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笑う男
投稿時刻 : 2016.07.20 20:05
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笑う男
倉下 忠憲


 その男はいつも笑顔を浮かべていた。
 冷淡というのではないし、快活というのでもない。まるで笑顔という観念をそのまま貼りつけたかのような笑顔だた。神経質な彫刻家が、「笑う男」という題で彫り上げた彫像の顔が貼りついて取れない呪いにかかていると言われても、僕はそれを信じただろう。
 そんな笑顔を浮かべながら、その男は「興味深いです」とか「以前から気になていました」などと言う。棒読みではないし、むしろ感情がこもている。でも、いつもその調子なのだ。どんな話であても、同じ調子でその男は応える。だから周りにいる人間は、彼の無関心を疑うことになた。相づちとはリズムなのだ。

 あるとき僕は尋ねてみた。「いつも笑ておられますね。何か楽しいことでも?」
 皮肉のつもりはなかたが、口調にはそれが混じていたのかもしれない。それでも彼はいつものトーンで応えた。「ご興味がおありで?」
「興味というほどではありませんが、ちと気になて。心理学を専攻しているので」
「大学生さんでしたか」
「いえいえ、これでもれきとした研究者ですよ。とは言え、教授の椅子ははるか遠方ですが」
 僕は笑た。彼も笑た。いつものように。
「僕たちにとて好奇心はエンジンなんです。それがなくなたら止まてしまう、という意味で」
「なるほど」
 彼は頷いた。そして同じトーンで言た。
「とはいえ、理由などないんです。あなたの好奇心は満たせそうにもありません。気がついたら、こうなていたんです。笑みが顔に貼りついていたんです」
「じあ、意識してその表情を浮かべているわけではない?」
「私は、普通のつもりですよ。あなただて、ずと表情を作り続けられるものではないでしう」
 それはそうだ。作り笑いは、普段そういう顔をしていないからこそ、作り笑いとなる。それが常態になてしまたら、それはもう作り笑いとは呼べない。
「でも、私は喜ばしく思ていますよ。こういう表情をするようになてから、生き心地がよくなりました」
「生き心地?」
「ええ。それまではね、ずと居心地の悪さを感じていたんですよ。違和感といてもいい。自分が間違ているのか、それとも世界の方が間違ているのかはわかりませんが、どうしてもここにいるべきではない、という感覚が消えませんでした。それがね、少しずつ無くなていたんですよ」
 男は続けた。
「面白いことに、この笑顔は人を遠ざけるんです。最初のうちは違いますよ。むしろ無害な人間だと思われて、近づいてくる人がたくさんいます。簡単にコントロールできると思うんでしうね。反吐が出そうになります。でも、時間が経つと皆一様に距離を置くようになるんです。不気味なんでしうね、きと。そうやて人が距離を置くたびに、私の生き心地の悪さが消えていくことに気づいたんです」
 男は僕の方を一度だけ見た。
「それはね、人を殺すことなんですよ──いえいえ、そんな物騒な話ではありませんよ。距離を近づけてきた人がね、ふと、距離を置く瞬間に、私は感じるんですよ。ああ、この人を殺したな、と」
「飛躍が過ぎませんか」
「そうかもしれません。でも、私はこう思うんです。彼らが距離を置いた瞬間、彼らにとて私はどうでもいい存在になた。つまり、彼らから見て私が死んだわけです。それと同時に、私にとても彼らは無用となりました。そんな風に離れていく人間に興味などありません。つまり、私にとても彼らは死んだことになるのです。この笑顔が、殺してしまたんです」
 そういう男は、いつものように笑ていた。
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