蝉
対座する老人は、手元の白湯を少しすすり庭に目を向けた。
「例えるならば蝉の声、ですかな」
幣無は菓子を置き、老人のほうに目を向ける。
「蝉ですか」
「左様、蝉ですな」
「夏でもなければ風情がありませんな」
「左様、うるさいだけです」
昼の陽が差し込む座敷に、老人が白湯をすする音が響く。
日当たりの加減が悪いのか、室内はいささか薄暗い感じさえする。さりとて、夏には熱くなりすぎずに良い具合にかもしれない。
幣無は老人の後ろの掛け軸に掛か
った柳宗元の詩をぼんやりと読んでいた。
蝉か。
静寂の中に虫の音が響くが、蝉ではない。
「いかがですかな」
白昼夢のような心持ちに誘われそうになっていたが、老人の声に呼び戻される。
「なんともわかりませんが、調べてみましょう」
しかし、まずが午睡が必要だ。
「先生。先生!」
川べりの原で午睡の微睡と戯れていた幣無の耳に煩わしい音が紛れ込んでくる。
うぅむ、あと五刻。
「それでは日が暮れるどころか日が昇りまする」
どうやら声に出ていたらしい。重たい目を辛うじて薄目にすると童の影が見える。
「泡か」
幣無の午睡を邪魔した童の名は泡(あぶく)と言った。本当の名は別あるのだが、幣無は泡としか呼ばない。口減らしに捨てられようとしていたところを、急に湧いた泡銭でもらい受けたから泡だ。無駄遣いをした自分への戒めの意味があるらしい。泡も最初のうちはその名で呼ばれることを厭い、いちいち訂正していたのだが、近頃では諦めたのか素直に返事をする。
「して、なにかわかったか?」
「狐狸妖怪の類はめぼしいものがないですね。他の村と似たようなもののけばかりです。因縁めいた話や沼の主のようなものもおりますが……」
幣無はもともとはある寺の住職だったのだが、諸々の事情で今は退魔師や拝み屋の真似事のような万の事で日銭を稼ぎながら各地を旅してまわっている。
「ふむ、では酒でも呑みながらゆっくり聞くとしよう」
そう言って起きあがった幣無は荷物も持たずにすたすたと歩き出す。泡は原に広げられたままの荷物を慌ててまとめて担ぎ上げ、早足であとを追う。
幣無の足取りに迷いはない。
さては、早々に酒屋の目星をつけていたな、と泡はあきれるのであった。
「音が、聞こえるのでございます」
老人の顔に丁度柱の影がかかり、よく見えない。
「四年程前からでしょうか、最初は半年に一回ほどでした。それが次第にみ月に一度、ひと月に一度、日に一度といった具合に、合間が短くなっていくのです。今では六刻に一度ほどです」
老人はまた、白湯をすすった。
「どんどん短くなって挙句の果てにはずっと音が鳴り続けるのではないか、眠っている暇もなくなってしまうのではないかと、恐れているのですよ」
ずずっ、ずずっ。
「恐れ故でしょうかな、今では食事も喉も通らず、こればかり啜っておるのです」
ずずっ、ずずっ、ずずっ。
「なんというのでしょうかな。不安ばかりが募っていくのです。その音を聞くと何故だか、急かされているような気がしましてな。どこかに行かねばならぬような、立ち上がればならぬような、起き上がらねばならぬような、目を覚まさねばならぬような」
ずずっ、ずずっ、ずずっ、ずずっ。
「親父、酒をくれ」
開口一番にそういうと、幣無は空いた席にどっかりと座った。
「おんや、お坊さんじゃないか。お坊さんに酒を出して罰があたりゃせんかね」
「なに、罰などあたりゃせんよ。坊主に布施をやってあるのはご利益ばかりさね」
「はっは、そりゃそうさな」
店の親父が笑いながら奥へ引っ込んでいく。
「先生、初日からお酒なんて」
「酒はいつ飲んでもうまいだろうが」
「知りませんよ」
「そうふてくれるな。おい親父、こいつになんか食わしてくれ。さて、お前の話を聞くとするか」
不服そうにしながらも泡は村の中で聞いた伝承、妖怪の噂、因縁話、幽霊譚を滔々と語りだしたのだが、幣無は感心なさげに酒ばかりあおっている。
「親父、もう一本頼む」
「ちょっと、聞いてますか先生」
「ああ、もちろん聞いているさ。例えばさっきの朱濡渦とかいうあやかし、面白いではないか。もっとよく聞かしとくれ」
すると泡が呆れたように溜息をつく。
「全然、聞いていないじゃないですか。朱濡渦なんて妖怪の話、知りませんよ」
おや、と幣無は首を傾げた。酔ったかとも思ったが、徳利一本程度で酔うはずもない。
「いや、確かに言ったさ。呆けたか。まさか、酒でも飲んじゃなかろうな」
「先生こそ酔ったんじゃないですか。それともからかってるんですか?」
そこへちょうど店主が飯と徳利を持ってやってくる。
「なぁ、親父。この辺に朱濡渦ってぇあやかしの話はあるかい?」
「へぇ、朱濡渦でございますか? 聞いたことございませんな」
「ほら先生、やっぱりそんなのいないじゃないですか」
そうは言われても幣無は得心がいかない。確かに聞いた気がするのだ。だが、それだけでこれ以上、言った言わないの話をしてもらちはあくまい。さりとて、自分の誤りを認めるのも癪だ。
だから、話題を変えることにした。
「親父、庄屋のとこのご隠居さんはいい人かね」
「ご隠居さんで御座いますか?」
店主は何やら怪しげなものでも見るような目で幣無を見ている。
「どうかしたかね」
「庄屋にご隠居さんなんておりませんぜ」
「そんな馬鹿な話があるか」
そもそも幣無と泡がこの村に来た理由は、そのご隠居に依頼を受けたからだ。
「馬鹿も何も、この村には庄屋なんてありはしませんよ」
何だこの親父、俺をからかっているのか?
だが、うまく焦点が合わず、親父の表情をうかがうことができない。
「おりませんぜ、おりませんぜ」
いかん、酔っているのか。
視界がぐるぐると回り始め、店の中から蝉の音が聞こえ始めた。
「おりませんぜ、おりませんぜ、この村に人なんて」
「先生、先生、起きてくださいよ」
どこかで聞いたことあるような艶っぽい声で目を覚ますと、辺りは暗闇に包まれている。
おや、夢だったか。それとも狐にでも化かされたか。
それとも目の前にいる艶やかな女人こそが狐であろうか。
「先生、どうしたんですか。そんな狐にでもつままれたような顔しなさって。ご隠居がお呼びでございますよ」
ここはどこであろうかと暗闇に目を凝らしてみれば、先ほどの酒屋である。酒屋ではあるのだが、明かり一つなく、人の気配も全くしない。
しん、と静まり返ってくる。
「お勘定はすませてございますから」
いつの間にやら、女は戸のところで提灯をもって立っていた。幣無はおぼつかない足取りでそのあとに続く。
「そういえば泡の奴はどこに行きやがった」
すると女が笑いだす。
「嫌ですよ先生、目の前にいるじゃありませんか」
そういわれて、女の行く先に目を凝らしてみるのだが一向にそれらしき人影は見えぬ。
「おるのか、泡」
「はい」
と答えたのは女である。
「おぬしではなく泡を呼んでいるのだがなぁ」
「ふふふ、先生は面白いことをおっしゃいますね」
なんとも調子が狂う女だ。
そんなやり取りをしているうちに庄屋の前についた。
なんだ、やはり庄屋はあるではないか。
「ご隠居は離れでお待ちです」
月明かりを頼りに庭をこえ、離れまでたどり着く。
「お待ちしておりました」
対座する老人は、手元の白湯を少しすすりにこやかに笑った。
「どうやら、手遅れのようにございますな」
「手遅れ、と申しますと」
「もうずっと、蝉がうるさいのでございますよ」
幣無としては待ってくれと言いたいところだが、手掛かりは何一つつかんでいない。
「つらいかもしれませんが、しばし耐えていただくほかありませんな。必ずや急ぎ、その妖異祓ってみせます故」
しかし、うるさいというわりには老人の顔は穏やかである。
「いえいえ、もう、いや、やっと、飛んでいけるのですから」
「はて、飛ぶ……でございます?」
「左様、それをご覧に入れようと思い、急ぎ来ていただいたのです」
すると老人はくわっと大きく口を開けた。
虚空。
老人の口の中は真っ黒な闇である。
そしてその奥から徐々に音が、次第に大きくなっていく蝉の鳴き声が聞こえてきた。
どんどん大きくなっていたその音は耳をつんざくほどである。
ぎゃっ、幣無が叫びを上げそうになったところでその音が突然止んだ。
静寂が訪れ、老人は微動だにしない。
はっとして目の前の隠居に声をかけようとしたとき、隠居の口から大量の蝉が飛び出してきた。
蝉、蝉、蝉。
座敷の中を蝉が充満し、やがて蝉達は壁や障子に止まる。
そして、その羽が一斉に。
「うるさい!」
あまりの大音量に飛び起きてみれば、昼である。
強い日差しが草木を照らしており、辺りの木々からは蝉の音が聞こえてくる。
「先生、やっと起きた。先生の強情な昼寝も蝉にはかないませんでしたね」
「泡か、いままでどこにいた」
「何言ってるんですか先生。私はずっとここにおりましたよ」
ふと、自分でも何故そんなことを言ったのかよくわからなくなった。
己は今まで寝ていたのだ。夢を見ていたような気がするが、中身は覚えていない。
「さて、では参りましょうか。早くしないと日が暮れてしまいます」
「どこへだ?」
「朱濡村の庄屋さんですよ。まだ寝ぼけてるんですか?」