◆hiyatQ6h0cと勝負だー祭り2025秋
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空っぽな一日と、その翌日
ミラ
投稿時刻 : 2025.11.03 21:11
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空っぽな一日と、その翌日
ミラ


 その日、俺は見知らぬ部屋で目覚めた。
 掛け布団を剥いで上体を起し、眼を擦りながら周囲を見まわした。どうやらワンルームマンシンの一室のようだ。
 家具や調度品の趣味から判断して、おそらく若い女性の部屋だろう。
 俺は昨夜の記憶を呼び覚まそうとしたが、何も思い出せない。記憶が途切れているというよりは、空ぽの空間が茫漠と広がているような感じだ。
 どこかのバーで知り合た女の部屋だろうか。俺がもと若い頃には、何度かそういうことがあた。ただ、最近はめきり酒に弱くなて、外で飲むことはほとんど無いのだが。
 いずれにしろ、じとしていてもしうがない。俺はベドから降りて、ソフの背に掛かていたシツとスーツの上下を身につけた。
 レースのカーテンを開けて窓の外を見る。眼下に広がる景色から、ここが街のどの辺に位置するのか、だいたいの見当はついた。
 さて、これからどうするか。どこかに出かけているらしい女の帰りを待つか、それともこのまま会わずに部屋を出るか。
 考えるまでもない。すぐにこの部屋から出るべきだ。厄介ごとはごめんだ。
 俺は玄関で靴を履き、ドアを開けて通路へ出た。
 エレベーターで下まで降り、マンシンの外へ出ると、ようやく日常を取り戻した気分になてきた。時間的にはまだ早いから、いたん自宅に帰てシワーを浴び、それから出社しようと俺は思た。

 地下鉄を乗り継ぎ、四十分ほどで自宅のアパートに戻た。
 急いで歯を磨き、髭を剃て、シワーを浴びる。出社の支度をして、さあ家を出ようというときに玄関のインターホンが鳴た。
 ドアを開けると、立ていたのは見知らぬ男だた。
「どちら様ですか」俺はたずねた。
 男は名を名乗り、フリーのジナリストだと自己紹介した。
 用件を聞くと、大事な話があるから、とにかく部屋に上がらせてくれと言う。俺はもちろん断た。得体の知れない人間を家に入れるわけがない。だが、しつこく食い下がる男に根負けして、男がアパート近くの駐車場に停めている車の中で、話だけは聞いてやることにした。
「さあ、早く用件を言てくれ。会社に遅れる」助手席に座るなり、俺は言た。
「待てくれ。ちうどいいタイミングで奴らが来た」
 運転席の男が指さした先は、アパート二階の左端、つまり俺が住んでる部屋の前だた。
 ひとりの女がドアの前に立ていた。何度かインターホンを押して、住人が出てくるのを待ている。もちろん、いくら待ても出てくるはずがない。俺はここにいるのだから。
「不躾なことを聞くようだけど、あの女性と君は、どういう関係なのかな」男が言た。
「いや、知らない人だ。誰だろう」ここからでも、きれいな女だとわかる。知り合いなら忘れるはずがない。あんな美人が俺にどんな用があるというのだろう。今からでも車を降りて、用件を聞きに行くべきか。
「へえ、おかしいね。彼女は今朝、君が出て来たワンルームマンシンの住人なんだけどな。きのう一夜をともに過ごした相手を、もう忘れちたのかい」男は愉快そうに笑た。
 俺は思わず男の顔をまじまじと見つめた。「どうしてそんなことを知てるんだ」
「後でゆくり話すよ。おや、これは新たな展開だ」
 アパートのほうに視線を戻せば、女が身をかがめて、ドアノブの辺りでしきりに手を動かしている。
「彼女は何をやているんだ」
「ピキングだね。君の部屋に忍び込もうというんだろう」
 女はすぐにドアを開け、部屋の中に消えた。そして一分もしないうちに出てくると、アパートの階段を降りていく。
 そのときになて初めて、俺はアパート前の車道に白いワゴンが停まていることに気がついた。車内には屈強そうな男がひとり、運転席に座ている。
 階段を降りきた女は助手席のドアを開け、ワゴンに乗り込んだ。すぐには発車せず、携帯電話で誰かと話している。
 電話を終えた女が運転席の男に何か話しかけると、ワゴンはすぐに発進した。
 ワゴンが道を曲がて見えなくなると、男は車のキーを回して、エンジンを掛けた。
「さあて、こちらも出かけようぜ」
「おい、俺はここで話を聞くだけだと言ただろう」
「いまのを見て、まだそんなことを言うのかい。君はあの連中に拉致されていたかもしれないんだぜ。今日は家に帰れないし、会社にも行かないほうがいい。しかし君には俺がついてる。俺のいうことを聞いておけば、万事解決さ。安心しろ」
 とても安心出来る状況とは思えなかた。

 俺たちの車は大通りに出た。
 男は巧みにハンドルを操て、次々と前の車を追い越していく。
「どこへ連れて行くつもりだ」
「とりあえず飯を食おう。腹が減た。昨夜から何も食てないもんでね。君は朝食を食べたのかい」
「いや、いつも朝食はとらないんだ」
「そうか。朝食はとた方がいいぜ。今日は俺が、ちと珍しい秋の味覚をおごてやるよ」男はそれがいかに旨いかを力説したが、具体的にどんな料理なのかは言わなかた。
「それは店に着いてからのお楽しみ」などと、もたいぶるのだが、俺としては秋の味覚のことなど別にどうでもよかた。
「あんたはいたい何者なんだ。俺になんの用がある」
「フリーのジナリストて言ただろ。俺はあの女が所属している、ある組織を調査しているんだ。奴らは大金と引き換えに、この街のありとあらゆる汚れ仕事を請け負ている。顧客は企業だたり政治家だたり様々のようだ。昨日も俺は連中の動向を探ていたんだが、そこであの女が君に接触している場面を目撃したというわけだ」
 俺と女が連れだてワンルームマンシンの中に消えた後、男はずとマンシンの出入り口を見張ていたという。するとしばらくして、女がひとりでマンシンから出て来た。男は女を追うべきか迷たが、ジナリストとしての直感にしたがい、そのまま見張りを続けることを選んだ。
「その後、君がひとりで出て来たから、俺は君の跡をつけ、取材を申し込んだというわけだ。ところが君は、あの女のことを知らないという。これはどういうことだろう」
 隠しておく理由も見当たらないから、俺は昨夜の記憶が全て失われていることを男に話した。どうせ信じては貰えないだろうと思ていたが、男は俺の話を疑てるようには見えなかた。むしろ、半ばそのことを予期していたようですらあた。
「君は、記憶を消す薬のことを聞いたことがあるか」
 男が突然、奇妙なことを言い出した。
「そんな薬があるものか」
「それがあるんだ。もちろん薬局で簡単に手に入るようなものじないけどね。君が昨夜の記憶を思い出せないのは、多分その薬を投与されたからだと思う」
 男が言うには、記憶には短期記憶と長期記憶があり、その薬は短期記憶へのアクセスを一時的に阻害するのだという。一定時間アクセスされない短期記憶は長期記憶に移行することなく消えてしまい、二度と甦ることはないのだそうだ。
「消すことの出来るのは半日前から、せいぜい一日前の記憶だから、使いどころは限られるけどね」
 にわかには信じられない話だが、げんに俺の記憶が失われている以上、嘘と断定することも出来なかた。
「どうして俺がそんなものを投与されなきならないんだ」
「君は昨日、何か知てはいけないことを偶然知てしまたんじないかな。例えば犯罪現場を目撃したとかね。それであの女が君に近づき、言葉巧みに部屋に連れ込んで、隙を見て君に薬を投与したんだろう。実は、君のように記憶を消された人間を、俺はひとり知ているんだ。ある事件の情報を提供してくれるはずだたんだが、会てみると肝心なことをすべて忘れてしまていてね。残念だたよ。その事件にも、あの女の組織が関与している可能性が高い。だから君も、と推測したわけだ」
「つまり昨夜の俺は色仕掛けに引かかて、知り合たばかりの女の部屋までノコノコついて行たわけか」それが事実なら、いい歳して、なんて軽率な男だ。
「かなりの美人だからな。自分を責めちいけないよ」
「彼らはなぜ俺のアパートまでやてきたんだ」
「さあな。気が変わて、君そのものを消すことにしたのかもしれない」
 物騒な話だが、どうにも現実感がない。

「参たな。つけられてる」ふいに男が言た。
「本当か」
「ああ。残念だが、秋の味覚はお預けだ」
 そう言て男は車のスピードを上げた。
「つけているのは、あの白いワゴンなのか」
「いや、違う。おと、後ろを向いて確認しようとするなよ。どうやら俺たちが駐車場にいたときから気づかれていたようだ。しくじた」
「万事解決が聞いてあきれるな」
「面目ない」
「それで、これからどうするつもりだ」
「とりあえず尾行してる車をまいて、それから俺の信頼している医者のところへ君を連れていく。そこで君の記憶を取り戻すための処置を」
「おい、ちと待て」俺は男の話をさえぎた。「処置てなんだよ。俺の頭をいじくるつもりなのか」
「まあ、落ち着いて聞いてくれ。君がいま追われてるのは、世間に知られちいけない秘密を、頭の中に抱えているからだ。それを世間に公表しちまえば、もう連中が君をつけ狙う理由もなくなる。さきも言たように、あまり時間がたてしまうと記憶を取り戻すことが出来なくなるから、できるだけ早いほうがいい」
「公表するて、どうやて」
「俺はジナリストだよ。この街のメデアには顔が利くんだ」
 俺はようやく気がついた。この男は俺を助けたいんじない。特ダネが欲しかただけだ。

 しばらくして男が言た。
「どうやら、うまくまけたようだ」
「それはよかた」俺は冷ややかに返した。
「なあ、聞いてくれ。確かに俺はスクープが欲しい。でも、君を助けたいという気持ちも本当だ。それに、何か犯罪行為が行われているのなら、それを見過ごしには出来ないだろ。記憶の回復にはリスクが伴うかもしれない。君が躊躇するのはよくわかる。だが」
「もういいよ。わかた。あんたの言うとおりにしよう」何もかも面倒になてしまて、俺は言た。
「そうか。ありがとう」男は心底ほとしたように、そう言た。

 病室のベドの上で目を覚ましたとき、俺はひとりだた。
 何時間眠ていたのだろう。窓の外は秋の夕暮れだた。
 あの後、俺はこの病院に連れて来られ、医師の診察を受けて、記憶を取り戻すための薬物投与を受けたのだた。
 果たして記憶は回復しているのだろうか。俺は昨日のことを思い返してみた。会社での同僚とのやりとりや、仕事の内容は思い出せる。帰宅途中で例の女に声をかけられたことも。
 女の部屋で濃密な数時間を過ごし、女が注いでくれたビールを飲んで急に眠気を覚え、そして、それからの記憶は無かた。
 しかし、それだけだた。女と出会う前にも後にも、見てはいけないものを見たとか、知てはいけないことを知てしまたとか、そういう変わた出来事は何も起きてはいなかた。
 俺はハンガーに掛かていた上着を身につけ、病室の外に出た。
 そこに、あの女がいた。
「少し、お話ししませんか」女の声には聞き覚えがあた。昨夜、俺の腕の中で甘い言葉を囁いた、あの声だた。

「私たちは人助けの仕事をしているんです。やりがいのある仕事で、私はとても誇りに思てるんですが、最近になて、私たちの仕事を嗅ぎ回ている何者かの気配を感じるようになりました」
 俺たちは並んで椅子に座ていた。待合室には俺たちの他に誰もいなかた。どういうわけか、受付の事務員すら姿を消している。
「秘密厳守がこの仕事の鉄則ですから、依頼者の秘密が漏れるようなことがあてはなりません。そこで私たちは、私たちを探てる何者かの正体を突き止めるために一計を案じたのです」
 女はそこで言葉を切り、俺を見つめた。これ以上の説明は不要だろうと、その目が語ていた。
「つまり俺は、あのジリストをおびき出すための、囮に過ぎなかたというわけか」
 要するに、俺は何も知てはいなかたということだ。組織が必死になて隠蔽しなければならないような秘密が、俺の頭の中に隠されていると、あのジナリストに思い込ませる。ただそれだけのために、組織は俺の記憶を消し去たのだ。
「あなたにはご迷惑をお掛けしました。巻き添えにして申し訳ありません」
「なぜ、俺だたんだ」
 女は俺の耳元に口を寄せると、「あなたが私のタイプだたから」そう囁いた。昨夜の香りが鼻先をかすめた。
「それと、これは返して貰いますね」俺の上着の、襟の裏に手を伸ばすと、何か小さなものをつかみ取た。
「それは何だ」
「GPS発信機です」
「なるほど」尾行車をまいたところで、何の意味も無かてことだ。
「それで、あの男はどうなた。いまどうしているんだ」
「それは」
 女は、ふ、と微笑んだ。
「知らないほうがいいと思いますよ」

 病院を出ると肌寒かた。
 もうすかり秋だな、と俺は思た。
 ひどい空腹を感じていた。
 そういえば朝から何も食べていなかた。
 あの男が言ていた、ちと珍しい秋の味覚とは、結局何だたのだろう。
 今後、俺がそれを知ることは決して無い。
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