【BNSK】品評会 in てきすとぽい season 13
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(時間外)向こう側へ
投稿時刻 : 2015.07.22 04:26 最終更新 : 2015.07.22 04:27
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- 2015/07/22 04:27:17
- 2015/07/22 04:26:50
(時間外)向こう側へ
すずきり


 ユキヒトは大学生だた。が、ほとんど学校へは行ていなかた。一年、二年と平穏無事に山も無く谷も無くのらりくらりとやてきたところが、ふと、学校へ足が向かなくなたのである。大学生活に慣れ、中だるみを起こす学徒は少なくない。彼もまたその一人というわけである。
 講義が始まても布団から出ようともしない。時計を見つめて「今日は遅刻だな」と思うだけである。そして半刻過ぎれば「今日は欠席だな」と思うだけである。そんなことを毎日続けて梅雨が過ぎ、とうとう夏が近づいて来た。そしてユキヒトは思うのである。「単位は落としたな」と。
 しかしその引きこもり生活は間違いなく彼の精神を蝕んだ。
 初め、アパートの六畳間は、ひどく居心地が良かた。母親からの仕送りを細々と食いつぶせば生活に困らなかた。毎日十時間以上眠た。どれだけ眠ても、身体のどこかが疲れていた。甘い疲労と眠気でいつも頭がぼんやりした。起きようと思ても、布団に身体が縛り付けられて、意識はすぐ闇の奥に沈んでしまうのである。眠て、起きて、ぼんやりしているうちに時が過ぎ、また眠るだけだ。
 しかしその居心地の良さは、長くは続かなかた。違和感を覚えたのは、この怠惰な中だるみ生活を始めてから十日ほどたたある日だた。ふと立ち上がて、部屋を見回してみると、「この部屋はこんなに狭かただろうか?」と思うのである。そして、空気が濁て、重い気がするのである。まるでカエルの卵の粘膜のように、肌に空気が貼り付いてぶよぶよと包んでいる心地がするのだ。窓を全開にして、空気を入れ替えてみても、それは変わらなかた。それからというもの、ふと意識すると、呼吸をしても、ぶよぶよの粘膜が肺胞を満たすばかりで、酸素が行き渡らないような息苦しさを抱いたり、横になて目を瞑ると、空気が煮凝りのように固まて身体を押し固めるような気分になるのだた。
 そんな時はアパートを出て、散歩をした。するとまるで乾涸びた土が水を吸う様に、新鮮な、透明な酸素が血液いぱいに満たされるのだた。とりわけ、住宅地を抜けて、太い河川にかけられている橋まで出るといい気分だた。川が風を運んで、身体にまとわりついた粘膜を剥がしてくれるのである。
 そのまま橋を渡て町まで出てみることもあたが、大抵、嫌な思いをするのだた。引きこもり生活の影響か、他者がやけに目につくのだ。それに町に行くと、あるいは同級生が歩いている可能性がある。怠惰な生活を送る後ろめたさから、ユキヒトは知人に会うのが怖かた。自分を知ている他者、他者の目に映る自分を目の当たりにしたくなかた。人に面すると、ふとシンドウに映た自分を見て、「自分はこんな外見だたろうか?」と思うような類いの不安が湧いて、落ちつかない。
 あるいは、大勢の人々を目にするのが、嫌だた。ラーメン屋に列をなす人々にも、収穫の季節じみた就活生にも、赤信号を前に立ち止まてぼうと立つ人々にも、激しい嫌悪感を抱いた。彼は数週間社会から離れている間に、その水が合わない体質に変わてしまていたのである。
 そしてアパートに戻ると、また粘膜が彼を包み込んだ。その中は確かに息苦しかたが、街の中よりは、マシかもしれないとユキヒトは思た。
 深夜、眠れなくなて橋へ行くことが多かた。町にも、アパートにも、居たくなかたのである。ただ橋の上で、川だけが新しい風をもたらした。


 いよいよ七月になたある日、母親から電話があた。
『もしもし? 少ないけど、銀行にお金入れておいたからね』
「え? 何で?」
『明日、あんたの誕生日じないの。欲しいものなんてわからないから、代わりに現金。大変だろうけど、頑張てね。ちんと先生の言うこと聞くのよ』
 そんなことだけを言て、母は電話を切た。しかしその言葉の全てがユキヒトを苛立たせた。一字一句を取り上げて、その批判をしてやりたい衝動が彼の全身を駆け巡た。とりわけ苛立ちを覚えたのは「誕生日」という言葉だた。ずと、昔からユキヒトは誕生日が苦手であり、嫌いだた。祝われると、どうにも肩身が狭い気分になる。申し訳ない気分になる。
 加えて、実際には大学には行ていないのだ。暢気に息子が真面目な大学生をやていると思い込んでいる母が呪わしくなた。しかしその怒りの理不尽さが、自分にもよくわかていた。偏執狂じみた自分を自覚すると、恐ろしくなた。
 自分に取り憑かれそうになて、ユキヒトはまた粘膜から出て行きたくなた。深夜であたがアパートを出た。
 橋へ向かう道すがら、考えにふけた。
……どうして俺は無意味な思考を働かせてばかりいるんだろう。それも、ネガテブな、暗い思考ばかり! 人を見かける度、破壊的な考えを巡らせるのは何故だろう。……くそ! 今通り過ぎた自転車、ライトを付けていなかたぞ。この暗いのに、危ないのは歩行者じないか。それも後ろめたさの欠片も無い、とぼけた顔をしていた。ああいう奴には心が無いんだ。哲学的ゾンビだ。見た目が人間なだけなんだ。欠陥品だ……。違う! 俺はこんなこと考えたくない。無視すれば良いじないかそんなもの!)
 彼の精神は無気力と後ろめたさが生んだ自意識過剰のために激しく敏感になて、恐ろしく攻撃的になていた。そしてそんな自分を客観的に見つめる度に、自己嫌悪に陥るのだた。まるで反抗期の子供のような、イライラした自身を思うにつけ、こう思うのだた。
……早く老人になりたい。何も感じない、無欲で、無関心で、何ものにも動じない、枯れた大木のような老人に。)
 深夜の住宅街には人影一つなかた。
 そして町の東側をつなぐ橋の真ん中で、ユキヒトは立ち止まり、コンクリートの欄干に肘を乗せた。夜明けが近く、空は群青色に染まていた。空と地上の境界線上に、真黒な山のシルエトが輪郭を描いていた。緩やかな川からゆたりとした、巨大な生物の動きを思わせる流れの音が響いて、ユキヒトの全身を包んだ。そして川流れに乗て冷たい風が吹いた。川に沿て並ぶ桜の木々が暗闇の中でざわめいた。
 ユキヒトは一つの決心をした。
 空は明るんでいた。時折、背後をトラクが通過する他には辺りには何者もいなかた。川は南北に流れて町を分断し、東に行けば町があり、西に行けば住宅地がある。この川に沿てずと北上すると、山に行き着く。ユキヒトは視線を上げ、灰色に霞む遠い山嶺を見た。


 彼の両親が離婚する前――彼が高校生の頃に両親は離婚した――よく父と渓流釣りをした。父は休日の早朝にユキヒトを起こして、車で何時間もかけて山奥の清流へ連れて行たものだた。そして昼過ぎまで沢を登り続けて、山女魚や岩魚を追た。ユキヒトは釣り餌のブドウ虫を触るのが嫌だたので、こそり針だけ川に放て釣りをしている振りをした。父はスポーツ感覚で、次々と釣り上げてはリリースしていたが、ユキヒトには針の食い込んだ魚が痛ましく、哀れに見えた。釣りの楽しみを感じたことは一度も無かた。
 それでも父に付き合て川へ入たのは、川が美しかたからだ。ユキヒトは川そのものに惹かれたのである。
 彼の記憶する限り、初めて山奥の沢へ行たのは中学一年生の夏休みだた。それ以前にも釣りには連れて行かれたが、釣り堀や町に近い河川ばかりだた。
 その時感じた山と川を彼は忘れることが出来ない。といても、映画のトレーラーの様に繋ぎ合わされた断片的なシーンの寄せ集めなのではあるが。
 ……父は車をほとんど獣道と言て良いような中へ突込んで、両手から伸びる枝を押しのけながら森の中を進んだ。幼い日のユキヒトは上下に揺れる車の中で強い不安を抱いた。その当時すでに両親の関係は壊れていたので、時折ユキヒトは「父親に攫われたのではないか。釣りは方便で、自分はどこか遠くへ連れて行かれる途中なのかもしれない」と考えた。この不安は母親に対しても抱いた。知らないうちに離婚を済ませて、父親に会えなくなるのではないか……。ところが、車がふと開けた空間に飛び出した時、ユキヒトの心は目の前の光景に釘付けになた。
 車のドアを開けると、音が彼の身体を包んだ。それは流れる水の音だた。登たばかりの日の光が木々の隙間から差し込んで、山が纏た冷気を暖め始めていた。川からはうすらと霧が立ちこめ、そこら中に光の柱を形づくた。ユキヒトはぶると震えて、降り注ぐ光の柱の一つへ入た。水はエメラルドグリーンで、底まで透けて見えた。じと見つめていると、何かが動いているのが見えた。数匹の魚が滑る様に上流へ泳いで行た。
 そこは意図の無い世界だた。その中では父の意志も自身の意志も意味を持たない。山の内に包み込まれたそのあとでは、言葉は不要になる。四方には人工物の一つもない。たた今まで文明、あるいは社会と地続きだた自分の身体が突然切り離されてしまうのである。それは不安な頼りなさでもあり、同時に強烈な開放感でもあた。ユキヒトにとても、父にとてもそれは気が安らぐ時間だた。黙々と竿で空を切り、釣り針が水中を流れて行くのを目で追うだけである。


 ユキヒトはアパートを出て、橋から眺めていたあの山の中に居た。
 大きな登山バグを背負ていて、そこには食料と、寝袋と、テントが詰め込まれている。これらは山に来る前に新調したものだ。しばらく登山者用の道を登てから、ユキヒトは道を外れて傾斜のきつい谷に向かて藪の中を進んだ。下生えは絨毯の様に敷き詰められていて、歩きにくかたが、怪我することも無く進むことが出来た。父との経験が役に立た。時折、リクに引掛けた鈴を大きく鳴らした。辺りにはけたたましいセミの鳴き声が響き渡ている。そしてかすかに、水の音が聞こえる。
 それからすぐに渓流にぶちあたた。浅く、幅もあまり無い。キンプをするなら水辺が良い。ここなら釣り人がくることも無いだろう。そう考えて、ユキヒトは川に沿て歩いて平たい土地を探し、テントを立てた。
 山の中は涼しかたが、ユキヒトは球の様な汗を浮かせていた。引きこもりの身体は想像以上に重かたらしい。近くの大きな石に腰掛けた。そして流水の音に耳を澄ませた。
 完全に一人だた。満ち足りた達成感があた。あの放り出された感覚が全身を包んだ。それをこそユキヒトは望んでいたのである。
 ふと思いついて、ユキヒトは靴と靴下を脱いで川の中に足を突込んだ。足の表面を巡る血液が川の冷たさを乗せて全身に行き渡る心地がした。
 しばらくしてから、「まだまだやることがあるぞ」と気を奮い立たせて、ユキヒトは川を出た。まずは薪を集めなくてはならない。飲み水を確保するには、川水を煮沸消毒する必要がある。薪は大量に必要になるはずだた。
 ユキヒトがテントを張た川は、深い谷間を流れていた。川の両側は砂利になているか、あるいは大きな岩で崖のようになていた。砂利のところは木陰にならないので、乾いた流木を拾うことが出来た。ユキヒトは川辺を歩きながら、中身を空にしたリクの中に薪を集めた。
 その内に辺りが薄暗くなた。谷間に居るために、日照時間が短い。空はまだ明るい様に見えて、日は届かない。山に切り取られた空は不気味に雲をたなびかせていた。ユキヒトはテントに帰た。
 薪をピラミド型に積んでから、ライターで火をつけた。ただそれだけの行為にユキヒトは胸がどきどきした。燃え上がる火は全く非日常の象徴だた。オレンジ色の火が崩す様に枝を焼いて辺りを煌煌と照らした。それからホームセンターで買た、五徳付きの折りたたみの台を組み立てて、鍋で湯を沸かした。
 その湯で作たインスタントコーヒーは美味しかた。アパートで朝から晩まで煮立たコーヒーを飲んだものだたが、まるで別物だた。それから暗く染まていく空を眺めながらビスケトを食べてテントに入た。
 仰向けになて天幕を見つめると、はと気がついた。
 頭の中で声を荒げていた自分がいない。心は静かで、ほとんどその存在を見せないではないか。ユキヒトは目を閉じた。このまま闇に解けて行きそうだた。


 タツミがそのテントを見つけたのは夜も更けた頃合いだた。革靴にスーツのまま藪の中を歩き回たせいで、足は痛むし泥だらけになるし、汗でシツがぴたり貼り付くしという有様だた。山に登るなんて止せば良かたと、何度後悔したかわからない。今はとにかく水が飲みたいのだが、ここには自販機もない。というところで、テントに出くわしたのであた。
 真暗で足下もおぼつかない。タツミは茂みに見を隠してテントの様子を伺た。携帯の明かりを向ける。小さなテントの脇にはかまどらしいものが組んであて、薪も積んである。誰かが生活しているのは確かなようだ。問題は、そいつがただのアウトドア趣味の人間なのか、ろくでもない浮浪者なのかである。
 しかしとにかく全身が疲れていた。一か八かでも、戸を叩いてみるしかない。まさかシリアルキラーが潜んでいるということはあるまい。
 意を決して、タツミはそと歩いて――といても、砂利のせいで足音を消すことは不可能だたが――テントに近づいた。そしてちと考えてから、出来るだけ身だしなみを整えて、背筋を伸ばした。一体どんな奴が潜んでいるか、わからない。ノクしてみようと思たが、叩く場所が無い。また少し考えてから、咳払いして、声を掛けた。
「あの、もしもし」
 耳を澄ますが、返事はない。夜も遅いし、眠ているのだろう。それはそうだ。こんな時間に訪問するなんて常識外れだ。……しかしこんなところで常識も何も無い。タツミにはそんな余裕は無い。
「あの!」
 声を張たが、テントに動きは無い。
「どちらさまですか?」
 その声はタツミの後ろからした。タツミは飛び上がてそのまま後ずさりして転んだ。心臓が早鐘の様に打ている。
 尻餅をついたままその声の主を見上げた。ほとんど輪郭しかわからないが、ぬとひろ長い男性だた。男はタツミを放ておいたままテントを空けた。タツミはびくりした顔のまま、彼の一挙手一投足を見つめた。するとテントがぱと明るくなて、ライトを手にした男がテントから出て来た。
「あの、あの」明かりに顔を照らされながら、タツミはもつれる舌を必死に動かした。「山の中で迷てしまて、あの、水かなにかいただけないかと思いまして、えと代金は支払えますので……
「遭難? それは、大変でしたね。……とりあえずテントに入りますか? その恰好じ、寒いでしう」
 男はまるで普通の人間の様に話したので、タツミはほとした。

 テントの中は狭かたが、外に居るよりずと安心した。男はユキヒトという名前を名乗て、タツミに携行食と水をやた。
 タツミは黙々とそれを口にして、ユキヒトはそれをじと見ていた。
「自分は大学生なんです。夏休みに、一人でキンプというわけです。まあ一人が好きな質なんで、楽しく過ごしてますよ」
 タツミは「へえ」と相槌を打た。「何泊もされてるんですか」
「もう一週間くらいですよ。そろそろ持て来た食料が切れるんで、下に買いに行こうか、もうキンプは止めにしようか迷てるところです。ところで、タツミさんは、どうして…いや」
「僕がどうしてこんなところで遭難しているのかですか?」
 タツミは早口に言た。
「いや、やぱり詮索するのはよそうと思いまして」
 しかしタツミは続けた。
「実は遭難したわけじないんです。スーツ姿で山にいること自体、おかしいでしう? 何かの仕事で山に来たとしても、革靴のままなんてことがあるでしうか?」
 互いに口をつぐんだ。テントの外では川が流れ、木々がざわめき、虫が鳴いていた。そして時折フクロウが「ホー」と鳴いた。
 先に口を開いたのはユキヒトだた。
「何故、話すんです?」
「話したくなたんです。親切にしていただいたし……いやそんなことじなくて、そうじなくて、嘘を言うのが嫌になたんです。そのために山に入たんです」
「ここでは嘘をつく必要はありませんよ」
 タツミの顔には異様な熱が浮いていた。しかしユキヒトはそのことに何も感じなかた。二人の間に置いたライトが、天幕に二人の影を映し出していた。
「僕は、僕は、死のうと思て山に入たんです」
 タツミはにやりと笑た。照れ隠しの様な笑いだた。
「僕には妻と、息子がいます。サラリーマンです。でも全て捨ててきました。自分を全て捨てたんです」
「どうして、そんなことを?」ユキヒトは機械的に聞いた。既にわかりきたことを問う様に。
「人生が嫌になることは誰にでもあるでしう。母から生まれたその日から、人生はどんどん短くなて行くんです。時間を消費しながら……でもその代わりに積み重ねているものがあるでしう。それはきと、いろんな形で。思い出とか、努力とか……。しかし途中で嫌になたら? それを蹴飛ばすてことですよ。過去と立ち向かうことですよ。そんなこと出来やしませんよ。そして世の中が変わることも無い」
 タツミの言葉は思いついた端から飛び出して来るようだた。顔色は真青だた。
「僕の仕事はね、教材を売ることですよ。根拠も無い、胡散臭い学習訓練のDVDを売るんですよ。世の中、これが巨大なビジネスとして成り立ているんだから驚きでしう? 全国から注文が殺到しますよ。皆、このDVDで教育すれば、自分の子供が賢くなると信じきてるんですよ。会社はこれをマイナーンジして何度も何度も発売するだけで、ボロ儲けです。僕の仕事は営業の電話をして、注文を受けるだけ。毎日毎日、期待に満ちた人々の声を聞いては、『当社調べの効果』を説明するんです。もう大丈夫、これで他所の子と何ら変わらない子供に育ちますよ! て。へ、へ、へ、そんなわけない。そんなわけない。みんな嘘ですからね。……もうこんなことは嫌ですよ」
 タツミは息切れして、ぜいぜい言た。深い底に溜め込んだものを全て汲み上げて、まき散らそうとしているようだた。
 ユキヒトは何も答えられなかた。タツミは既にどこか狂ているように見えた。しかしその姿は山に上る前の自分に近しかた。ただ山に来た目的は真逆だた。
 ユキヒトは最初この訪問者を見つけた時――うど用達に行てテントに戻て来ると、彼の後ろ姿を見つけたのである――無視して、去るまでどこかに身を隠そうと考えた。ところが、実際には彼に声を掛け、あまつさえ備蓄の食料と水を与えた。そして今や愚痴を聞いている。人との関係が嫌でこの山に来たはずだたのにも関わらず。
 タツミははとして、目をきろきろさせながらにやりと笑た。
「いや、すいません。取り乱して……。どうしてこんなこと喋たんだろう? 死ぬ前に誰かに話したかたというかなんと言うか、そういうことでしうか? いや、とんだご迷惑をお掛けしました」
 ユキヒトは彼の異常な熱が移た様に、思わず口を開いていた。
「僕は仙人になりたいと思て、山に登たんですよ」
 彼の顔には恥ずかしげな笑顔が浮いていた。修学旅行の夜に、友達に告白するように。
「いつも自分に囚われているような……他人に囚われているような、そんな心地がしていたんです。なんだかいつまでたても自分が子供か、赤ん坊のような気がして。だから、早く老人になりたいんです。移ろい行く自然の中で、何にも邪魔されずに、何も邪魔しないで生きていく、みたいな」
 実際それはユキヒトの本心の告白だたので、彼の顔は少し赤らんでいた。何故か、この偶然出会たタツミには理解されるような気がしたのだ。
 ところが、タツミは話を聞いていたのかいないのか、というような具合で、「はあ」と相槌を打ただけだた。このことには、ユキヒトはひどくがかりした。怒りさえ湧いてきそうだた。そして、何故こんなことを言てしまたのかと後悔した。
「なんだか変ですね」とタツミは言た。
 なんのことだかわからなかたので、ユキヒトは続きを待た。
「世代の違いなんでしうかね? 早く老人になりたいて。僕の頃は、自分が子供だと思うなら、『大人になりたい』としきりに願たものです」
 ユキヒトはぎくりとして、もうこの男と話すのが嫌になた。彼もまた、町の人間に過ぎないのだということがわかた。
「ああ、もう、こんなことをしている場合じなかたんだた」
 言てタツミは立ち上がた。ごく自然に、当たり前の様に。
「あの」とユキヒトは声を掛けたが、その続きはなかた。タツミはちらと振り向いてから会釈して、テントから出て行た。ユキヒトはただただ、じとそれを見ていた。これから彼は死ぬんだと思うと不思議な気がした。しかしやぱり止めようという気持ちは全く湧かなかた。本当に、妙な会合だた。
 彼の足音が遠ざかていくのをユキヒトは聞いていた。砂利の上を革靴で歩く音。たまに石を蹴飛ばして、じらじらと音を鳴らしている。
 研ぎすまされた時間が過ぎていた。一つの命が目の前で無くなろうとしているのに、自分は止めもせず、追いもせず、テントの中で座り込んでいる。しかし何も感じないのだ。
 ユキヒトは彼の足音が聞こえなくなてから、テントの入り口を開けて顔を出した。涼しい風が吹いている。辺りには深い闇が広がていたが、川の周りは空からの星明かりが降り注いで青い異世界のように見えた。ユキヒトはその川の向こうに人影を見た。タツミだ。青い光の中でゆらゆらと真黒な影が遠ざかて行く。そしてあという間に、闇の中へ消えていた。音も聞こえなければ、姿も見えない。
 また一人になた。


 翌朝、ユキヒトはテントを畳んで山を下りていた。
 髭は伸び放題で、服も泥に汚れた姿で電車に乗て町に向かている。車内は人で一杯だた。これほどの人間を見たのは、ほんの一週間振りであるが、真新しい光景に思えた。窓からは青空の下で灰色に掠れた山の姿が見えた。ユキヒトはそれを眺めた。あの男は本当に、命を絶たのだろうか? どんな方法で? 苦しんだだろうか、安らかだただろうか? しかしそれを知る術はない。知る必要もない。彼は他人なのだ。隣に座ている人間と同じ様に。
 昼には町についていた。ムとした熱気が街全体を包み込んでいる。太陽の光がのしかかるようだた。ユキヒトは陽炎の揺れる橋の中で立ち止またが、一瞬山に目を遣てから、すぐに歩き出した。
 アパートに着く頃には汗が全身から吹き出していた。重いリクを六畳間に放り出して、ユキヒトは水を飲んだ。
 それからシワーを浴びて髭を剃り、新しい服に着替えた。
 これからどうしようか、と考えて、手元にほとんど金が無いことに思い至た。有り金は様々な備品につぎ込んでしまたのだた。
 ユキヒトは放たリクの口を広げて、中から細長いプラスチクケースを取り出した。テントと一緒に、釣り竿も買ていたのだ。結局山の中では釣りはしなかたが、渓流に行くからにはあた方が良いと考えたのだた。
 おもむろに黒いつややかなロドを伸ばし、ためつすがめつしてみた。
 事ここに至ては仕方が無い。魚でも釣て生活の足しにしようか、とユキヒトは考えた。
 それは非現実的な思いつきというわけでもない。彼は釣りの仕方をよく知ているはずなのだから。

おわり
 
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