闇の作家
眠れない。時計を見ると深夜2時。目を閉じてから優に3時間が経過している。
や
っぱり、これはあれに関わったせいなんじゃないか。
上司と喧嘩して、文字通りに辞表を叩きつけると唖然とする同僚たちに目もくれずに十年務めた会社を辞めてきた。それまでは上手いことだましだましやってきたものが、ある日になって閾値を超えたらしい。
大して貯蓄もないので、グレている間もなく職探しをした。だが、大した実績も無く資格も持っていない人間に世間は冷たい。趣味で小説を書いてきたが、そんなものが実社会の役に立つかと言われれば答えはノーだ。
バイトでもしようかと思ったが、今さら夢や希望に満ち溢れた若者たちに混ざって肉体労働をやれるほどの元気は残っていない。それらは浪費されてきた人生の中で、側溝に流れるように消費され消えていった。
仕方なしに小遣いレベルの稼ぎしかない副業サイトで文章を中心とした仕事をはじめた。仕事とは言ってもバイトよりも稼ぎは少なく、何時間も使って仕事をしても牛丼を食べられたら上手くいった方だ。
賢い奴はパクリやコピペを駆使しながら既視感のある「それっぽい」文章を作って次々と納品していくらしいが、あいにく俺にそれを実行出来るだけの器は無かった。
別に盗用がアンフェアだとか、オリジナリティーが無いからどうとか言いたいんじゃない。ただ、誰かの作った文章を切り貼りして「作品」を作るのは、たとえバイトであっても俺のプライドが許さなかった。
そのせいか、いつも納品先には作品のクオリティを褒められるものの、「別にそこまでは求めてないんですけどね」という苦言をセットでもらうのがルーティーンになっていた。
それでやり方を変えられるほど器用であれば良かったが、あいにく俺はそこまでプライドを捨てられる人間ではなかった。
だからやり方を変えずに納品を続けていったが、納品の数が少ないということは、それだけ実入りも少なくなる。費やしている時間に対して対価が釣り合っているようには思えなかった。
一日中仕事をやったのに手に入れった報酬は5,500円。これでも稼げた方だった。この先どうやって生活しろと言うのか。
貯金は日に日に減っていく。俺の人生が終わりに近付いていく。それを感じないようにするには、書くしかなかった。書くことでしか俺は俺自身を救うことが出来なかった。
生きるためとはいえ同じような依頼の文章を延々と書いていると、それはそれで頭がおかしくなってくる。
寝不足なのか、俺が狂気に片足を踏み入れているだけなのか知らないが、気付けば「殺す」とか「みんな呪ってやる」だの物騒な言葉が納品する文章の中に混ざっていて、後から見直してゾッとすることもあった。
俺のメンタルは限界なのかもしれない。
そう思っていたさなか、副業サイトでホラー小説執筆の依頼を見つけた。見つけた、というよりは直接のオファーを出版社からもらった形だった。
内容としては「絶対に触れてはいけない闇」について書いてほしいとのことで、本職の作家がやりたがらないのでゴーストライターをお願いしたいとのことだった。
いつかに作家へなろうとしていた俺にとっては、とても魅力的なオファーに見えた。
詳細もよく分かっていなかったが、聞いたこともない出版社のオファーを快諾した。
オファーの詳細は、メールで送られてきた。
件名は「闇の囁き――ご依頼について」だった。送信元は「影の書庫出版」という、聞いたこともない名前。ウェブで検索しても、ヒットしない。
ただのインディーズか、それともただの中二病か。それにしては妙に嫌な感じがした。
添付ファイルはPDF。開くと、黒い背景に白い文字が浮かぶ、まるで古いホラー映画の脚本のようなレイアウトだった。
依頼内容はシンプルで、全10章のホラー小説だった。テーマは「絶対に触れてはいけない闇」という、当初のオファーを踏襲したものになっていた。
具体的なプロットは特になく、ただ「あなたの内なる闇を、ありのままに吐き出せ」とだけ書かれていた。報酬は、納品ごとに前払い。1章あたり5万円。全額で50万円。プロの作家が得ている報酬よりもずっと高いはずだった。
おい、これは本当なのか?
契約書はデジタル署名で済ませ、初回の原稿料が振り込まれたのを確認してから仕事に取り掛かった。
部屋はいつものように散らかり、深夜の静けさでキーボードを叩く音だけがやけに響く。
最初はスムーズだった。主人公は俺に似た男。会社を辞め、路頭に迷う。そこに、闇の影が忍び寄る。
影は、鏡の中に現れ、囁く。
「お前は、すでに俺の一部だ」
書き進めると、指が熱くなった。いや、熱いというより、疼くような感覚。まるで、指先から何かが這い出てくるような、妙な感覚だった。
1章を終え、データを保存してから送信。返事はすぐに来た。
「素晴らしい。闇の息吹を感じる。続きを」
何が闇の息吹だ。この中二病患者め。心の中で毒づきながら続きを書いていく。
2章目に入る。主人公が夢を見る。夢の中で、影が形を成す。人の形だが、顔がない。ただの穴。穴から、黒い糸のようなものが伸び、主人公の体に絡みつく。
観念的な内容でありながら、どこか怖さを感じさせるような内容に仕上げた。割とよく書けたのではないかと思う。
書いている最中、俺の首筋に何かが触れた気がした。振り返ると、誰もいない。
風か? いや、部屋は密閉されている。気のせいだ。被害妄想に陥りがちになっていたせいか、どうでもいいことに敏感になっている。
報酬の2回目が入金された。画面に表示された数字を見て、俺は笑った。久しぶりの、腹の底から出る笑い。牛丼じゃなく、ステーキを食える。いや、それどころか、少しは貯金もできるかもしれない。
やはり報酬がはずむとモチベーションが上がる。3章、4章と、次々に筆は進む。物語は深みを増す。
影は、主人公の過去を暴き出す。幼い頃のトラウマ、失った家族、抑え込んだ怒り。それらを、黒い糸で縫い合わせ、怪物に変える。夢中になって書いていると、気付けばまた深夜になっていた。
部屋の空気が、知らぬ間に変わっていた。湿っぽく、息苦しい。時計の針が、時々止まる。いや、止まっているんじゃない。俺の視界が揺れている。
書き終えた5章を読み返そうとスクロールすると、画面に、俺が書いていない文が混ざっていた。
――お前は、触れた。もう、逃げられない。
「おい、なんだよ、これ……」
怪文書とも言える一文に心臓が跳ねた。慌てて削除して、再送信する。出版社からの返事がきた。深夜なのに、早すぎる。
「完璧だ。闇が、君を呼んでいる」
……おい、なんだよこれは。どういう意味なんだよ?
真夜中に送られてきた奇妙な文章に、俺は静かに発狂しかける。それまでは中二病と笑っていたものが、ふいに途轍もなく不気味な何かに感じられた。
その夜、眠れなかった。いや、眠ったのかもしれない。それとも書いている間に朝になってしまっただけなのか。朦朧とする意識の中で、鏡の前に立っていた。
俺の顔が、ない。
代わりに、顔があるべきところには黒い穴がぽっかりと空いていた。
穴から黒い糸が伸びる。伸びた糸は、俺の指にシュルシュルと絡みつく。それは全身を覆っていき、俺は黒い繭に変わっていく。出来上がった黒い繭は、誰もいない部屋で胎動のように波打っていた。
驚いて目覚めると、手が震えていた。爪が剥がれかけている。血の気が引いた肌に、細い黒い線が走っている。
血管か? いや、違う。まるで、墨を注入されたような、染み込んだ跡。明らかに自分の体に異変が起きているものの、医者に診てもらう勇気は無かった。病院へ行けば、俺は人間ではない何かと断定されてしまうような気がしていた。
体に異変が起きているのに、ホラー小説の依頼は止まらない。
依頼を断りたかった。だが、振り込まれたお金は、もう俺の銀行口座にあった。6章、7章を書かざるを得ない。物語は、俺自身を飲み込んでいく。
主人公は黒い影に抗おうとするが、失敗する。
影は囁く。
「これは、お前の物語だ」
キーボードを叩くたび、指の疼きが強くなる。部屋の隅に、影が溜まる。最初は気のせいだったものが、形を成す。人の形。顔がない。ただ、黒い穴だけがある。見なかったことにした。
8章を終えると、出版社からメールが来た。
「残り2章。君の闇を、すべて吐き出せ。さもなくば……」
……おい、さもなくば何なんだよ?
俺は発作的に逃げようとした。ドアに手をかけるが、開かない。鍵はかかっていないのに。振り返ると、モニターが勝手に点灯し、9章のドラフトが開いている。
俺は何も書いていない。そこには、俺の名前が、タイトルとして並んでいた。
――お前の終わり。
部屋に浮かぶ黒い穴。それはブラックホールのように俺を引き寄せる。
穴から声が聞こえる。
「書け。書け。何もかもがすでに闇だ」
指が勝手に動く。キーボードの上に、糸が這う。俺の意志じゃない。書く。書くしかない。10章の最後で、主人公は溶ける。影に、飲み込まれ、闇の一部となる。
送信ボタンを押した瞬間、部屋が暗くなった。いや、暗くなったんじゃない。光が吸い込まれた。
ハッとして目覚めた。いや、目覚めていないのかもしれない。銀行の残高は、50万円増えていた。だが、俺の指は、黒く染まっ