彼女は笑わない
「なんで君は笑わないんだい」
「あなたが笑えないほど気持ち悪いからです」
「ひどいな」
「その喋り方、気持ち悪いという自覚がないんですか」
「少なくとも君のその言葉で傷つく程度には」
彼女の目の前にいるのは歳が十ほど離れた従兄で今はどこぞの三流大学でポスドクをしている、が今回はあまり関係がない。彼女は女子高生で、妙に気取
った、というか明らかに何かに悪い影響を受けてしまった大学組織に属する従兄との組み合わせはまるで殺人事件でホームズとワトソン役のような活躍をしそうだがそんな展開はない。平和であるし、警察はある程度有能で、通信の途絶された因習めいた地域や洋館に閉じ込められることはない。そういったこととは全く無縁なハッピーなセットがあるような。ファストフードチェーン店である。
「笑うことに何の意味があるんですか?」
「カントはこう言っている。 笑いは緊張の緩和から来る、って。仲のいい従兄の前で緊張してほしくないな」
「仲が良いと思ってたんですか? それとも何かの冗談ですか? 笑えないんですけど」
彼女はこの従兄が苦手だった。というか苦手になった。つい先ほどまでその存在は無に等しかった。子供の頃にあったことがあるはずだがその記憶は希釈されきって純水と大差がない。そもそも目の前の男が本当に血族であるという自信がない。
「私は、生まれた時から笑ったことがないんです」
「そうだったっけ?」
「そうです。だから私を様々な方法で笑わせようと試行錯誤した父は首の骨を折って死にました」
「叔父さん死んでないよね?」
「何で知ってるんですか? ストーカーですか?」
「従兄って意味、わかる?」
「……他人ってことですよね?」
「いや、間違っちゃいないけどね」
男はそういうと窓の外を一瞥するとまぶしそうにしながらかすかに笑った。
「君は面白いね」
「そういうあなたはいちいち笑い方まで気持ち悪いですね」
「けど、本当に笑わないのかい?」
「笑えない」
「困ったな」
ぼさぼさの髪を搔きながら、男は苦笑する。そのさまは本当に推理小説に出てきそうな世間知らずでずぼらな探偵のようだ。
「私は困りませんけど」
「しかし困るでしょ。笑わないと元に戻れないんだよ?」
「別に」
「困ったなぁ」
男には目の前の彼女が仏頂面なのか判別がつかない。実に可愛らしい容姿なのだが、それが人間のものではないのでなんとも感情が読み取りづらいのである。呪いによってセスジキノボリカンガルーという哺乳綱二門歯目カンガルー科キノボリカンガルー属に分類される有袋類の姿になってしまっている。その呪いを解くためには笑わないといけないのであるが。
「笑ってよ」
「嫌です」
彼女は笑わない。