿が残ていないかもな」
「ところで、あれは売れたんですか?」
「他にも、は虫類とかもあたんだよ。俺の親父がさ。もう、あの世だけどさ。ビクリグズのつもりで考えたのがはじまり。でも、売れなかた。ま、今はたまに下請けで怪獣の復刻ソフビを作てなんとか食ているよ」
「やぱり、売れなかたんですか」
「兄ちん、あれ買う気になる?」
「なりません」
「だろ。俺も親父に反対したんだよ。でも、俺も親父も職人だから、手抜きをしなかた」
「そうしたら」
「逆に精巧すぎて受けなかた」
 俺は笑てしまた。
 その後、そのシリーズのソフトビニール人形の作成の裏話をしていたら、とくに陽が暮れていた。
 おじいさんは、こくりこくりとして眠たそうだた。
 これは潮時かなと思い、勘定を払い(と言ても、チン居酒屋より安い)、おじいさんを起こして、取材は終了した。
 なんとなく、自分の中で出てくる物があた。
 わざわざ、多摩川を渡た甲斐があたものだ。
 
 その数日後、おじいさんから、ヘビとトカゲのソフトビニール人形が送てきた。
 それを見たユキは、「トラたちの遊び相手かしらね?」
 トラたちに見せたら、ユキの言たとおり、トラたちは喜んでいた。

#12

 ところで、ユキと暮らしはじめて、わかたのだが、ユキは平日に家にいることが多かた。
 かと、言ても、週末も毎週、家にいるわけではなく、出かけることも多かた。
 一緒に暮らす前は、職業を聞いたこともなかた。
 出会いは、合コンだたけれど、その時はなんともならず、その後、会社の帰り道の本屋で出会い、お茶をして、なんとなく付き合うようになた。
 その頃のユキは普通のビジネスパーソンだた。
 いつの間にかそれを辞めていたらしい。
 だから、実はユキのことを知ているようで、あまり知らなかた。

 ある日、トラたちとユキが遊んでいる時に、なんとなく今、ユキが何をやているのか、たずねてみた。
「そう言えば、話していなかたわね。再現ドラマの女優と地下アイドル」
「再現ドラマ? 地下アイドル?」
 そり、ユキは冷たい顔をしているが、美人ではあた。スタイルも、悪くはない。いや、いいだろう。
「たまに地上波のバラエテの再現ドラマに出ているわよ。ま、メイクしているし、目立たないから」
 俺は、テレビを見ないほうなので、気にもしなか
「その世界では、声がかかるほうよ」
「地下アイドルのほうは?」
「秋葉原のライブハウスで月一回ぐらいやるわ。ま、グループで一番目立たないポジシンだから。ホームページを見せてあげるわ」
 ユキはスマートフンを取り出して、俺の前に出してきた。コスプレしたユキらしき人物がいる。
「これが私の仕事。だから、平日に家にいることもあるの」
「ところで、なんで、こういうことになたの?」
「中学生の頃、読モをやていて、プロダクシンに属していたの。ま、普通の映画だと、オーン落ちばかりでね。それで、こういう仕事が多くなたの。一応、女優志願かな」
 全然、俺は知らなかた。
「女優のほうは?」
「うーん、もう面倒になた。それに、旦那さんが売れ子作家になたし」
 いつ、俺は旦那さんになたのだ? それに、まだ籍も入れていないぞ。
 それを言うと。
「え、今更捨てるの? 糟糠の妻じないの」と笑いながら言た。
「ま、世話になたことは否定しない」と言た。
「今は、あなたの作品が実写化された時に出たいわ」
「考えておく」と言た。
 そうか、今度はユキをモデルにした作品も書かなければならないのか。
 第三弾の小説のアイデアができた。

 ところで、第二作だが、自分の中でもやもやしたものはあるのだが、具体的な文章にならなかた。
 ユキに考えたストーリーを話したが、「うーん」と納得がいかない様子だた。
 とは言え、いつまでも放置しておくわけにはいかない。
 そこで、業平の工場の親子たちが製品開発をするところからストーリーは、はじまり、それを買た子供たちが仕掛けるいたずらで、親子たちが逆にもとリアルなものを作ろうとするストーリーで書いてみた。
 依頼してきた編集の小川がぼつにしたら、それでもいいと思た。
 なら、今の俺の実力はそんなものなのだ。
 それなら、専門学校の講師と大場のところでライターをやればいい。
 食うだけなら、なんとかなる。

 それで書き上げ、編集の小川のところへメールした。
 意外や意外な返事だた。
「細かな歴史考証などは、もうちとしたほうがいいかと思いますが、基本、この路線で間違いないです。最近、こういう話を書く人もいないですし、面白いと思います。ビジネス小説とも呼べる内容ですね。まずは、うちの校閲でチクをいれます」
 つまり、原稿は採用されたのだ。

 その後、校閲からチクの入た原稿が帰てきた。
 それを修正して、小川のところの文芸誌に掲載された。
 文壇の反応はイロモノ扱いだたが、読者アンケートの結果はよかた。
 そこで、営業も乗り気になり、加筆修正して単行本にしようと言うことになた。
 俺には願てもない話なので、その通りにした。
 無論、校閲の意見も反映した。
 歴史考証には気をつかた。
 そうしたら、思わぬところから反応が来た。

#13

 単行本はスローペースの売上だたが、三月で重版がかかた。
 俺も、重版作家か。がんばたものだと思た。
 肝心のストーリーだが、下町の職場で親子がソフトビニール人形界に革命を起こすべく、アイデアを練るところはじまる。そして、ヘビやは虫類の人形が産まれる。生産するために山や動物園に行たりして遠ざかていた親子の愛が深まる。はたまた、実際には虫類を買てきて、それが逃げ出しトラブルを起こしたり。ようやく売り出したら、予想以上にヒトして、男の子に受ける。それを使て、学校などでイタズラが流行り、社会問題化する。そして、親子たちは、また未来を見つけるためにアイデアを練ると言たものだ。

 で、肝心の反響だが、ビジネス小説でありながら、昭和の雰囲気がすると言うことで、中高年を中心に話題を呼んだ。
 それを書店回りしていた出版社の営業が、なにか、次の手を打とうと、映画プロダクシンの知人に、俺にサインさせて、献本することになた。
 映画プロダクシンの人は、劇場向きではないが、テレビのクールの合間にやるスペシルドラマとしては、面白いということになり、テレビ局に提案して、ドラマ化することになた。
 ただし、原作使用料はろはと言う条件だ。
 俺としては、重版がかかり印税も思たより入たし、まだ専門学校の講師も続けたはいたし、ライターも少しは仕事を減らしていたが、あたので、生活に困窮しているわけではないのでOKを出した。
 脚本の初版があがてきて、原作者チクの依頼があた。
 脚本を読んでいたら、なんとなく、下町の工場の息子の嫁にユキがいいのではないかと思た。ユキはこういうなんか尽くすタイプの嫁がいいのだ。
 ユキにも、脚本を読ませてみた(もちろん、単行本でも読んでいるが)。
 そうしたら、ユキもその役に興味を持た。
 そこで、映画プロダクシンの担当者にユキを引き合わせることにした。
 ここで、意外なことがあた。
 ユキの子役時代を知ている人だた。

 湾岸のシテホテルの喫茶店で会うことにした。
 担当者は開口一番。
「ユキちん、久しぶり? 俺、覚えている? あの頃は、新米ADで弁当を買てきたりしていたの」
 ユキは覚えていたらしく、「覚えています。申し訳ないのですが、お名前は失念しました。お顔はよく覚えています。よく、現場の人に気をつかてくれる方でしたから」
「ま、演出の才能はなかたから、それだけで今の立場になたようなものだけどね」
「そんなことはないですよ。それもいいスタフの条件です」
「先生」
 俺は、どうも作家業の時に「先生」と呼ばれるのになれていなかた。専門学校では平気だたのにも関わらず。担当は姓で呼んでくれていたし。
「最終的には、監督が決定することになりますけど、ユキちんの推薦はします。ユキちん、今でもプロダクシンには所属しているんでし?」
「ええ。プロダクシンにお願いすれば、宣材は用意できます」
「先生、私ができるのはここまでですが、私としてはプしたいと思います」
 こちらがかしこまてしまた。娘の親のようだ。
「いえ、そこまでで構いませんので。私のわがままですから」
「私は、いいと思いますよ。では、また連絡します」
 そういうことになた。

 まだ、新しいクールが始またばかりだから、企画段階でスタフが全員決まるのは一月ぐらい先と言うことで、会た後、すかり忘れて日常に戻てしまた。
 ところが一週間で出版社の編集を通して連絡が入た。
「監督が、ユキさんをオーンに呼びたいと言うことなのでよろしくお願いします」
 それをユキに伝えると、「オーンなんて、十代の時以来かしら。ま、気負わず行てくるわ」
 俺は、正直に。
「一応、期待はしている。ま、作品が売れるとこういうこともできると勉強になた。ま、気負わず行てこい」
「お! 大先生。ま、これからもドラマ化まで行く作品を書いてね」
「がんばるぜよ」

 肝心のオーンの日になた。
 俺は、ライターの仕事の締め切りがあり、オーンに父兄参観はできなかた。
 夕方、ユキからスマフに電話があた。
 画面の表示に「ユキ」と表示されたので、応答した。
 だけど、なにも音声が聞こえてこない。周囲の騒音だけだ。
 ユキはいらずらをするわけでもないし、黙て一分ぐらい、耳を傾けていた。
 そうしたら、ふるえた声でユキが、「私、オーンで選ばれた。合格したの。出演できるの」
 俺は一言「おめでとう」と言た。

#14

 ユキが出演したドラマと言うか、俺の原作のドラマは視聴率がよかた。
 それで、原作の俺の本も増刷がかかた。
 無論、そうなると出版社から三作目の執筆依頼も来た。
 だが、またもやなかなかアイデアが浮かばない。
 編集の小川とは何度も会て、相談したが、なかなか二作目を超える感じがしないと言われた。

 そんな時、普段ならユキに相談するはずだ。
 だが、ユキはこのドラマの出演がきかけで、連続ドラマへの出演が二本決定して、忙しくなた。
 家に帰てきても、食事をして、トラたちとちと遊んだら寝てしまう。
 俺とは、すれ違いだた。
 そのうち、家にも帰てこない日が出てきた。
 そんな時、週刊誌に人気の二枚目俳優とのデートがすぱ抜かれた。
 俺は、おどろいた。
 ユキが、まさか俺から、離れていくなんて考えていなかた。
 と同時に、でも華やかな世界に戻れたら、そうなるのも自然かと思た。
 と思て、家でぐずぐずしていたら、ユキの父親からスマフに電話がかかてきた。
「週刊誌を見たよ。君となら大丈夫と思たんだがな
「ええ、最近、ここにも帰てきませんし。どこに行ているのやら」
「あれ、言てなかた?」
「なんでしう?」
「ユキが、都内の撮影の時は、そちに行くより、朝、行きやすいから、こちに戻ていることを」
「はじめて聞きましたよ」
 俺は、びくりと同時に安心した。
「と言うわけで、お泊まりデートではないよ、じ
 そう言て、ユキの父親は電話を切た。
 
 それでも、ユキが俺から離れていくのはさみしかた。
 相変わらず、大場の仕事は続けていたので、杉本女史とはやりとりすることが多かた。
 なんとなくメールで愚痴を書いたら、悩みを聞いてあげるから、私と会おうと杉本女史が言てきた。
 杉本女史に甘えたくなり、代官山で食事をすることになた。
 ちと気取た店にした。
 重版作家になり、顔がメデアに出ることもあたので、落ち着けるところがいいと思たのだ。
 フレンチのコースを頼んだ。
 ワインを飲みまくり、何を言たか覚えていないが、「俺はさみしいです」「売れると人が離れるて本当ですね」みたいなことを連呼していたようだ。
 それに杉本女史に「私は離れていかないわよ」のようなことを言われた。
 
 朝、気づいたら、普段と違うベドにいることに気づいた。
 隣に下着だけの、杉本女史がいた。
 しまたと思た。
 でも、俺もスケベ心が出た。
 そんな寝ている杉本女史にキスをしたりした。
 普段はクールな杉本女史だが、肉付きはいいが、スタイルは崩れていない。
 そんなことをしていたら、杉本女史が起きてきた。
「あれ、坊や、そんなことをしていいの?」
 甘えた声を出してきた。
 杉本女史は、俺のものをくわえた。
 俺は、あという間に果ててしまた。
「はい、これですきりしたでし。家に帰て、仕事をしなさい。ちなみに、昨日はあなたと最後まで行かなかたから。期待したけど、あなたは寝ちたの」
 また、微妙な関係になてしまたものだ。
「仕事の関係はいままで通り。このことは、大場さんにも内緒よ。もちろん、ユキさんにも話してはダメ」
 俺は、「そうしましう」
「とりあえず、最後に二人でシワーを浴びようか?」
「記念ですね」
 と、そこまではよかたが、シワーをしていたら、二人ともその気になり、一線を越えて、最後まで関係してしまた。
 正直、杉本女史はよかた。
 ユキとは違う、熟した果実の魅力があた。
 反応がよかた。おとなしすぎずに。
 俺たちは、その後も本気になり、その夜も杉本女史の家に泊また。
 そして、家に帰ると、ユキが真青な顔をして、子トラを抱いていた。
「あんた、どこに行ていたの? 私が戻たら、子トラがぐたりして、親トラが鳴いていたのよ」
 俺は、いつもトラたちを連れて行ている動物病院に電話をした。
 そうしたら、とりあえず、二匹を連れてきなさいと言われた。
 獣医師が診たら、子トラは風邪をひいたようだた。
 とりあえず、入院と言うことになた。
 親トラが子トラと離されると鳴いた。
 その晩は、ユキと親トラが一緒に寝た。
 俺は、ある決心をする。

#15

 ユキが親トラを抱きながら、リビングで休んでいるところを話しかけた。
「俺、大場のところのライターはやめる。専門学校も、今回の契約更新で終わりにする。小説一本でやていく」
 ユキは、ぽかーんとした顔になた。
「それで、暮らしていけるの?」
 俺は、もともだと思たが、俺にも意地がある。
「楽ではない。でも、中途半端をやて、ユキやトラたちに迷惑をかけるわけにはいかない」
「わかたわ。私も仕事を減らして、こちに帰るようにする。ただ、当分、共稼ぎでやりましう」
 現実的な回答だ。
「それなら、贅沢はできないけど、今の生活レベルを落とすこともない。いざとなれば退職金もある」
 ユキは安心したようだ。
「あと、今更なんだけど、例のスクープ。お父さんが電話したて言ていたけど、スタフさんも一緒の食事だたのよ。単なる、打ち上げ。週刊誌のカメラマンもうまく撮るものよね」
「そうだたのか」
「だて、今更、あなたを捨てるわけないじないの。将来有望な先生よ」と、笑いながらユキは言う。
「将来が有望か」
 俺は苦笑した。
「ま、当分、今、書いているところから干される心配はないよ。依頼は続いている」
「よかたじない」
「ただな、アイデアが浮かばない」
「そこは、私が助けられないわね
「そり、そうだ。ま、編集の人もまだ新人だから、枚数を書くしかないし、それをサポートしてくれるとは言てくれている」
「なら、一生懸命、書きなさい」
「仰せのまま」と俺は言い、二人で笑た。

 それからは、ユキは毎晩、こちの家に帰てくるようになた。
 子トラも動物病院から退院して、夜は二匹を抱きながら、ユキはすやすや寝ている。
 そんな姿を見ながら、俺は、キーボードを打ていた。
 だが、どうも小川と相談すると、三作目としては弱いと言われる。
 そんな日が一月も過ぎた頃、不意に杉本女史からメールが届いた。
「どうせ三作目のアイデアは浮かんでいないでし。あの一夜のことを書いてもいいわよ。そうしてくれたら、逆に私も忘れられるし」
 俺は思案した。て、ことは、ユキには、ばれることになる。ただ、ここは杉本女史の厚意を受け取ることにした。
 無論、そのまま書くわけにはいかないので、脚色してフンタジー風にした。
 思ていたより、すらすらと書けた。
 書き上がたものを早速、編集の小川にメールを送信した。
 が、一週間が経ても返事が返てこない。
 普段なら、すぐに返事をくれる人だた。
 耐えきれず、俺から小川のいる編集部に電話をした。
「小川さん、だめですか?」
「いや、そうじないです。作品としてはいいものです。ただ、いままでの作品とカラーが違うので、うちの雑誌に載せるか、編集長と相談しています。明日には、はきりした答えをお伝えします」

 その日は、どきどきして、眠れなかた。
 大学受験の合格発表の時以来だ。

 翌日、小川から連絡があた。
「うちの会社は、純文学誌もあるのはご存じですよね?」
「ええ。芥川賞の候補とかになる作品が掲載されますよね」
「そちの方の編集部に持ていたら、掲載が決定しました」
 俺は困惑した。純文学。ライターあがりの俺が?
「あちらの編集長も評価しているので、よければ、その線で進めますが……
「はい、俺のほうは構いません」
「ほとしました。てきり、純文学はお嫌いかと思ていたので」
「いや、なんとなく書いていなかただけで、そんなことはないです。ただ、意外な気がして」
「意外に、そちらのほうが向いているかもしれませんよ。ま、社全体がドラマで盛り上がて、バクアプする気なので、お気になさらないでください。あとは、努力次第です」
「努力ですか?」
「はい。ここまで、来ただけでもたいしたものですが、本当の勝負はこれからです」
「わかりました」
 
 そうして、掲載された雑誌が発売された。
 いままでエンターテイメントを発表していた俺の転向かと言うことで、文壇で話題になたらしい。
 ただ、雑誌自体の売上は普段よりよくて、小川からはげましの連絡があた。
「もしかしたら、芥川賞の候補になる可能性もありますね」
「まさか」
「ちとカレンダーをチクしたのですが、選考のシーズンにはちうどいいタイミングなんですよ」

 そうしたら、そのまさかが起こた。
 芥川賞の候補になたのだ。
 小川から、「日本文学振興会から編集部に正式に連絡がありました。芥川賞の候補になりました。明日には、マスコミにも発表されるでしう。どうか、不祥事だけは避けてください。前回の直木賞の時とは状況が違います」
 俺は、こり、もう浮気もできないなと思たが。いや、ユキとトラたちのためへのメダルだと思た。

#16

 ところで、困たことがあた。
 編集の小川に芥川賞の選考待ちを、いざ受賞した場合に、帝国ホテルで記者会見があるので、すぐに来られるところで待機してくださいと言われた。
 小川は、今回の他の作品と比較すると受賞する可能性は高いと思うと言う。
 俺は、この家で待つつもりだた。
 この家から、首都高をタクシーで飛ばしても、日比谷の帝国ホテルまで一時間はかかる。
 それを小川に話すと、もう少し近いところはありませんかと言われた。
 ユキにそれを話してみた。
「なんなら、お父さんの会社で待機したら? ちとお父さんに相談してみる」
 ユキは、父親のところへ連絡した。
 翌日、ユキから「お父さんが問題ないて。お父さんの会社の社長も喜んでくれるから、応接を貸してくれるて」

 選考当日になた。
 ユキとユキの父親で選考待ちをすることになた。
 ユキの父親の会社は知らなかたので、ユキと電車に乗て、父親の会社へ行た。
 なんと、俺が前に在籍していた会社の高層階だた。
 エレベーターホールで、知り合いに会たりした。
 みな、「あれ、もう食えなくて、カムバク」「もう、戻る所なんてないよ」「出戻りなんてかこ悪いね」とからかていく。
 俺が、まさか芥川賞の選考待ちだとは知らなかたようだ。
 こういう世間にうといところが、あの会社のだめなところだた。
 誰も新聞なんてチクしていない。
 業界専門誌、経済紙どころか、一般紙も読んでいない。

 ユキの父親の会社へ行くと、会社の社長とユキの父親が待ていた。
 父親が開口一番「ま、エントリーされただけでもたいしたもんだよ。今日は、軽食も用意しているし、社長が小説家と話してみたいと言うことだし、リラクスしてくれ」と。
そう言われて、俺も緊張が解けた。
 ところで、なんでこんな融通を利かせられるかが疑問だたが、ユキの父親は末席だが役員だた。
 通されたのは、社長室の応接だた。
 ソフ、テーブル、本棚があるだけのシンプルな部屋だが、座たソフの座り心地がそこらのものとは違かた。
 窓から東京の湾岸が見えた。
 まさにVIPの部屋だ。
 社長が待ていて、「うちの社員の家族が世話になているので、君もうちの会社の家族みたいなものだよ、ゆくりしてくれ」
 応接の本棚を見ると、社長のインタビが掲載された雑誌などが置いてある。
 それをめくてみたら、結構、面白い話をしている。
「今度、社長さんのことを取材していいですか?」と尋ねてみた。
 そうしたら、「あまり、面白いことは話せないけど、歓迎するよ。これからは、いつでも遊びに来なさい」
 そんな感じでリラクスして、お腹が空いてきたので、サンドイチやおつまみが用意されていたので、炭酸水を飲みながら、つまんでいた。

 夕方に着き、落ち着いた頃、俺のスマフに電話が小川から着信があた。
「ああ、だめでしたか」
 てきりそうだと思ていた。あれで律儀な人だから、落ちても連絡すると言ていた。
「何を言ているのですか受賞ですよ。いますぐ、帝国ホテルまで来てください」
「冗談はやめてくださいよ」。まだ、俺は信じていなかた。
「私がこんな時にジクを言う編集者ですか、すぐに帝国ホテルまで来てください」
「わかりました」
 ユキに、「どうも俺が受賞したらしい」と言た。俺はまだ信じられなかた。
 社長が、うちの社用車を使いなさいと言い、ユキ親子と一緒に地下駐車場へ向かい、運転手に社長が指示をした。
 最後に社長が、「そうだ、今度、うちの会社の役員会で講演してくれるかな?」
 ちなみに、この会社は東証プライム上場の名門企業だ。
 また、緊張してしまた。でも、断るわけにはいかない。
「ええ。させていただきます」と答えるので精一杯だた。
 
 帝国ホテルへは、二十分ぐらいで着いた。
 車止めに小川がいた。
「待ていましたよ。私が控え室に案内します。ユキさんたちも一緒に」

 その後のことは、あまり覚えていない。
 激しいフラを浴びた記憶だけしか残ていない。
 記者会見で言うことも考えていなかたので、ただ、うれしいことと、今まで支えてくれた人にありがとうと言ただけだた。
 逆にそれがよかたようだ。
 翌日のマスコミの報道も作家らしくない、普通の人と言う取り上げられかただた。
 その日は、社長の厚意で、家まで社用車で送てもらた。
 大変だたのは、翌日からだた。
 各社のインタビなどの申し込みがいぱいだた。
 それでも、小川がコントロールしていた。
 これが、芥川賞の力か。

 夕方、落ち着いた頃、大家さんがたずねてきて、紅白まんじうを置いていた。
「この度は、おめでとうございます」
「いや、これもみなさんのおかげです」
 なにか、俺を見て大家さんはほとしたようだ。
「本当、あなたはアパートの頃から変わらないわね」
「そうですか」
「ま、お菓子は二人で食べてね」
「いただきます」
 
 ユキは、その日、ばたばたしている俺を横目に炊事洗濯を淡々としていた。
 それが、逆に助かた。
 ちんと、いつもの時間にご飯が食べられた。
 服もぱりとしたものを着られた。
 ご飯中は電話もメールも見ないことと言てくれた。
 それで、俺も必要以上にあわてなかた。

 それから、三日もすると落ち着いた。
 ただ、意外なところから、小川を通じて連絡があた。
 テレビ局から、ワイドシのコメンテーターをやらないかと言う打診だた。
 俺は断ろうかと思たが、ユキが「一応、私も芸能人だから言うけど、こういう打診は断ダメ。向こうから指名を受けているうちが華。今が旬でチンスよ。なに、半年もしたら、シーズンが変る頃に、交代の悪い方の話になるからやてみなさい」と背中を押してくれた。

#17

 実際に、芥川賞を受賞すると、予想以上に忙しかた。
 まず、毎週一回、東京のテレビ局で昼間のワイドシのコメンテーター
 これが、拘束時間が長く、放送時間は二時間だが、打合せとか移動時間で半日を越していた。
 夜の経済ニスの週間コメンテーターもやた。
 どこでも、自分で思ている以上に、意外に評判はよかた。
 ビジネスパーソンとして十年の経験があるので、過激でもないが、退屈でもない同世代の普通の人の感覚がいいと言われた。
 専門学校の講師も、まだ続けていた。
 生徒からは、からかわれもしなかたけど、あまり話題にもされなかた。
 それもさみしいが、一応、職員一同からと言うことで胡蝶蘭をいただいた。
 さらに取材やサイン会。
 もともと、もう会社員生活から離れて多摩川を渡るのをしないためにフリーになたのに、自然と多摩川を渡て東京へ行くことが多くなていた。
 執筆時間が取れないどころか、自分の予定管理も大変になてきたので、ユキが秘書代わりになていた。
 編集の小川も含めて、まずユキを通してから、俺のところに連絡が来るようにした。
 ユキはユキで、仕事を減らしたが、たまにドラマに出演することもあた。
 ユキは「いそう、二人でプロダクシンを作ろうか」と笑いながら言ていた。
 いや、あながち冗談でもなかた。
 この頃は税理士に税のことを任せていて、法人化もそれはそれでひとつの手段だろうと言われていた。
 二人であわせれば、法人化して株式会社にしてもおかしくない収入・売上があた。もちろん、消費税を納税する必要もあたあ。
 気づけば、貯金通帳に覚えのない入金があたりもした。
 それでも、ユキが不明入金を見つけることができ、俺に聞いてくるが、俺も覚えていなかたり、入金欄だけを見ても、わからないことが増えた。

 そんな時、ライター業の副編集長で大学時代の友達の大場から会わないかと言うメールがあた。
 忙しくて返信をしていなかたら、「お前、忙しそうだから、お前の家の地元に、夜、俺が行くよ」と送てきた。
 それなら、時間はなんとかなる。
 ライターの仕事を辞めて、芥川賞を受賞してから、親しい人と会ていなかたので、即、OKの返事をした。
 店も大場が探してくれて、家から歩いて行けるところの焼き肉屋だた。

 その夜が来て、焼き肉屋に行くと、大場が既に注文も済ましていた。
「よ、久しぶり。なんか、忙しいみたいだな。ユキちんもテレビを観ているとたまに気づくよ」
 大場が調子よさそうに言た。
「まな。俺もユキもお互い、ちと充実しすぎて感じだよ」
「とは言え、フリーは稼げる時に稼いでおけ。俺の知ているライターで一年間、取材して本を出すために無収入になたのもいる」
「わからんでもない」
 大場は、俺の正直なところが変わていないを見て安心したようだ。
「もと、えらい先生になているかと思たけど、そうでもないな」
「先生は専門学校だけにしておいてくれ。文芸誌の担当編集にも先生は勘弁と言ている」
「もとも。先生と呼ばれてよろこんでいる奴にろくなのはいない」
 大場も以前と変わらず接してくれる。
「ところで、お前にうれしいことがあたが、俺にもうれしいことがあた」
 俺はなんだろうと思た。
「執行だけど役員になることになた。あそこの副編集長から離れて部門長になる。今度はコンテンツセールスの部長で執行役員だ」
 正直な気持ちでおめでとうと言た。
 ただ、疑問があた。
 編集長になるのが、組織的な筋だと思た。それを訊いてみた。
「うん、それはうちの事情があてだな。編集長がメデア統括、書く方の執行役員になる。で、うちはうちで前から、コンテンツを外販したかた。それで外向けには看板は立派なほうがいいだろうと執行役員だ。給料はたいしてあがらんよ。ま、将来的にはもと経営にかんで欲しいとはなんとなく言われてもいるが」
 なるほどと答えた。大場のことはまた違う物語として書きたいと思ている。
「ありがとう。今日は、その報告がひとつとお願いがひとつ」
 お願い? なんだろうと思た。
「で、編集長が編集長とメデア統括の執行役員との兼務は忙しいから、後任の編集長を探している。それで、杉本さんにしようと思ているが、これを本人が納得してくれなくて」
「ま、社員の身ではないしな。遠慮はあるだろ」
「とは言え、あのメデアの書き手で一番古い人だし、会社としても、若手に任せるよりはいいと言ている」
「で、まさか?」
「そう説得してくれないかと思て」
 あの夜のことは、大場は知らないはずだ。
「俺以外にいないの?」
「そり、お前の忙しさはわかているから、いままでは頼まずに他の人に頼んでいた。だから、お前は必殺兵器」
「ソーラーレイみたいなものか?」
「そり、威力があるけど、最終的には失敗だろ。芥川賞の先生のレトリクとしてはいまいちだぞ」と、大場は言て笑た。
「ま、事情はわかたが。うーん」
「お前もやりづらいだろうけど、杉本さんはお前のことを買ていたからな」
 大場の立場も事情もわかる。しかし、再び、杉本女史に会うと言うのも。
「ちなみに、ユキちんに頼んで、もう会合はセングしておいたから。俺の会社の経費でオーンビのレストランを予約した」
 おいおい、ユキ、なにをやる。ここまで来たら、引き返せない。
「わかた。これで、会社を辞めた時にライターで雇てもらた貸しはちらだからな」
「それぐらい安い。おつりが来る」

 そして、杉本女史と再び会う夜が来た。
 レストランへ行き、受付のフロアスタフに予約の旨を伝えると席へ案内してくれた。
 今日は、ちんとしたジトを着ていた。
 ユキに言われたとおりにしてよかた。
 レストランの雰囲気にあていた。
 通された席には、女性が座ていた。
 たしかに杉本女史だ、しかし、なにか違う。
 髪を切て、軽く染めていた。
 いままでしていなかた、ピアスもしていた。肩を出したドレスを着ていた。
 俺が、ぽかーんとしていると、向こうから口を開いた。
「お久しぶりです。この度は、おめでとうございます」
  杉本女史の手元には、俺の芥川賞を受賞した本と、色紙があた。

#18

 俺が椅子に座ると、杉本女史から口を開いた。
「あの厚かましいお願いですが、サインをください。あと、ユキさんもフンなのでお願いします」
 俺は、まさか、あの杉本女史から、こんな言葉が出るとは思ていなかた。
 杉本女史も恥ずかしそうな様子だ。
 俺は遠慮がちに。
「いや、別段、構いませんが、そんなに二人とも、たいしたことないですよ」
「そんなことありません。て、実は、実家の母に頼まれたのでした」
 ちと、ほとした。やぱり、いつもの杉本女史だ。
「いや、母とちとメールをしたら。なにせ地方の人なので」
 俺は断る理由もないので、ボーイを呼んで、マジクペンを持てきてもらい、本にサインをした。
「ユキのサインは、帰宅したらしてもらうので。編集部のほうへ郵送します」
 そうしたら、杉本女史の表情が変わた。
「今日、こういう席を設けてもらたのは、その編集部のことなんです」
「大場さんから話はなんとなく、聞いています。編集長に昇格だそうで」
「ええ、思てもいない話でした。フリーで入た私を編集長に抜擢してくれるなんて、ただ……
「ただ?」
「実は、今、大手のWeb制作会社からもヘドハントされていて」
「そり、たいしたものだ。さすがは、杉本さん」
 杉本女史は、苦笑した。
「ま、そうなんですけど、大場さんには、作家で食べられない時期に拾てもらた恩もあります。ただ、ヘドハントのほうは、年俸制ですがかなりの額を提示していただいて。それでどちらがいいかと思い、相談してもらおうと」
 なるほど、大場が話さなかた、こういう裏があたのか。
 ま、俺がわかることをアドバイスするしかない。
 杉本女史は、ヘドハントしてきた会社を言た。
「俺はそのヘドハントしてきた企業を新聞レベルでしか知らないです。だから、大場の話になります。あれはあれで、大場は失敗しても必ずケツを持ちます。仮に、杉本さんが編集長でうまくいかないことがあても、自分なりの責任と言うか助けを出します。だから、編集長になても、怖がることはないです」
「やぱり、そうですよね。大場さんは、理想てほどでもないですけど、私も信頼しています」
「ただ、新しい企業になると、必ず成果を出さないといけないです」
「それはそうよね」
 心配そうな表情をする杉本女史。
「ところで、杉本さん、また小説を書きたくなているのではないですか?」
「え!? なんで、わかたの?」
「なんとなくですが、ちとイメージチンジをしたりしていたからです」
 杉本女史はまいたなと言う表情をした。
「そうなの。あなたを見て、ちとそういう気も起きてきて。それで、ちと外見からチンジしてみようかと」
「大場は、それに関しても協力すると思います」
「そうね」
「ところで、聞きづらいのですが、編集長の給与は安いのですか?」
「いえ、編プロとしては平均的なところ。生活に困ることはないわ」
「もう、杉本さんの中で答えが出ているのではないですか?」
 杉本女史は安心した顔になた。
「そうね。なら、お願い。また、ライターとは言わないわ、うちのメデアで書いてね」
「ええ、いいです。今の忙しさもいつまでも続かないでしうし、杉本さんとも元の仲に戻れたので、作家として次は書かせていただきます」
「ギラはいままでのままよ」
 微笑しながら、杉本が言う。
「勘弁してくださいよ」
 その夜はペリエで、食事を食べ、アルコールは飲まなかた。
 杉本女史には、タクシーを呼んだ。
 税理士にも、経費をある程度使ていいと言われているので、そうすることにした。

 翌日、大場からスマフに連絡があた。
「さすが、俺の見込んだだけではある」
「どうなた?」
「朝一番で編集長の職を受けると言てきた」
「それはよかた。と言うより、お前、そうなることはわかていたんだろ?」
「まな。俺も伊達に社会人を十年やていないよ。ただ、最後の押しが欲しかた」
「それで俺を使たわけか」
「そういうこと」
「ま、杉本さんも一皮むけるチンスではないかな」
「俺も、そう思う。小説家として、もう一回やる気もあるようだし」
「そこまで、読んでいたか?」
「なんとなくは感じていた。ただ、それでうちを辞めることになても、俺はうれしい。いつまでもうちで埋もれている人ではないと思ている」
「お前、いい奴なんだな」
「俺も大人になたんだよ」
 こうして、杉本女史の件は解決した。

 さて、俺が忙しくしている時、ユキの父親から連絡があた。
 ユキを介さず、俺に直接だ。
「ちと、相談があるのだけど、会えないだろうか?ユキを抜きで、君と二人だけで」
 とうとう、その時が来たか。覚悟はしていた。

#19

 ユキの父親が、うちにやてきたのは、連絡のあた週末だ。
 ユキの予定を聞いて、ユキのいない時を調整したらしく、在宅していたのは俺一人だた。
 玄関を開くと、トラたちが父親へ寄ていく。
 トラたちは、人慣れしていて、宅配便の人が来ても同じようになる。
 だが、父親は様子がおかしい。
 怖がているようだ。
「ちと、外で話せないかな?」
 俺は、あれと思たが、一応、恋人の父親の言うことだから、聞いた。
「じあ、すぐ近くに喫茶店がありますので、そこにしましう。うちはちらかていますしね」

 喫茶店へ行くと、着席するなり、父親は落ち着いた顔をして、お冷やをぐと飲んだ。
 そうすると、「もう、言うね。実は、今の私の家を二世帯住宅に建て替えようと思ているんだよ」
 俺は、はと答えた。
「君もユキも忙しいし、何か手伝えることはないかと思て。あ、別に籍をいますぐ入れろと言ているわけではないよ」
 悪くない話だ。ユキとのこともそろそろと考えていた。ただ、なにかタイミングが見つからないだけだ。
「ただ、私は猫アレルギーなんだ。今更、猫と一緒に暮らせないんだよね。君たちも、猫たちと離れられないだろ」
「もちろん、そうです。もう、家族ですから」
「そうだよな。だから、このプランはあきらめるよ」
 あれと、思た。が、安心もした。
「ご心配ありがとうございました」
「いや、ユキの親なりにしてやれることはしてあげるよ。ただ、猫はな
「ま、お父さんだから、言いますが、今は忙しいですけど、東京に住む気はないんですよ」
 ユキの実家は東京にある。
「それはなぜ?」
「お話していなかたかもしれませんが、会社を辞めたのも、もう多摩川を渡て、通勤するのがいやで」
「なるほど。気持ちはわかるよ」
「ありがとうございます」
「じあ、このことはユキには内緒で。おせかいな父親とは思われたくないからな」
「はい」
「ところで、ユキのことはどう思ている?」
「ま、今はお互い多忙ですから。落ち着いたら、ちんとしようと思ています」
「それなら、私から言うことはこれ以上ないよ。ただ、一緒に住みたかたな。私は、息子ができるのを楽しみにしていたんだよ。君のことは、結構、好きなんだ」
 俺には、意外だた。
「ありがとうございます。ユキさんのことは大切にしていきます」
「うん。それ以上のことは二人の問題だから俺からは何も言わない」
「見守てくれて、ありがとうございます」
「いや、君が会社を辞めた時、どうなるかと思たけど、なんとかなりそうだしね」
「ユキさんには、お世話になています」
「じあ、私は、このまま駅へ行て帰るよ」
 そういうと、伝票をつかみ、レジへ向かた。
「あ、ここは俺が支払いを」
「なに、たまには親らしいことをさせてくれ」
「ごちそうさまです」
「ところで、なんで猫アレルギーなんですか?」
「どうも、猫の目が苦手で。あの細くなた時が怖くてね」
 なんということだ、あれがかわいいのに。

 そうか、ユキの父親もそれなりに考えていたのか。
 さて、ユキとの関係も考えないといかない。
 もう、籍を入れて、式を挙げることには抵抗はない。
 ただ、ユキも土日に撮影などがあり、俺は、土日も仕事をしている。
 そうすると、今の状態で二人と周囲とぴたりあた、式のスケジルを立てるのは無理だ。

 その夜、ユキになんとなく、そのことを尋ねてみた。
「な、ユキ、籍だけでも入れるか?」
「うーん、あんたがそういうなら別にいいけど、役所へ行ている時間はないわよ」
「そうだよな」
「まさか、あんた浮気とか」
 杉本女史とは一夜だけのことだ、黙ておこう。
「いや、俺も稼ぎが安定してきたし、そろそろかなだと思て」
「あ、そういうこと。私は、気にしないわよ」
「サンキ
「でも、式を挙げるなら、友達が厨房をやているレストランでウングがいいわ」
「そんな友達がいるのか?」
「うん、小中高と一緒だたの。イタリアまで修行に行て、それだけに料理は美味しいわよ。今度、食べに行く?」
「行く」
「派手な式をやると、これでも一応芸能界にいるから、いくらかかるかわからないし」
「俺も、出版関係者に大場のところ、専門学校の人たち」
「よね
 二人でため息をついた。
「派手婚は、私は好みではないし」
「同意」
「ま、今の関係で不満があるわけではないし、そのことはもうちと落ち着いたら考えましう」
「そうするか」
 ユキもそれなりに考えていたのか。
 ところが、思わぬことで式をやることになた。

#20

 俺が、ユキと出会たのは、湾岸にある会社でサービス開発をやていた頃だ。
 入社して、丸一年になろうとする冬と春の間の季節。
 会社の業績を左右することをやるだけに、サービス開発の仕事は、それなりにストレスがあた。
 仕事のために、いろいろと勉強しなくてはいけないと思い、金曜日の帰りになると、八重洲ブクセンターに寄ていた。
 会社の近くから東京駅までの都営バスが出ていたので、便利だた。
 なんとなく、丸の内のオアゾの丸善より、八重洲ブクセンターの方が好きだた。
 
 いつも、ビジネス書のコーナーでまずは新刊をチクしていた。
 ネトはもう当たり前の時代だたが、電子書籍はまだなかた。
 新聞の書評で取り上げられたものを中心に一度行くと二冊ぐらい買ていた。
 コミニケーンからビジネスメソドの本まで、幅広く読んでいた。
 サービス開発をしていたので、トレンドが書いてある新書は特によく読んでいた。

 ユキに会たのは、新聞に連載されていた小説が加筆修正で単行本化されると言うことで、珍しく文芸書のコーナーに足を踏み入れた時だ。
 買おうとしていた単行本を手に取た後、久しぶりに文芸書のコーナーに来たので、今は、どんなものが流行ているかと平積みを眺めていた瞬間だ。
「あの、この前の合コンで一緒だた方ですよね?」と声をかけられた。
 ユキとは、ここで会う前に合コンをしていた。
 会社の同期が主催する合コンだた。
 普段は、まだ新人だけに雑用も多く、残業が多かたが、その日はたまたま残業もなく、その合コンの人数が足りないと言うことで、帰ろうとしているところを誘われた。
 俺は、あまり飲みニンが好きではないので、普段は会社の連中とは飲みに行くことはなかた。
 ただ、同期からということもあり、しかたがなく付き合た。
 その合コンは、月島のもんじでやた。
 もんじと言うこともあり、たまにはいいかとも思た。
 粉モノは好物だた。
 これがカジアルイタリアンやフレンチだたら、家に帰ていただろう。
 その時は、四対四の合コンだた。
 女性陣のことは、その店に入るまで聞いていなかた。
 店に入て、女性陣は高校の同級生同士だと知た。
 女性陣のリーダーと男性陣の主催者が同じ高校だた。
 
 ユキの第一印象は、とにかくおとなしくて気の利く娘だた。
 アルコールもあまり飲まず、会話をするわけでもなく、たんたんともんじを食べていた。
 俺は対面に座ていたが、会話のきかけもつかめず、たまに、もんじをお皿にもらていたりした。
「おかわり、いかがですか」
「お願いします」
 そんなことしか、話さなかた覚えがない。
 それは、ユキも同じようだと思ていたが、後で聞いたら、この時に、なんとなく感じるものがあたと言うか、俺に好感を持たらしい。
 その晩は、二次会には出ず、帰宅した。

 八重洲ブクセンターで会たのは二回目と言うことになる。
 合コンから、三月ぐらい後のことだた。
 春と夏の間の季節だ。
 ユキから声をかけられて、俺は一瞬、誰だと思たが、ユキが「もんじを一緒にしましたよね?」
 それで、思い出した。
「思い出してくれましたか!」とユキはうれしそうに言た。
 ユキは、大きな紙袋を手にしていた。
「わたし、今日はちと多く買たので、ここの喫茶店のサービス券をもらて、これかららお茶をしようと思ていたのですが、二人で行きませんか?」と、お茶を誘われた。
 ここで無下にするのも、男としていかんと思たし、この子がどんな本を読んでいるか興味があたので、お茶をすることにした。

 中二階にある喫茶店へ入り、二人ともアイスコーヒーを頼んだ。
 まだ、夏ではないが、その日は暖かい日だた。
 ユキは、八分袖のブラウスに、紺のロングスカートとガーリーなスタイルだた。
 俺は、会社を出る時に暑いので、ネクタイをはずしていた。
 
 最初の一言を発したのは、ユキだた。
 思えば、この時から、ユキにリードされていた。
「どんな本をお買いになたのですか?」
 この時は、やけに丁寧な言葉づかいの子だと思たが、いまでも、外ではそんな感じだ。
 俺の前だと、東京の山手生まれのわりには、下町のほうの人のようになる。
 本人に言わせると、「あんたは田舎者だから山手て言いますが、赤坂や青山じないから下町」と否定すると言うか、太平洋戦争で山手空襲より前に焼け野原になていたところとか、俺にはよくわからない言い方をする。

 俺は、買た本を一冊ずつ、ユキに見せながら、テーブルの上に重ねていた。
 ユキの反応は悪かた。
「なにか、意外に思ていたより、平凡な本を買ていますね。もと、骨のある本を読んでいるかと思ていたのに」と。
 俺は、その時は新人と言うこともあり、よく上司に似たようなことをされていて、慣れていたので、別に気分を悪くするわけでもなく、ユキが買た本も見せてと軽く言た。
 もう、この頃から感覚が麻痺していたと思う。
 ビジネスパーソンとしての自分が軽く見られても平気な感覚に。
 ユキは、そこを見抜いていた。
 ユキは、俺のそこを変えてくれた。

#21

 この時のユキは、よくわからなかた。
 自由猫のようだた。
 こちらから近づいて行くと逃げ、逃げると追いかけてくる。
 ユキに、訊いた。
「なら、君はどんな本を読んでいるの?」
 ユキは軽い声で答えた。
「女性に読んでいる本を訊くなんて、デリカシーがないです。内緒です」
 これには、まいた。
 逆に魅力的なところを見せられてしまた。
 ユキと付き合う前に、彼女を知る女性に恋愛歴を訊いてみたことがある。
「あの子は、子供の男女の恋愛はないけど、大人の男女の恋愛は少なくないのよ」と言う話だた。
 ユキは、男性と言うものをよく知ているようだた。
 女と言わず、女性と言うユキに、逆に俺は興味を持た。
「うーん、まいりました」
 ユキは、笑いながら。
「私のそこを見抜けるようになれたら、男性として一人前になれますね」
 ユキは、トートバグから、名刺入れを出してきた。
「会社用ですが、ここに、それがわかたらメールしてください」
 そう言て、彼女は席を立た。
 俺は、後を追いかけようと思たが、それは野暮ぽいのでやめた。
「じあ、わかたらメールをします」
 と答えた。
そうすると、ユキは。
「メールを楽しみにしています」と微笑した。

 俺は、なんとなく、もう一度、ユキのいた文芸のコーナーに足を向けた。
 あの子の読みそうな本は何かと探してみた。
 イラストのかわいい表紙の本はないだろうと思た。
 と言て、男性向けの経済や歴史小説も違う。
 海外文学のコーナーへ向かた。
 そこで、何冊か、立ち読みをしたら、ピンチンを手に取ていた。
 吸い込まれて、何冊かレジへ持て行ていた。
 もう、ユキのことはそちのけで、帰りの電車で読書をしていた。
 ピンチンは、中途半端な長さではないので、その晩では読み終わらず、五日後に読み終わた。
 当然、会社はサボリーマンした。
 その間、ユキのことは忘れていた。
 ユキのことを思い出したのは、ピンチンを読み終わてからだ。

『俺は、そもそも彼女の読んでいる本を推理するのが目的だた』
 俺の手段と目的が、ごちごちになることは当時から、よくあた。
 そこで、なんとなく「海外の現代文学を君は読んでいる」と書いたメールを、家のMacのプライベートのメールアカウントから、もらた名刺のユキのメールアドレスへ、夜に送信した。
 翌日、会社から帰宅して、メールをチクすると、朝にユキが返信したメールがメールボクスへ入ていた。
 こんな感じだた。
「いい線です。でも、そういう見方をする人に、私は好感を持ちます。思た通りの方です。もう一度、お会いしませんか?」
 そういう感じで、ユキと付き合いはじめた。
 結局、ユキの好きな作家は、村上春樹だた。
 1Q84がベストセラーになていた時代だ。
 俺も、その後に読んだ。

 ユキとのデートは映画が多かた。
 ユキはそんなにマニアクな趣味ではなく、ハリウドの派手なアクシンも好んだ。
 映画館は、有楽町が多かたが、たまに俺の家から近くの港湾地域の映画館にも足を運んだ。
 映画を観た後、埠頭や海の見える公園を歩いた。
 ユキも海の見えるところは好きだた。
 ユキは海を見ると、かならず言た。
「海が見えると心が晴れやかになる。二人で見られると、さらに勇気もわいてくる」
 ユキはユキで当時、悩んでいたらしかた。
 そのことの詳しい原因は、俺は知らないし、いまだに聞かないでいる。
 
 そうやて、デートを重ねるうちにユキは会社をやめていたらしかた。
 これは、俺の家に泊まるようになてわかたことだ。
 平日、俺が出かけた後に俺の家で掃除や料理を準備していて、なにげなく訊いたところ、会社はやめたとのことだた。
 俺は、会社をやめてもユキはユキだたので、気にしなかた。
 別れるには、既に愛しすぎていた。
 会社がユキを決めるのではない。
 どこにも所属していなくても、俺は俺だ。
 そして、ユキはユキだ。

 この頃はだんだん、江戸子口調で俺に接して来るようになていた。
 それが心地よいと思うようになていた。
 猫が皮を脱いでいた。
 江戸子口調で、ますますほれた。
 ユキと付き合たことで、俺は変わた。
 ユキはユキで、俺と出会たことで、地下アイドルと再現ドラマの女優をやりはじめて、夢を追いかけはじめた。
 ユキが言うには、どこの世界でも、自分を大事にしてくれる人がいる、帰れるところがあるなら、なんでもできると思たと。

#22

 ユキがいきなり、結婚式をあげようと言てきたのは、ユキの父親と会てから、一月後のことだ。
 ユキは、「ね、結婚式をしない?」と、突然、夕食のカレーを食べていると話してきた。
 ユキのカレーはタマネギをよく炒めていて、俺の好物だた。
「こら、結婚式は遊びじないぞ」
「そうよね。当たり前ね」
「ところで、またどうして?」
「いや、前に話した同級生のシフの子が、自分の店を構えることになたから、最初に派手なことをやりたいて相談してきて……
「うーん、それで結婚式か。割引とかあるの? 冗談だよ」
「いや、開店資金できうきうだから、それはないのよ。ただ、なにか応援してあげたくて」
 俺は、その気持ちがわかた。
 俺が会社を辞めた時、ユキが専門学校の講師の職を、大葉がライターの仕事を紹介してくれたから、ここまで俺は来られた。
 今度は、その気持ちにお返しする番だ。
「ユキがやりたいと言うなら、構わないよ」
 ユキはびくりした。
「え、本当!? あとでダメとか言わないでね」
「ま、俺はあまりわからないから、ユキに全部、任せることになるけど、それでも構わないのなら」
「いや、その子はその子で考えているプランがあるみたいで」
 ユキは、寝室に行た。
 そして、カバンからA4のイラストが描いてある用紙を持てきた。
「こんなプランなの」
 それには、料理のメニや段取りが書かれていた。
「ここまでできているのなら、俺たちがやることはあまりないな」
「そうでし。だから、今回はいい機会かなと」
「俺が小説一本で食ていくことも、みんなに言う機会だな」
「そうね」
「ところで、あんた、前の会社の人は呼ぶの?」
 ユキは痛いところをついてくる。
「うーん、もう付き合いもないし、あそこはいいだろ」
「そうね。そうしたほうがいい」
「それより、大場とか学校の人とか、苦しい時を助けてくれた人たちだ」
「私も、そう思う」
「ユキはどんな人たちを呼ぶんだ?」
「学生時代からの友達と、秋葉原の人たち」
「親戚は?」
「うーん、それはそれで面倒だからいいわ」
「俺も、そうだ」
「それで式の日程は?」
「二月後にオープン予定」
「それだけ時間があればいいだろ」

 と言うことで、俺たちは結婚式を挙げることになた。
 と言ても、ユキの友達にお任せプランだたので、後は招待する人を俺たちは決めるぐらいだた。
 二人で、そのレストランへ行たのは、式の二週間前で、店内の造作ができあがて、料理のメニを確かめるためだた。

 モダンなイタリアンのコースだた。
 肉、魚、野菜とバランスよく組んでいた。
 ワインもリーズナブルな、口当たりのいいものを用意してくれた。
 店内は、柱が少なく、その友達がセングしてくれたレイアウトだと、来賓を見るのに死角がなかた。
 つまり、俺たちは見られている。
 それを、そのユキの友達に言うと。
「ユキはなれているけど、旦那さんは、恥ずかしいかもしれませんね」
「そうね、サングラスでもする?」
 ユキは冗談を言た。そこで俺は冗談で。
「なに、売れ子作家になるためには、こういうことに慣れておかないと」
 友達は笑いながら。
「ユキは頼もしい方と一緒になりましたね。は、うらやましい」
 その子はため息をついた。
「そうよ、うちの人は、前途有望よ」
「将来、このお店が歴史の教科書に載るかしら」
  
 そうして、結婚式の日を迎えた。
 結局、両親とお互いの家族、あとは近しい人で、全部で三十人くらいになた。
 それで、店はいぱいだた。

 思い出ビデオとかは、お互いに遠慮し、媒酌人や仲人もいなかた。
 一応、二人ともレンタルだが、俺は白のタキシード、ユキは白のドレスに身を包んだ。
 司会は、ユキのプロダクシンに所属するアナウンサーにお願いした。
 その方は、キリアもあり、結婚式の司会の経験もあたので、すんなり式は進んだ。

 俺の挨拶になた。
「今日は、ありがとうございます。実は、まだみなさんに話していなかたのですが、これからは小説だけを書いて、二人でがんばります」と言た。
 会場が静また。
 そこに、俺たちの座ている壇上へユキの父と俺の父が駆け寄てきた。
「よく、その気になてくれた。ユキのためにもがんばて、書き続けてくれ」
「お前は、昔からひとつのことに集中できないと思ていたが、ユキさんのおかげでここまで」
 俺の父が、ユキの父へ握手をした。
 それを見て、会場が握手で包まれた。
 そこでユキがマイクを取り。
「実は、私、フランスに行くことになりました」
 あれ、俺も聞いていないぞ。
 ユキ、どうしたんだ?

#23

 ユキは、俺のほうへ向いて、申し訳なさそうに言た。
「ごめんね、黙ていて。実は、この式の打合せの最中にあた話なの。それで、話をしづらくて」
 俺は、頭の中が混乱していたので、グラス一杯の水を飲んだ。
「いや、いつもユキは唐突だから。まず、会場の人へ説明してあげて。俺へは、後でいい」
 ユキは、頭を前へ向けて、話をはじめた。
「いえ、新婚旅行も予定していなかたので、予定を入れました。フランスに行くと言ても映画のロケで二週間です。行たままになることはないです」
 なんだ。それなら、祝てやろう。
 ユキの友達たちが、拍手をはじめた。
 そして、会場いぱいに拍手が鳴た。
 司会が、落ち着いて。
「それでは、新郎から、お祝いの言葉を」
 俺は、マイクを取た。
「ええと、俺もはじめて聞いたのですが」
 そこで、笑いが起こた。
 笑いを取る気はなかたのだが。
「ユキのいままでのがんばりが認められて、夫としてはうれしいです。あとは、俺がもと売れれば」
 ユキが俺を見つめながら言た。
「大丈夫。あなたの書くものは、売れなくても、私が好きよ。私が好きならいいじない」
 これにはまいた。
「そうですね。愛してくれる人が気に入てくれるなら、それにこしたことはありません。今後も、みなさんに愛される作品を書いていきます。夫婦ともどもよろしくお願いいたします」
 そこで、一旦、俺たちは退席して、式は終了となた。
 控え室に俺たち二人と俺の両親とユキの両親が来た。
 ユキの母親が、俺に話しかけてきた。
「すいません、いつも、突飛なことばかりする娘で」
 でも、俺はそんなユキのバイタリテが好きなのだ。
「いえ、そんなところが好きなんです」
 ユキは照れながら。
「ありがとう」と。
 俺の父親は、「そんな大層な女優さんをもらうほどの甲斐性が、これにあるとは……
 ユキは、父親にやさしいまなざしで。
「いえ、この人と一緒にいたからこそです」
「そう言てもらえると父親冥利につきます」
 そこへ、レストランの人が来て、「では、お送りの挨拶をお願いします」
 みなで来賓のお送りに出た。
 来賓の方々は、俺もユキのことも励ましてくれた。
 いい仲間を持たものだと思た。
 そうして、結婚式は終わた。

 ユキがフランスへ旅立つのは、結婚式の夜の一週間後だた。
 その間は、二人とも家で結婚前と変わらない、なんともない日常を過ごしていた。
 俺は、書きものをし、たまに出かける、ユキは家事をやる。
 そんな日常が好きだた。
 
 ある時、子トラが三毛の恋人を連れてきた。
 美人の三毛猫だた。
 ユキは、その三毛にご飯をあげた。
 子トラは、三毛と寄せ合い、日だまりでよく寝ていた。
 ユキは、その二匹を見ながら、言た。 
「たちも、こんな感じでいたいね」
「ああ、そうだな」
「じあ、私たちも庭へ出ましうか」
「おいおい、子トラを邪魔するのは野暮だぞ」
 ユキは微笑を微笑みながら言た。
「いいじない! しましうよ。子トラも彼女も喜ぶわよ」
 ユキは、古いビニールシートを押し入れから出してきて、庭に広げた。
 ユキは、体育座りをして、俺を待ている。
「しうがないな」
 俺は、庭へ出て、ユキの隣に座た。
 ユキはレギンスをはいていた。
 子トラカプルは、そんなユキの足元をまくらにして、寝始めた。
 気になていることを聞いた。
「フランスへ行くのは賛成だけど、どんな映画に出るんだ?」
「うん、恋愛映画……
 そこまで言たところで、俺は口を挟んだ。
「おいおい、ヒロインか!」
 俺はびくりした。
「話は最後まで聞いてよ。そのカプルがデートで行……
「行た?」
 ユキはため息をついた。
「デートでコスプレのフステバルを観に行くのよ。そのコスプレヤー
「また、地味な役と言うか、なんというか……
「そうなのよ」
「で、なんでわざわざユキが?」
「監督がなんでも重要なシーンだから、こりたいらしいんだて」
「なんか、スタートレクのジジ・タケイみたいだな」
 俺は笑た。
「笑わないでよ。私だて、ヒロインをやりたいわよ」
 ユキもつられて笑みをこぼした。
「ま、私もこの前はヒロインになれたけど」
 ユキのこういうことを言うところが好きだ。
 結婚してよかた。
 いい妻と一緒に暮らしている。
 子トラと三毛のカプルと同じだ。
「で、なんのコスプレをするんだ?」
「美少女が五人組で戦う奴の青」
「ああ、あれか。青か」
「うん、青」
「また、微妙だな」
「でし。でも、黄色とかはイメージ通りの子がすんなり見つかたけど、青はいなかたんだて」
「そり、青はな
「でし
 たしかにユキのイメージには近い気もしているが、なんとなくユキの好みとは違う気もしていた。
 ユキはクールだが、もうちと前向きなところがあり、黄色に近い。
 リードしていくタイプだ。
「ところで、またなんでコスプレなの?」
「うーん、そこは話がややこしいの。クールジパンと言うの?」
「ああ、知てはいる」
 これでも、俺はサービス開発をしていたから経済新聞は読んでいるので、それくらいは聞いたことがある。
 クールジパンとは海外での日本のコンテンツのことで、官公庁がコンテンツ輸出のために様々な活動をしていた。
「その関係の資金が入ているらしいの。フランスでは結構、人気のあたアニメでし
「それは聞いたことがある」
「それで」

 えーと、私には珍しく作者が顔を出します。
 この作品とは九十年代のはじめに放送されたあれです。
 著作権的にまずいので、ぼかしています。
 青はクールだけどボケている、あの人気のあたキラクターです。

「ところで、それは日本で公開されるの?」
「一応、公開するみたい。ま、単館系だけど。試写会は来てよね」
「もちろん、楽しみにしています」

 ユキがフランスへ行く時は、俺は専門学校の授業があたので、空港までは行かなかた。
 ユキも結婚したせいか、今更そんなことまでしなくてもいいと言い、ユキの母親が車を出してくれた。

 ユキとは、フランスにいる間は、結局、メールのやりとりもしなかた。
 連絡がないのはいいことであるし、いままでもあまりそういうことをしていなかた。
 実際のところ、ユキの母親が毎朝、電話をしていたことを、ユキが帰国後、言ていた。
「ま、私は旅行気分だたのにね」
「親は大切にしろよ」
 なんて会話を交わした。

#24

 ユキが帰国してから、撮影の様子を聞いてみた。
 意外とご機嫌な感じだた。
「どうせNGばかりだたんだろ」
「そんなことないわよ。一応、私だて映画はあまり出ていないけど、女優のはしくれなんだから」
「向こうで言葉は大丈夫だた?」
「それが、なんか向こうの日本アニメのマニアの女の子がスタフにいて、日本語の通訳をしてくれたから、なにも困らなかた。いや、困たかな」
「困た?」
「うん、私よりそのアニメに詳しいの。だて、私がそれを観たのて、CSの再放送のはず。それも小さい頃」
「あはは、そり、面白い」
 ユキは、ふくれ顔になた。
「笑い事じないわよ。そのおかげで厳しい演技指導だたのよ。ま、衣装もその子がサイズ合わせとか丁寧にしてくれて、楽しくもあたけど」

 映画が日本で試写されるまでの間、俺は、徐々に専門学校の仕事とライターの仕事を、後任の人に引継をはじめていた。
 専門学校の講師は、そこの学校のOGがなることになりスムースだた。
 在校中に俺ではない講師だが似たようなカリキラムを受講していた。
 後任のライターのほうはいたが、編集長についた杉本女史が、「あなたほど書けるようにするのはちと一苦労ね」と言いはしていたが、杉本女史は編集長としてだんだんと力がついていた。
 俺から見ると、むしろ杉本女史が俺の親友の大場が言ていたように編集長に適任で、それがうまく回りはじめていた。
 実際、杉本女史から連絡があり、大場のことを尋ねると、数字を出しはじめ、皮肉なことに、それが他の役員からねたまれるぐらいよとのことだた。 

 試写が行われたのは、だいたい引継が終わり、小説に専念をはじめた頃だ。
 小説の仕事も、いばるほどの原稿料ではないが、相場に見合たもので、掲載後、単行本化もされるものだた。
 そのため印税の収入もあた。
 経済的には、考えていたほど深刻にはならなかた。
 ユキは端役だが、ぼちぼち地上波ドラマにもクレジトされていた。
 そんな時に、日本語版のその映画のサイトができてユキが話題になた。
 俺は、試写を見たとき、そう言えば、ユキが秋葉原で地下アイドルをやていた時、こんな感じだたかなと思た。
 もとも、ユキのステージを見たのは、ユキに仕事を聞いた時、渋々、スマフの画面でちことだけ見せてくれたときぐらいだた。
 俺もサラリーマン時代、自分の仕事の姿なんて、恥じるほどでもないけど、誇るほどでもなく、ユキに話すこともなかた。
 そのシーンは、カプルがシを観ていて、男性のほうがユキを「かわいい」と言て、彼女に怒られるシーンだた。
 ユキがかわいく見えるのはしうがない。
 俺だて、そういう風に感じる時はあた。
 そんなシーンだたので、動画でユキのシーンが公開された時に話題になた。
 最近、よく出ている女優と言うことで、それなりに注目もされていたせいもある。
 それだけならいいのだが、俺の妻と言うことも話題になた。
 俺の出番は減ていたと言うか、執筆に専念するためにメデアに出る仕事は減らしていた。それでも、メデアに出ると、ユキの主人と言うことで、からかわれると言うか、面白がられた。
 小説家はもてるねと言われた。
 結婚したこと自体は、メデアの人たちには関係ないから話していなかたせいもあた。
 糟糠の妻で、俺が売れる前のビジネスパーソン時代から付き合ていたと言うと、逆に応援もされた。
 時の人になても生活を変えないことで好感を持たれたようだ。
 俺の本の売り上げがそれで増えることはなかたが、ユキはドラマやイベントの出演依頼が多くきたようだた。
 ただ、ユキはユキなりの考えがあたようで、新しい仕事を入れると、家のことがおろそかになると思たのか、週に一日程度しか外出しなかた。
 その一日の外出を、あまり俺は聞かなかた。
 ユキもあまり言わなかた。
 簡単な仕事だと言ていた。

 朝食と夕食はほぼ毎日、二人で食べていた。
 ドラマの撮影は朝が早いので、朝、俺が起きるとユキが家を出ていたことは、これの起こる前からあたことだた。
 だから、今は、随分、拘束のゆるい仕事をやているなと思ていた。
 
 いや、実はユキの考えは別のところにあた。

#25

 俺が珍しく東京で編集者と打合せをして帰てきた時だた。
 紅葉が色づきはじめた時期だた。
「ただいま」
「お帰り。なにか食べる?」
「いや、いい。ところで今日の調子はよかたか?」
 ユキがこのところ外出しないでの心配をしていた。
「うん、実は話したいことがあるんだけど」
「なにかあたか」
「ええと、妊娠していました」
 ユキは照れながらもさらと言た。
 俺はおどろいた。いや、うれしかた。言葉を失い、九十秒ぐらい黙り込んでしまた。その後、大きな声で。
「そり、うれしいぞ」
「ありがとう。今日、病院へ行てきました」
「それで、予定日は?」
「夏ぐらい。ところで、あんた心の準備は?」
 俺は、そう言われたが、誇りながら言た。
「正直言て、実感はまだわかない。ただ、うれしい」
「ありがとう。私もやと結婚した実感がわいた感じ」
 それで、ユキが家にいることが多かたことがわかた。
「仕事を減らしていたのは、そういうことか」
「ま、そう。私も女として母として生きたいなと思て」
 ユキから女として生きたいなどと聞いたのは、後にも先にもこの時だけだた。
 ただ、これがユキを完全に理解した時だた。

 そうして、冬を越え、ユキのお腹が大きくなてきた。
 ユキと俺の両親や、友達から贈り物とか届いていた。
 大きくない我が家は、ちと窮屈だた。
 俺は、ユキに引越しを提案してみた。
「な、ここは大きくないから、引越しを考えるか?」
「うーん、あんたがそういうなら子供が大きくなたら考えるけど、わたしはこの家、気に入ているの」
「俺も気に入ている」
「トラちんたちが活き活きできる家だし、大家さんは親切だし」
「たち」と呼ぶようになたのは、三毛も家に入れるようになたからだ。
 最初は、三毛も夜になるとどこかへ消えていたが、トラ親子がアパートに住んでいた頃、いつの間にか、俺の部屋に住み始めたのと同じで、いつの間にか、夜も帰らないようになていた。
 無論、それに気づいて、一度、三毛をきれいにするためにお風呂に入れた。
 三毛は、あばれるかと思たが、お湯が気持ちよかたのか、すんなりと行た。
 
 ユキが、この家を気に入ていることは、俺も、またく同意だた。
「だよな
 はじめての印税でリフムをして手を入れた家だから、現実的にユキも俺にも使い勝手がよかた。
 ユキはたまに実家に帰て料理をする時、どうにもやりづらそうにしていた。
 この家のキチンは、ユキの使いやすいようにしていたので、実家より使いやすいと言ていた。

 トラと子トラ、三毛は、この頃、ユキのお腹をさするように手を添えることが多かた。
 トラたちにもわかているようだた。
 俺は、ユキがつらそうな時は買物や洗濯、料理をしたりした。
 一人暮らしが長かたので、最低限のことはできた。
 普段は、俺の料理に文句を言うユキだたが、この時期は、そういうことは言わずに食べていた。
 
 待望の子供は夏に生まれた。
 近くの総合病院に出産の直前に入た。
 産まれた子供は、女の子だた。
 ユキ、俺だけではなく、俺たちの両親も喜んでくれた。
 されど、悩んだのが名前だ。
 産まれる前にユキとは相談していたのだが、出産ぎりぎりまで決まていなかた。
「夏」か「海」を一字入れる名前を考えていた。
 ユキは、
『夏子』か『奈津子』がいいと思うと言ていた。
 ただ、俺は『子』がつく名前は、強気な女性になると聞いていたので、あまり賛成しなかた。
 そうして、出産直前に二人で話をしている時にふとユキが。
「夏美はどんな子かな?」と言た。
「あれ、夏美に決またんだけ?」
「そういえば」
「でも、いい名前だな。それでいこう!」
「夏美、夏に美しい。いい響きね。夏美、丈夫な子でね」

 夏美は大きくて健康な子で産まれてきた。
 ユキと俺の両方に似ていた。
 目元は俺、顔つきはユキ。
 俺の両親は、将来、かわいい子になるから、お母さんのようにアイドルかなと笑ていた。
 ユキの両親も喜んでいた。
 孫ができて、安心したらしかた。
 
 トラたちは、夏美を連れて帰てきて時、最初はなにごとかととまどていたが、すぐに家族だと思たようだ。
 ユキが夏美をリビングであやしていると、近くに寄てきて、ぽんぽんと触たりする。
 夏美もそれがうれしいらしく、笑い顔になる。

 さて、物語はそろそろ終わる。
 この後は、ごく普通の家族として、俺とユキと夏美、トラたちは暮らしはじめた。
 それは、記すほどのことではない。

#final

 俺が多摩川を渡るのをやめるためにはじめた活動は、ネト時代に入り、ほぼ達成しつつあた。
 原稿を送るのも、細かなやりとりもメールですんでいた。
 小説一本になてからは、都心のパーなどにもあまり顔を出さなかた。
 俺は、あまりがやがやしたのが好きではなかた。
 家でユキ、夏美、トラたちとまたりしているほうがいい。
 たまに小説の打合せで編集部に出向く時はあた。
 ただ、編集者のほうも東京から一時間もかからないので、俺の住所を知ると、それなら、自ら出向くと言い、俺の家の最寄りのターミナル駅のホテルのカフで会うことが多かた。
 なんでも、編集者自身が息抜きをするにはいい距離だと言うことだた。
 出張するわけでもないし、午後一で出てきて、直帰にしても、上司になにか言われることもないので、構わないと。
 東京と違う海のさわやかな空気、ゆたりした風が流れているのも、好きだと言ていた。
 編集部だと緊張しているし、東京のホテルは最近ではインバウンドで旅行者が多くなり、落ち着かないと。
 俺のいるあたりは、まだそうでもなく、なんとなく創作に力を貸すために環境的にいいと。
 ただ、本音はターミナル駅の周辺にあるラーメン屋ではないかと思ていた。
 ラーメン屋は有名店の支店でも東京ほどの行列はないし、どの編集者も食事に誘うと、口をごにごにとさせていた。
 ホテルを出ると、みな、ラーメン屋のある方向に行ていた。
 でも、それも会社員として生き抜くには必要な息抜きだから、別にとがめることもしなかた。
 俺に会て、リフレできるなら、別に構わなかた。
 むしろうれしかた。

 あと多摩川を越える時は、ユキの実家に遊びに行くときぐらいだた。
 ユキの母親がこちらへ遊びに来ることもあた。
 ユキの父親は猫が苦手なので、うちにはあまり来なかた。
 来ると、くしみをしたりしながらも、孫はかわいいらしく、ぐちぐちの顔で抱いていた。
 俺の両親もたまに遊びに来た。
 遊びに来ると、孫と会うのももちろんだが、ユキの料理を楽しみにしていた。
 ユキが寿司とかを取ろうかと言うと、特に父親がユキのカレーを所望した。
 親子だから舌の好みが似ているのは当然だ。
 お互い、いい妻を持たものだ。

 夏美が言葉を覚えはじめた頃、俺にはうれしいニスがあた。
 出した本が年間ランキングのトプテンに入るベストセラーになた。
 映像化もされることになた。
 この頃、いろいろな出版社で出版するようになたが、思うところがあり、一番お世話になた冬秋出版の編集の小川とタグを組んでいた。
 思いがけない印税で貯金に余裕ができたが使い途がなかた。
 その時、ユキが提案してきた。
「今の家の土地を買わない? それで夏美が大きくなたら、家を建て替えるの」
 なるほど、悪くない印税の使い途だ。
 大家さんも、その話にすぐに乗てくれた。
 俺たちが土地を維持してくれるなら、ご近所さんなども喜んでくれるからうれしいと。
 そうして、俺は、多摩川を越えることはなくなた。
 多摩川を越えたところに城を構えた。

Fin.
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