空っぽな一日と、その翌日
その日、俺は見知らぬ部屋で目覚めた。
掛け布団を剥いで上体を起し、眼を擦りながら周囲を見まわした。どうやらワンルー
ムマンションの一室のようだ。
家具や調度品の趣味から判断して、おそらく若い女性の部屋だろう。
俺は昨夜の記憶を呼び覚まそうとしたが、何も思い出せない。記憶が途切れているというよりは、空っぽの空間が茫漠と広がっているような感じだ。
どこかのバーで知り合った女の部屋だろうか。俺がもっと若い頃には、何度かそういうことがあった。ただ、最近はめっきり酒に弱くなって、外で飲むことはほとんど無いのだが。
いずれにしろ、じっとしていてもしょうがない。俺はベッドから降りて、ソファーの背に掛かっていたシャツとスーツの上下を身につけた。
レースのカーテンを開けて窓の外を見る。眼下に広がる景色から、ここが街のどの辺に位置するのか、だいたいの見当はついた。
さて、これからどうするか。どこかに出かけているらしい女の帰りを待つか、それともこのまま会わずに部屋を出るか。
考えるまでもない。すぐにこの部屋から出るべきだ。厄介ごとはごめんだ。
俺は玄関で靴を履き、ドアを開けて通路へ出た。
エレベーターで下まで降り、マンションの外へ出ると、ようやく日常を取り戻した気分になってきた。時間的にはまだ早いから、いったん自宅に帰ってシャワーを浴び、それから出社しようと俺は思った。
地下鉄を乗り継ぎ、四十分ほどで自宅のアパートに戻った。
急いで歯を磨き、髭を剃って、シャワーを浴びる。出社の支度をして、さあ家を出ようというときに玄関のインターホンが鳴った。
ドアを開けると、立っていたのは見知らぬ男だった。
「どちら様ですか」俺はたずねた。
男は名を名乗り、フリーのジャーナリストだと自己紹介した。
用件を聞くと、大事な話があるから、とにかく部屋に上がらせてくれと言う。俺はもちろん断った。得体の知れない人間を家に入れるわけがない。だが、しつこく食い下がる男に根負けして、男がアパート近くの駐車場に停めている車の中で、話だけは聞いてやることにした。
「さあ、早く用件を言ってくれ。会社に遅れる」助手席に座るなり、俺は言った。
「待ってくれ。ちょうどいいタイミングで奴らが来た」
運転席の男が指さした先は、アパート二階の左端、つまり俺が住んでる部屋の前だった。
ひとりの女がドアの前に立っていた。何度かインターホンを押して、住人が出てくるのを待っている。もちろん、いくら待っても出てくるはずがない。俺はここにいるのだから。
「不躾なことを聞くようだけど、あの女性と君は、どういう関係なのかな」男が言った。
「いや、知らない人だ。誰だろう」ここからでも、きれいな女だとわかる。知り合いなら忘れるはずがない。あんな美人が俺にどんな用があるというのだろう。今からでも車を降りて、用件を聞きに行くべきか。
「へえ、おかしいね。彼女は今朝、君が出て来たワンルームマンションの住人なんだけどな。きのう一夜をともに過ごした相手を、もう忘れちゃったのかい」男は愉快そうに笑った。
俺は思わず男の顔をまじまじと見つめた。「どうしてそんなことを知ってるんだ」
「後でゆっくり話すよ。おや、これは新たな展開だ」
アパートのほうに視線を戻せば、女が身をかがめて、ドアノブの辺りでしきりに手を動かしている。
「彼女は何をやっているんだ」
「ピッキングだね。君の部屋に忍び込もうというんだろう」
女はすぐにドアを開け、部屋の中に消えた。そして一分もしないうちに出てくると、アパートの階段を降りていく。
そのときになって初めて、俺はアパート前の車道に白いワゴンが停まっていることに気がついた。車内には屈強そうな男がひとり、運転席に座っている。
階段を降りきった女は助手席のドアを開け、ワゴンに乗り込んだ。すぐには発車せず、携帯電話で誰かと話している。
電話を終えた女が運転席の男に何か話しかけると、ワゴンはすぐに発進した。
ワゴンが道を曲がって見えなくなると、男は車のキーを回して、エンジンを掛けた。
「さあて、こちらも出かけようぜ」
「おい、俺はここで話を聞くだけだと言っただろう」
「いまのを見て、まだそんなことを言うのかい。君はあの連中に拉致されていたかもしれないんだぜ。今日は家に帰れないし、会社にも行かないほうがいい。しかし君には俺がついてる。俺のいうことを聞いておけば、万事解決さ。安心しろ」
とても安心出来る状況とは思えなかった。
俺たちの車は大通りに出た。
男は巧みにハンドルを操って、次々と前の車を追い越していく。
「どこへ連れて行くつもりだ」
「とりあえず飯を食おう。腹が減った。昨夜から何も食ってないもんでね。君は朝食を食べたのかい」
「いや、いつも朝食はとらないんだ」
「そうか。朝食はとった方がいいぜ。今日は俺が、ちょっと珍しい秋の味覚をおごってやるよ」男はそれがいかに旨いかを力説したが、具体的にどんな料理なのかは言わなかった。
「それは店に着いてからのお楽しみ」などと、もったいぶるのだが、俺としては秋の味覚のことなど別にどうでもよかった。
「あんたはいったい何者なんだ。俺になんの用がある」
「フリーのジャーナリストって言っただろ。俺はあの女が所属している、ある組織を調査しているんだ。奴らは大金と引き換えに、この街のありとあらゆる汚れ仕事を請け負っている。顧客は企業だったり政治家だったり様々のようだ。昨日も俺は連中の動向を探っていたんだが、そこであの女が君に接触している場面を目撃したというわけだ」
俺と女が連れだってワンルームマンションの中に消えた後、男はずっとマンションの出入り口を見張っていたという。するとしばらくして、女がひとりでマンションから出て来た。男は女を追うべきか迷ったが、ジャーナリストとしての直感にしたがい、そのまま見張りを続けることを選んだ。
「その後、君がひとりで出て来たから、俺は君の跡をつけ、取材を申し込んだというわけだ。ところが君は、あの女のことを知らないという。これはどういうことだろう」
隠しておく理由も見当たらないから、俺は昨夜の記憶が全て失われていることを男に話した。どうせ信じては貰えないだろうと思っていたが、男は俺の話を疑ってるようには見えなかった。むしろ、半ばそのことを予期していたようですらあった。
「君は、記憶を消す薬のことを聞いたことがあるか」
男が突然、奇妙なことを言い出した。
「そんな薬があるものか」
「それがあるんだ。もちろん薬局で簡単に手に入るようなものじゃないけどね。君が昨夜の記憶を思い出せないのは、多分その薬を投与されたからだと思う」
男が言うには、記憶には短期記憶と長期記憶があり、その薬は短期記憶へのアクセスを一時的に阻害するのだという。一定時間アクセスされない短期記憶は長期記憶に移行することなく消えてしまい、二度と甦ることはないのだそうだ。
「消すことの出来るのは半日前から、せいぜい一日前の記憶だから、使いどころは限られるけどね」
にわかには信じられない話だが、げんに俺の記憶が失われている以上、嘘と断定することも出来なかった。
「どうして俺がそんなものを投与されなきゃならないんだ」
「君は昨日、何か知ってはいけないことを偶然知ってしまったんじゃないかな。例えば犯罪現場を目撃したとかね。それであの女が君に近づき、言葉巧みに部屋に連れ込んで、隙を見て君に薬を投与したんだろう。実は、君のように記憶を消された人間を、俺はひとり知っているんだ。ある事件の情報を提供してくれるはずだったんだが、会ってみると肝心なことをすべて忘れてしまっていてね。残念だったよ。その事件にも、あの女の組織が関与している可能性が高い。だから君も、と推測したわけだ」
「つまり昨夜の俺は色仕掛けに引っかかって、知り合ったばかりの女の部屋までノコノコついて行ったわけか」それが事実なら、いい歳して、なんて軽率な男だ。
「かなりの美人だからな。自分を責めちゃいけないよ」
「彼らはなぜ俺のアパートまでやってきたんだ」
「さあな。気が変わって、君そのものを消すことにしたのかもしれない」
物騒な話だが、どうにも現実感がない。
「参ったな。つけられてる」ふいに男が言った。
「本当か」
「ああ。残念だが、秋の味覚はお預けだ」
そう言って男は車のスピードを上げた。
「つけているのは、あの白いワゴンなのか」
「いや、違う。おっと、後ろを向いて確認しようとするなよ。どうやら俺たちが駐車場にいたときから気づかれていたようだ。しくじった」
「万事解決が聞いてあきれるな」
「面目ない」
「それで、これからどうするつもりだ」
「とりあえず尾行してる車をまいて、それから俺の信頼している医者のところへ君を連れていく。そこで君の記憶を取り戻すための処置を」
「おい、ちょっと待て」俺は男の話をさえぎった。「処置ってなんだよ。俺の頭をいじくるつもりなのか」
「まあ、落ち着いて聞いてくれ。君がいま追われてるのは、世間に知られちゃいけない秘密を、頭の中に抱えているからだ。それを世間に公表しちまえば、もう連中が君をつけ狙う理由もなくなる。さっきも言ったように、あまり時間がたっ