愛ってよくわからない
あの人は大学講師です。週一度、英語を教えに来ていました。
「みなさん、僕にフ
ェイスブックの友達申請を送ってください。グループを作って、課題の管理などをそこで行います。出欠席の連絡はメッセージを授業開始前までに送ってください。できる限りみなさんのお力になりたいと思いますので、悩みとかがあったら、気軽にメッセージくださいね」
モアイみたいに無表情な学生の前で、ニコニコと歯を見せながら話していました。九人ほどの小さなクラス。温室のような教室。バタバタとうるさいブラインドカーテン。穏やかな昼下がりでした。
あの人は四十歳。私の好きなロックバンドのボーカルと同い年。同じなのは年齢ぐらいで、他は全てが違います。まず、背が低い。一六五センチで、ボーカルより一〇センチも低いのです。そして顔も不細工です。子供の落書きのような顔をしています。幸い禿げてはいませんが、ひどいくせ毛です。太っていて、いつも体がじんわりと湿っています。結婚をしていて、五歳になる娘さんがいました。
第一印象は大学の先生以上でも以下でもありませんでした。向こうにしても、生徒以上でも生徒以下でもなかったはずです。週に一度、昼下がりの温室で一緒にまどろむ関係以上でも以下でもなかったのです。
あの人は真面目そうな人でした。フェイスブックには、授業があった日の夜八時に必ず課題が掲示されました。授業外の時間に学生と交流することもありませんでした。授業が終わると、あの人は丁寧にテキストを片付け、丁寧にホワイトボードを拭きます。そして「お疲れ様」と細い目をニコニコさせながら教室を出て行きます。ゆったりとした中にもきちんとある規律を、本人なりに守っているようでした。
規律を壊したのはあの人自身でした。
なぜ私が選ばれたのかは分かりません。あの人も分かっていないでしょう。そういう気分だったときに偶然そこに私が居たから、ただそれだけのことです。
英語の勉強法についてご相談があります、と最初に近寄ったのは私の方でした。では今度の授業の後、一緒にお茶でもしましょうか、とあの人は応えてくれました。お茶会は一回、二回と繰り返され、そのうち授業後は必ず二人で会うようになりました。
正直、戸惑っていました。あの人は私のタイプでも何でもありませんでしたし、最初にお誘いしたのも本当に勉強のためでした。私に気があるのかな、下心があるのかなと思ったりしました。邪念がプクプクと湧いてくるたびに、あの人は生徒と先生として会ってくれているのだ、と何度も言い聞かせました。
「毎回カフェテリアや喫茶店でお茶っていうのもマンネリしちゃうし、もし野中さんが良かったら、今晩飲みに行かないかな」
授業の後、いつも通りカフェテリアに座って待っていた私にあの人はそう言いました。細い目をこれ以上細くできないほど細めて笑う、いつも通りの笑顔がありました。奥さんがアイロンをかけてくれている青いストライプのワイシャツは、袖にしっかりと折り目がつけてあります。パキパキとかしこまったワイシャツに出来ていた汗染みになぜか目がひきつけられました。太っているから汗かきやすいのかな、とくだらないことが頭をよぎりました。
「やっぱり二人で飲むのは嫌かな」
あの人のどこか寂しそうな声。焦りました。早く応えないと、嫌われてしまうかもしれない。あの人から嫌われるのは、なぜだかとても恐ろしいことのように思われました。
「ぼんやりしてしまってごめんなさい。もしご迷惑でなければ、是非ご一緒させて頂きたいです。ご家庭の方は大丈夫ですか」
「大丈夫。奥さん的には僕が家に居ない方が良いだろうし、僕も家に帰りたくないしさ」
とあの人はカラカラ笑いました。
その夜は街灯もまばらな暗い裏通りにある、小さなバルに行きました。お酒を飲みながらいつもより下品な話をしたのを覚えています。私が今まで誰とも付き合ったことがないことを話すと、あの人は嬉しそうにしていました。
野中さんみたいにかわいい子を放っておくなんて、最近の若者は見る目がないね。僕がもし同い年だったら、野中さんを真っ先に狙っていたのに。
「野中さんのファーストキスを僕にください」
店を出た時、あの人はそんなことを言いました。頭の中がじんわりと痺れてきて、どうしたら良いのか分からなくなりました。オドオドと視線をあげると、すっかりしわくちゃになったワイシャツを着たあの人と目が合いました。
「ねえ、俺にキスさせてよ。俺が全部教えてあげるから」
アルコールのこもった息が顔にかかりました。もう、逃がさないよ、自業自得だよ、とあの人の細い目は言っているようでした。
食べられてみたい、とまた馬鹿なことを考えていました。
それからあの人との特別講習は始まりました。確かに、あの人はたくさんのことを教えてくれました。イベントは大切にしようとか、好きだとか嫌いだとか、愛しているとか愛していないとか、そういうことではありません。キスのやり方、男の人の喜ばせ方、セックスのやり方を「教えて」くれました。私たちが会う時はいつも決まってこういったことをしました。男女が付き合うとはセックスすること、そう理解するようにしていました。
私たちは授業の後、ホテルに来ていました。
あの人なりに処女だった私に配慮したつもりだったのか、私たちが実際に最後までセックスをしたのは、付き合いだして二ヶ月経った先週のことでした。今日で二回目のセックスです。
愛する人と体を重ねることはこの上ない幸せだというイメージを持っていました。永遠につながっていたいと祈るものだと。先週は初めてだったからあんなに痛かったのだ。二回目になったら痛みも遠のいて、暖かい気持ちになれるだろうと思っていた。
灰色の天井。オレンジ色の白熱灯。唐草模様の壁紙。染み付いた気が滅入るようなにおい。ヒリヒリとした痛み。それらが全て私の気持ちを白けさせていく。大好きなはずの人の汗ですら鬱陶しい。
「かおり、かわいい。愛しているよ」
息を切らしながらあの人は覆い被さってくる。耳元で愛しているよ、愛しているよと何遍も繰りかえす。私もあの人の耳に愛している、を返してあげる。するとあの人の呼吸がもっとはやくなる。痛みも鋭くなる。
はやく終わって欲しい。はやくこの痛みから解放されたい。それしか考えられない。アダルトビデオの女優さんはどうしてあんなに気持ちよさそうにできるのだろう。流石「女優」だ。女優さんのように艶っぽく喘ぐことも、自ら動くこともできなかった。与えられるだけで精一杯だった。
あの人の動きが止まる。体が震える。そしてまた、愛しているをくれる。解放された喜びを噛み締めながら、あの人の体を強く抱きしめる。言葉はどこかに滑って行ってしまい、愛しているを返すことはできなかった。
「気持ちよくなるのに時間がかかるのは仕方ないよ。何回もしているうちに痛くなくなってきて、すごく気持ちよくなってくるものだよ」
まだちょっと痛かった、と言う私の胸に顔をうずめながらあの人は言った。
「でもこの前よりは良かったでしょ」
あの人が喋るたび、セックスがどんどん嫌いになっていく。
指輪がはまっていない、あの人の左手の薬指を横目に見る。あの人は私とホテルに入ると、まず指輪を外して机の上に置く。曰く、本当に愛している女の前ではそうするらしい。
「かおり、かわいい、好きだよ。大好きだ」
「私も好きだよ」
愛しているだとか、大好きだとかいう感情は、いつ分からなくなったのだろう。付き合いだしたばかりの頃は、一緒にいるとドキドキしたし、もっと一緒にいたいと思った。今みたいに、好きと言われるほど冷めた気持ちになったりはしなかった。あの人と同じ気持ちになれない自分を恥じた。焦燥感が募っていく。
元から細い目をさらに細するあの笑い方であの人は笑っていた。隣には、同じぐらいの背丈で、同じように目を細くして笑う奥さんがいた。腕には子供が不満そうな顔をして抱えられている。アスファルトから反射する太陽光が眩しいのかもしれない。湿気と獣の匂いが混じり合った空気が、モニター越しにも伝わってくるようだった。
「娘を連れて、家族三人で初めて上野動物園に行きました。パンダは展示中止されていて見られなかったけど、娘はキリンさんがとても気に入ったようです」
と、フェイスブックのキャプション欄に書いてあった。キリンの檻の前でどんな会話をしたのだろう。どんな顔をしていたのだろう。ホテルでしかあの人と会えない私が決して見ることのできないあの人の顔を、奥さんは近くでずっと見られる。
あの人は奥さんと喧嘩ばかりしていて、家に帰ると息が詰まると言っていた。俺とあいつの間に愛はもうないから、かおりのことを一番に愛しているから、と言い聞かせてきた。その言葉を信じて、自分自身にあの人を愛するようにと呪文をかけていたのに、こうやって幸せそうな写真を見ると、魔法が解けてしまう。
私にはあの人しかいないけど、あの人には私も奥さんもいる。
ホテルの天井の色に心は染まっていく。横隔膜がぎゅっと締め付けられるような心地がし、苦しくて涙が出てくる。笑顔がぼやけていく。
パソコンの青いモニターは無表情のまま、泣く私をじっと見つめていた。
あの人は講師だったので、教授たちのように研究室を持っていなかった。カフェテリアや喫茶店で、二人きりのところを他の生徒に見られたらまずい、ということでいつもホテルに行った。いつも、と言っても、授業がある水曜日にだけ、行っていた。水曜日以外に会うことはなかった。