窓辺の黒白
「さようなら、中学校よ!」
黒板に赤く刻印されたその文字は、かつて野球部部長が記した物だ
った。そして周りにキャラクターや文字が書かれている。そう、すべて覚えてた。口にして一つ一つ確認するように、狂ってしまいそうなほど鮮明な記憶だった。
割れた窓から漏れる遅すぎた夏風は、かつての彼の匂いを運ぶ。時計は既に12時を回っていたけれど、決してそこを暗いとは思わなかった。4年前はあんなにも暗黒を恐れていたはずなのに、恐怖心の様なものはすでになく、ただ茫然と輝く月が私を照らす。
教卓に添えられた小さな野球ボール。土で汚れ、臭くて、そして夏風と同じ匂いがした。私はそれを静かに掴み、じっくりと眺める。真っ白な球。ああどうして……。
どうして私は、ああ言ったのだろう。
中学2年生、私は1組の教室前で、扉に掲示された座席表を眺めていた。それはちょうど真ん中左辺りで、何も不満は無かった。話すことが苦手多だった私は、とにかく相手を求めていた。誰だっていい、ただ一人ぼっちにならなければいいと。
隣は男子だった。「稗田光一郎」。
正直、「マジか」と思っていた。できれば辺りは女子に囲まれて、そこで友情を結束できれば万々歳だった。クラスの中で漂う異様に暗い雰囲気。1年生から同じだった人が会話をしている。生憎、以前のクラスで仲の良かった人がいなかった。意を決し、足を、身体をその集団へ投じた。緊張で体が縛られそうな中、彼を見つけた。
真顔の集団がこちらを見つめた。私は一心不乱に自分の席へ向かった。木製のそれに座り、これもまた黙り込んだままの稗田君を見た。一見不気味そうな顔ではなく、けれど口をつむり、孤立している様子だった。でも私はその空気を新鮮なものにしたくて、彼に「よろしくね」と声をかけた。手を差し出し、向こうの返答を待つ。彼はゆっくりその手を凝視し、同じように「よろしく」と呼応した。笑顔を見せてくれたので、一安心と共に拘束が解けていく。彼は割と細身だった。
それから数か月がたち、すでにクラスの中にわだかまりの様なものは存在していなかった。女子も男子も一様に話しかけたし、親密になれた人もいた。ああようやく幸せが訪れるのか。給食の時間も授業の合間も、ずっと楽しい日々が続いた。ある日、日差しの強い夏。私はしょうもないことに気が付いた。それは野球部の谷野君の発言から生じ、クラス全員が疑問に感じたことだった。大きな手を私の肩置き。稗田君を指差した。稗田君の筆箱はすべて黒色で統一されていた。シャープペンシル、消しゴム。定規に至るまで筆箱の中身は黒色で統一されていた。だからどうなのだと思ったが、それほどそいつは気まぐれなやつだった。それでも私達は引っかかった紐をたくし上げるように、稗田君に質問を投げかけた。
「なんで黒色ばっかりなの?」
「黒色が好きなんだ」
彼がそういうと、クラスの人は納得したように振る舞った。本当は疑問なのだろう。黒色か。稗田君の学生服は黒いが、あれはただの指定服だ。男子は皆同じものを着ているし、決しておかしい事ではない。好みの問題だろうと彼から目を離そうとしたとき、彼の首が動く。そしてちょうど光の差し込み、稗田君の瞳が透けているように見えた。
6時間目が終わり、下校を促すチャイムが流れる中、稗田君はゆっくり立ち上がり、下駄箱へ向かった。私は惹かれるようにそれについて行った。どうしても、あの透明なガラスの様なものの正体が知りたかったのだ。靴を履き終え外へ出る彼について行き、「稗田君」と呼んだ。そしてこちらへ振り返る。だが彼は始めて出会った時の様に呼応せず、ゆっくりこちらへ歩いていた。
「稗田君?」
「あ……椛田さん」
午後4時だというのにまだかんかん照りで、私達は日陰のあるバスの停留所で、並んで座っていた。そして、未だにあの瞳の中に見た水晶体の様なものを、私は探求するタイミングを探っていた。というより、常に二人とも話していなかった。ただお互いに目の前を過ぎ去る風と、辺りにうっそうと広がる草木の背丈を眺めていた。けれど、かつて同じことをしたように、私は尋ねることを決めた。
「稗田君ってさ、アイコンタクト、してる? なんか、中に白ーいやつが見えて。2枚重ね?」
「……いや、違うよ」
「へぇ、そうなんだ……じゃあさ、なんで白いの?」
その後、稗田君が何かを語ることは無く、バスが到着した。彼たった一人を乗せ、目の前から去っていくバス。私は再び座り込み、白い靴下と黒いローファーを見つめていた。そして何かを察したように、本当は何もわかってはいないけれど推測で、呟いた。
「白に黒を被せてるの?」
つま先の延長線上に、プリントが落ちていた。稗田君のバッグから落ちたものかと思い、拾って、見る。デリカシーが無いと思われるかもしれないが、どちらかというと不意に目に入った。そこには「白内障」の文字があった。合点の行った私は戸惑いながら、勝手に探りを入れてしまい申し訳ないという気持ちにさいなまれていた。ああ、そうか。初めて会ったとき、なかなか手を握らなかったのは、言い方が気持ち悪いけれど私の肌が白かったから?黒い私物が多いのは、それ以外は見辛いから?彼の眼には、白いもやがかかっているんだ。私は驚く暇もなく、そのプリントをカバンにしまった。きっと保険証のようなものだろう。明日、誰にも見られないように渡そう。これは、私だけが知っていることにしよう。谷野君にも、仲良くなれた、ちょっとヤンキー臭い彩ちゃんにも、誰にも言わないようにしよう。たった一つだけの事象を、心のタンスにしまい込んだ。
翌日、私は登校が遅れてしまい、朝の会ギリギリで教室に入ってしまった。クラスはいつも以上にうるさくて、やかましかった。稗田君を見るなりバッグを机に置き、ファイルにいれたプリントをこっそり取り出した時、先生が大きな声で「全員座って」と言いながら入ってきた。私は一先ずそれをしまい、席に着いた。先生が教壇に立ち、神妙な面持ちで話し始める。クラスは硬直したかのように変貌し、その様子が不気味でもあった。
「落ち着いて聞いてほしい。今年度で、ここは廃校になる」
阿鼻叫喚とは言い難いが、驚愕の嵐が駆け巡った。誰かは「マジで?」と呟き、誰かは冗談交じりに「ヤッター!」と叫び、誰かは興味のなさそうに振る舞っている。
「みんな気付いているかもしれないけど、この学校は3クラスしかない。それでも多い方だって思うかもしれないけど、まあ、社会的な事情も重なって、廃校になる」
私の住む地域は所謂「過疎地」。だが、そこに立っているこの学校へとやってくるのは、学区内に入った人ばかりだった。つまり、私の様な存在ばかりではないということだ。稗田君の様に、少し都会の方の人でも通わなければいけない場所だった。推測するに、交通費や立地的な苦情が入ったのだろう。でも、私はどうなるの?その場所にいる人にとっては最善の策かもしれない。だけど、こちらは一番近くて、それ以外となると公共交通機関を利用せずには通えなくなる。立場が逆転する。だけど、きっと多数派に呑みこまれるんだろうな。抵抗はしたくなかった。社会の波に呑まれ、そのまま揺られながら生きていく方が楽じゃないか。
「そんなのダメです!」
場を静まらせたのは、隣の席の、まさしく稗田君だった。
「だって、そうしたら、この地域の人はどうなるんですか」
「おお、そうだ。稗田の言う通りだろ」
「そうよ、椛田を一人ぼっちにさせたいわけ?」
その声につられ、谷野君や彩ちゃんが申し立てをする。次第にその声は大きくなり、仲良くさせてもらっている人の中から反論が飛び交うことになった。
「そんなこと言われても! もう、決まったことだ。椛田、申し訳ない」
「い、いえ。大丈夫、です」
そう言ってようやく朝の会は終了し、私は席に着いた。谷野君や彩ちゃんの反論よりも、なによりあの稗田君が声を荒げたことが、私にとって衝撃的だった。またクラスは静けさを取り戻し、緑色の黒板には何も書かれてはいなかった。
図書室は静かなまま、既に本の移築作業が進められていた。カウンターや机の上に蔵書が並べられ、業者さんが一つ一つ丁寧に、大きなカゴへ入れていく。すっかり裸になった木枠には埃が溜り、直立した存在。一切の活気も感じられず、ただ生暖かい空気で湿り気を帯びていた。図書館司書の先生が手招きし、奥の個室へ私と彩ちゃんは進んでいった。文房具や、壁一面にまだ残っている本が私たちを眺め、そして見送るかのように居た。きっとさっきまで何もない場所にいたのだから、その違和感だろう。時計は既に5時を回り、終わりを感じていた。
「これ、クラスの本棚に入れておいてください」
数冊の文庫本を手渡され、私達はそこを出た。比較的軽いものだったので、彩ちゃんには「一人でできる」と子供の様な事を言い、2年1組へ向かった。
「椛田ってさ、肝、据わってるよね。私は無理。だって、母校なくなるんだよ?」
「うん。でも、しょうがない、かなって」
「ふーん」