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心がさけびたりなんだ。
(
大沢愛
)
投稿時刻 : 2015.06.08 07:58
字数 : 1930
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心がさけびたりなんだ。
大沢愛
夜半にな
っ
て、雨脚はひときわ強くな
っ
ていた。
六月の夜だというのに、傘を差して歩き過ぎるひとたちは上着の襟元を掻き寄せ、口の周りには白い息がまとわりついていた。
街灯脇の暗がりに彼は座り込んでいた。
髪から額を伝
っ
て流れ落ちるしずくが、鼻先で膨らむ。
まるでピエロだ、と彼は思
っ
た。
ウイスキー
の瓶が、投げ出した両脚の間に転が
っ
ている。
口にするたびに心の痛みが融け出して、目の前の一刻をやり過ごすことができた。
雨に打たれて、身体は冷え切
っ
ていた。
彼の座り込んだアスフ
ァ
ルトの周りは水たまりにな
っ
ていた。
なにもかもが濡れそぼち、体温を奪
っ
て行
っ
た。
もう冷たさも感じない。
それでも、胸のあたりのかすかな痛みだけは、暗闇の灯火のようにともり続けていた。
かつて、輝いていた時間があ
っ
た。
そのまん中に彼はいた。
すべてに手が届くはずだ
っ
た。
笑顔や賞讃に囲まれて、彼の背中の白い翼は誇らしげに天を指していた。
高みにあるもの、仰ぎ見る者には引き換えることのかなわないもの、その頂へと彼は羽ばたこうとしていた。
輝きのなかで、彼の足は静かに大地を離れ、温かな光に導かれるように天へと舞い上が
っ
てい
っ
た。
徐々に光に盲いてゆく彼の目の前に、人のすがたが現れた。
みすぼらしいなりで、おどおどとした眼の娘。
高みへの道は閉ざされて地面近くを漂うしかない、多くの人々と同じ、平凡な娘。
彼は手を伸ばした。
すべてを摑むことのできる手は、娘を手のひらに収め、小さな宝石へと変えるはずだ
っ
た。
怯えた娘の胸元で、彼の指は空を切
っ
た。
つい、と娘は遠ざかる。
みすぼらしか
っ
たはずの姿は光に包まれ、背中には彼よりもさらに凛とした黄金の翼が備わ
っ
ていた。
怯懦と映
っ
た顔は、悲しみに満ちていた。
娘は光の彼方へと消え、そして彼は地面に立ち尽くしていた。
彼の背中には翼はなか
っ
た。
身なりはみすぼらしく、その手に摑めるのはもはや土くれのみだ
っ
た。
大粒の雨が身体を打ち続ける。
頭蓋に反響して、耳からこぼれ出る、音、音、音。
ズボンに沁みとおる雨水と彼の足との境目はなくなりつつあ
っ
た。
ウイスキー
はもう残
っ
ていない。
光は遠ざか
っ
てしま
っ
た。
奇蹟の時間はあとわずかだ。
ボトルに弾ける雨脚を薄目に捉えながら、痛みを抱えた枯れホオズキが暗がりに揺れる。
耳朶から流れ込んだ雨滴が、かすかに音を立てていた。
耳抜きをする気もなくなり、鳴るにまかせる。
音はしだいに囁きへと変貌してい
っ
た。
――
くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす
ひとつ、またひとつと増えてゆく。
耳にちいさな口を寄せて、無数の笑い声が彼を包んでゆく。
痛みが押し潰されそうになる。
動かなか
っ
たはずの腕がぴくりと動いた。
ずぶ濡れのシ
ャ
ツを伝
っ
て、ほんとうにすこしずつ左胸へと這い登らせる。
ようやくたどり着いた。
胸を摑み、渾身の力で握り締める。
彼に残
っ
ていた力では、落ちないようにしがみつくだけで精い
っ
ぱいだ
っ
た。
翼はとうに失われ、光も見えない。
彼に残されているのはこの痛みだけだ
っ
た。
この痛みのせいで、大地に縛り付けられ、嘲笑われ、ウイスキー
を呷
っ
て日々をやり過ごすしかなくな
っ
た。
彼は逃れようとしていたはずだ
っ
た。
痛みの尽きることを望んでいたはずだ
っ
た。
そしていま、彼は最後のときに臨んで、痛みを守ろうとしていた。
――
くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす
無数のちいさな笑い声は、雨音よりも大きくな
っ
ていた。
背中が、わずかに曲がる。
左胸を抱えるように丸まる。
首筋に雨脚を感じる。
冷え切
っ
ていたはずの身体にも、まだ感覚が残
っ
ていたのがおかしか
っ
た。
胸の中で彼を刺し続ける痛みを、愛おしむように包む。
自分がいなくなれば、痛みは存在することはかなわなくなる。
与えることができる限り、すべてを与えてやろう。
痛みが薄れてきた。
彼は身体に残
っ
たすべてを痛みへと供し続けた。
熾火が冷めていくように、痛みはかたちを失
っ
てゆく。
彼の眼には涙が浮かびそうにな
っ
た。
その涙のぶんも痛みへと捧げよう。
彼の身体はみすぼらしく萎んで行
っ
た。
痛みは彼を刺し続けた。
彼は笑顔で、それを受け止め続けた。
空の彼方へ消えた娘を思う。
あの娘の中で、彼は痛みにな
っ
たのだろうか。
彼女を苦しめないようにはやく消えてしまいたい。
それでも、自分の中の痛みを思うと、彼はあがき続けることを選んだ。
雨脚は強くなる。
囁きも聞こえない。
尖
っ
た痛みは、彼に守られながら、闇の中でいつまでも灯り続けていた。
雨は止んでいた。
いつもどおりの月曜日の朝だ
っ
た。
朝日が街並のそこかしこに弾けている。
街灯脇の紫陽花の茂みが、雨滴を宿して輝いている。
茂みに囲まれた水たまりにはウイスキー
のボトルがひとつ、朝日を受けて転が
っ
ていた。
(了)
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