第44回 てきすとぽい杯
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海と烏龍茶
Raise
投稿時刻 : 2018.04.14 23:44
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海と烏龍茶
Raise


 古臭い男、というしかなかた。
 彼の書く小説に出てくる女は、表記こそ漢字だが、実際にはサアヤとか、ユウリとか、片仮名で呼ぶのが相応しそうだた。つまり、彼が書く女というのは、みんな神経質で憂鬱で、常に何かに不安そうしていて、それでいて思い切た行動に出るときは一直線で、男を拒むような素振りをしながらどこかで簡単になびいてくれる、(それも小説のひとつの流儀として)最終場面では決定的な拒否にまた戻る、というような動きを繰り返している。
 それが小説だ、と男は内心では思ているが、そんなものは時代遅れだし、言うまでもなく、ステロタイプだ。だから、男の小説の話はどうでもいい。男が絶筆を決意した話もどうでもいいし、また書き始めようと、曖昧な決意でよくわからない文章を書き始める瞬間もどうでもいい、多くの小説に関する小説めいた小話が結局どうでもいいように。問題はそれ以外だ。
 人は小説を書く以外に生きているわけだから、比重でいえば、そちらのほうがずと大事に違いない。

 波が出始めていた。彼が歩き出したところで、後ろの犬は付いてこない。それを無理やりに引たところで、吠えて噛まれるか、自分の無力を痛感するだけなので、彼は湿た砂の上に立ち止まる。
 おうい、と呼ぶ声がして、芝と海岸の境目、土手の上で手を振る影を見る。振り返しかけた手を、止める。
「おういてば。聞こえないのか?」
 聞こえるか聞こえないかでいえば、もちろん聞こえている。でも、今の気分としては、聞こえてほしくなかた。三十二歳の柊は、彼が十六歳のときと同じような軽やかな身のこなしで斜面を下り、自分の飼い犬の頭を軽く叩いた。
「俺の友達を困らせないでくれよ」
「もう十分困てるよ」
 お前に、の意味だが、柊は返事をすることもなく、彼から犬の鎖を取り上げた。その途端に、マーチはすたと立ち上がる。犬は誰が偉くて誰が偉くないか分かているから嫌だ、と彼は湿り気を帯びた金色の毛が、細長く光るのを見つめている。
「お前、何にも金になりそうなこと出来ないんだなあ。犬の散歩ぐらい出来るかと思たんだけど」
 勝手にしてくれ、と悪態をついたところで、何にもできないのは事実なので、とりあえず口だけは閉じた。
「文句を言わないことは出来るよ」
 無理だた。そういうところだぞ、と笑う柊の足元を、マーチがぐるぐると回り始めた。

 無能、とそう言い切てしまえば終わりの人生だろう。別に不運でもいい。
 公務員試験を受けるでもなく、さりとて何か大学時代に積んだ経験があるわけでもなく、男はただ漠然とした直感で仕事を選び、そして破綻した。心を病む、という言葉の呆気なさが、いまだによくわからない。不眠。焦燥。食思不振。思考の途絶。言葉から見ればどれも簡単で、ありふれたことのように思えるのに、身体の内側を這いずり回るような病の感触は、実際の生の言葉にすることが困難だた。どう言えばいいのかはわからないが、何百もの毛虫が鼻腔、口腔、脇の下、鼠径部、全部を嘗め尽くすような不快感、が近いのかもしれない。
 病名が付き、診断書が書かれ、薬が処方され、仕事が終わた。お前の働きぶりには退職金は払えない、と顔の思い出せない上司から告げられたとき、然るべきところに通告すべきなのだろうとは思たが、行動に出る気力が無かた。男にとて驚いたのは、普通の職場、らしきものがどうにも世の中の大多数では破綻しているようだた。景気が悪い、とその一言に集約してしまえばそれだけだが、男にとては運命のようにすら思えた。戦時下に書かれた小説が鬱々としているように、たまたまその時間に居合わせたこと、そのたまたまが、すべての原因なのだ。
 暗い経験が小説の糧になればいい、と時代遅れの期待をしていたことは否定できない。そんなものあるわけもない。思い出したくもない。事務職は最悪だた。顏の覚えられない人間から次々と下る命令をこなしながら、雇用制度とは奴隷制度に近いものらしい、と男は思た。プリンターは大事な場面に限てコピー用紙を吐き出さず、書類の書式は書く者の都合を一切考えない煩雑なエクセル形式で、上司は常に苛立ていた。世の中にそんなに狂人が居るとは思えないのだが、たぶん、そういう類の人間だたろう。暴力、暴言、私用への使いまわし、等等。

 やめて正解だたよ、と柊は言う。ありふれた話だ、と彼は、家具のまだ少ないリビングで紅茶を飲んでいる。同じようなありふれた話を、柊が繰り返す。今度は相手の番だ。同じような苦難、同じような暴力、同じような退職。

 今暇? という連絡を受けたのが、五日前。薬を飲んで十四時間寝てから、朝九時のシトメールに今更返事すべきか迷た。ずと暇だよ、と答えた。仕事やめたから。笑顔のアイコンが即座に貼られて、こいつも暇なんだな、と埃の積もた文芸誌の向こう、夕焼けに揺れる電線に目を上げる。遊びに来ない? 遊ぶ気はしない、と返事を打ち込みかけたところで、着信が入る。
「海とか興味ない?」「ん……」「小遣い稼ぎは?」「それなら……
 交通費、そこそこ悪くない給与、食事、そういた、男が忘れていた現実の細々したことを足早に説明すると、三年の断続が嘘のように、もう男は柊の海辺の小屋にたどり着く手配を済まされていた。翌日にはもう、薄曇りの山々を鈍行で越え、ぱとしない港町にたどり着いていた。風の湿り気がうとうしいな、というのが、降りた感想。
「痩せたねえ。みんな太たんだけどな」
 改札口で、柊は金色の毛並みのゴールデンレトリバーと待ち構えていた。マーチだ、と聞いてもいないのに名前の紹介を始める。彼は猫も犬も嫌いだたから、紹介は不愛想に流した。全然変わてない、とか、言いたくない。
 なんだか湿てばかの土地なんだよね、と当たり前のことを言いながら坂を下る柊に、のろのろとついていく。
 柊は詩を書いていた、と思う。彼が加入していた文芸サークルでは小説が一番、評論が二番で、詩を主にやている人間は少なかた。でも、たぶん、書いていたと言えるほどの量は書いていなかたには違いない。記憶にない。
「やあ、海だねえ。……と海なんだよ」
 同じようなことを、柊は何度も繰り返した。
 母方の叔母が死んで、誰も管理していない一軒家があるらしい、というのが聞いていた内容だた。東京で暮らしていくのも疲れたから、そこ掃除して、半年ぐらい帰れる場所にしようと思うんだよね。ただ、ひとりでそんなことやてると虚しいから、暇してるやつ居ないかなあて。そういう勝手で人を呼んで巻き込むのが上手いやつだたということは、書いたものよりずと色濃く覚えていた。働いていたときの、虚しさの記憶と同じぐらい。
 ここらしいんだけど、とたどり着いた扉は蹴てしまえば簡単に破れてしまいそうで、彼は思わず柊が鍵を回す手をじろじろと見た。青黒い陰気なカーテンで覆われてはいるが、その叔母が引きこもて暮らしていたらしい家の中身は、容易に予想が付いた。うわあ、と呆れたような溜息を二人同時に出した。黴臭い空気、得体の知れない床や壁の茶褐色の染み、リビングに散乱したガラスの破片、どういう経緯でついたかわからない切り傷だらけのソフ
 とりあえず、と彼はカーテンを取り外した。この色、最悪だからやめようといて、その二日後に、黄色になた。

 掃除は簡潔に終わた。不要物を正しく分別して、建物の傷みそうな潮風を部屋いぱいに吹き込ませて、最低限必要な冷蔵庫や電子レンジを、柊の家から引越サービスで届かせれば、それで簡単な生活空間が出来た。
「俺いらないじん」
「じあ金いらない?」
「それはいる」
 自分が手を出すまでもなく、柊はあという間に仕事を終えた。たぶん、手伝たほうが時間がかかた。

 なんで犬なんか連れてきたんだ? 連れてきたんじなくて、あそこで拾たんだよ、と柊は事も無げに駅の方角を指さした。新しい生活を始めようと思た矢先に、捨て犬がベンチで寝てたから、なにかのお告げかなて。
 なんで海なんか来ようと思た? 東京はどこまでいても陸続きだから、いそ陸のないところに行きたかた。生活を全部やり直したかた。二つ目の家があれば、何もかも変わるような気がした、ゲーム世代の発想かな。
 なんで離婚した? ……それ、聞く必要ある? まあ、浮気ですよ、浮気。……そんな嫌な顔せんでも。

 本当は死のうと思た、と、どこかの夜で柊が唐突に言う。
 お前が来なかたら、そこらの野良犬を道連れにして死んでしまおうと。本当は練習もした。海の果てに近付く練習だ。馬鹿みたいか。そうだよなあ。でも、近付いても近付いても、海の先というのは見えなくて、足元に見える海がただ連続していた。あ、これは、見えそうで見えない果てなんだと思た。たぶん死んでも死んだ先に会社や結婚があて、永遠にそういう呪いからは逃れられないんじないかなてね。
 無責任だと妻には言われた。結婚したばかだよ。頑張ろうよ。仕事やめても、夫婦までやめることないでし
 まあ、そうなんだろうなと思うが、人間の責任てのは何なんだろうと思うと、無性に海の果てに行きたくなた。でも、そんなものはない。ないと思い込んでる時点で、俺にはもう、どこにも行き場がないんだな、と。それで電話をして、すぐの返事がないのは分かていたけど、その日に返てこなかたら……てこなかたら、どうしようかは分からなかたけど、返てきたら、とにかく、二つ目の家を作ろうと。何もかも切り離したくなて、それで無責任に、全部放り投げて、新しい家を作て、それで落ち着いたかというと、微妙だな。
「馬鹿かよ」
 まあね。
「てかそれ俺に勝手にかけた責任重すぎるじ……
 ごめん。
 
 マーチは夜にはよく吠えた。神経質な彼は、その遠吠えで起こされるたびに、窓から柊の本をぶつけてやりたくてしうがなかた。彼も主人のよくわからない同居人の敵意を察してか、鎖をじらじらと言わせて、ふ、と舌を突き出し、こちらをきと睨み付けている。犬にそんな本気になるなよ、と布団で柊が馬鹿にしてくる。
 犬は世話が居る生き物だ。鎖を抜いて、どこかに放置するわけはいかない。柊はよくマーチの世話をした。餌を買い、小屋らしきものを廃材置き場の材木で勝手に作り、しつけのレスンを試みた。最初はゴールデンレトリバーかと思たが、よくよく見ると、なんか顔に柴犬の気配がある。雑種らしい。暑い日になると、入れろとばかりに窓をひかく。もともと内側から斜めに細かな傷の入ていたガラスに、さらにまた余計な損傷が加わていく。
「犬て記憶あんのかな」
 彼が何の気なく口に出すと、柊は、いや、そりあ、あるだろ、と笑う。俺のこと覚えてるみたいだし、お前は知らないけどさ。じあ、蹴たり卵でもぶつけてやたら、こいつには逆らだめだと記憶するのか、と乱暴なことを考えていると、オフスの中央で髪の毛をぬるい烏龍茶で濡らされたときを思い出して、目を閉じた。海の果ての水、見えるようで見えないその水は、記憶の中のその液体と、やぱり同じ水なのだろうか。何もかもが続いていて、どこまでも終わりがないこの揺らめく記憶を、人生、と呼ぶのは、ちとしんど過ぎやしないか。
「なんだか傷の跡がついてばかりだ」
 彼が何気なく口にしたその言葉に、柊は何にも言わず、ただ窓の爪痕を指でなぞていた。【了】
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