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第4回 文藝マガジン文戯杯
〔 作品1 〕
»
〔
2
〕
狼
(
小伏史央
)
投稿時刻 : 2018.07.30 22:30
字数 : 6938
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狼
小伏史央
その男は、私を見るなり眉をひそめた。
「こんなところに女ひとりじ
ゃ
危ないだろ。噂のこと聞いていないのか?」
「そんな、私は大丈夫ですよ」
山中の、村から村へとつなぐ道。山稜に挟まれた、とても入り組んだ道だ
っ
た。周辺を見渡しても、私とその男のほかには誰もいない。
「行方不明にな
っ
た人はみなひとりだ
っ
たと聞く。二十かそこらの小娘がひとりで出歩くものではない」
「大丈夫ですよ」
「大丈夫ではない。おれはあちらの村へ行くのだが、きみもそうだろう?」
この男は強引にでも私と同行するつもりらしい。私は山奥のほうを指さし、あ
っ
ちと言
っ
た。男が、指さしたほうへ視線を移す。
その隙に懐から匕首を取り出し、取り出した流れのまま刃で弧を描いた。
男が、目を見開き、私を見遣る。自らの首元を手で触り、どろ
っ
と染まる腕を見て、泡のような声を震わせた。さらに一閃、両目を斬
っ
た。もう一閃。男は仰向けに倒れる。まだ息があるようなので、ひざで肩を抑えるようにして馬乗りになり、首の付け根に丁寧に刃を差し込んでい
っ
た。匕首の柄が手の中で小さく震え、それが男の最後の呼吸なのだとわか
っ
た。
ひざで抑えていた肩が霧のように消え、私のひざは地面を小突いた。死体が蒸発する。霧は顔があ
っ
たところに集まり、藁のかごにな
っ
た。両手じ
ゃ
ないと持てないような大きなかごだ
っ
た。
返り血も藁にな
っ
たので、いつも通り服も濡れていない。服や匕首についた藁を摘み取
っ
てから、かごを抱えて村に帰
っ
た。
村の門には長老が座
っ
ていた。
「おや。おかえり、養ち
ゃ
ん」
「ただいま。おばさま」
「また無駄遣いかい」
「でも良いかごだよ」
「買い物は大目に見るけどね、外に出るときはひとりじ
ゃ
危ない
っ
て何度も」
「はいはー
い! ごめんなさー
い」
適当に会話を切り上げて、門近くの自分の家に入る。
まさか、殺した男がかごにな
っ
たのだとは誰も思うまい。たとえ自白したとしても、信じはしないだろう。
家の扉を足で閉め、棚の上にかごを置いた。
「なんだよ、新入りか?」棚が言
っ
た。
「そうだよ。たぶん隣村の人」
棚は頭上に載せられたそれを一瞥し、ふんと鼻を鳴らした。棚には目も鼻もないが、私にだけは棚の素振りが見えた。
「こり
ゃ
デブだな」
「そんなことなか
っ
たよ」
「デブなの?」「デブなのね?」時計の長針と秒針が棚の発言に反応した。彼らはデブとかハゲとかいう言葉が好物なのだ。嬌声を上げるふたりには我関せずとい
っ
た態度で、短針が午後の四時を指している。
「おいう
っ
せー
ぞ」と言
っ
たのは寝台に座
っ
た枕だ。彼とは長い付き合いになるが、毎晩頭に敷かれているからか、一向に私に懐こうとしない。いつもイライラしているから、他のコレクシ
ョ
ンたちも彼にはあまり良い印象を持
っ
ていないようだ
っ
た。
「うるさいわよ枕!」「うるさいうるさい!」「おまえらがうるさいよ」「近所迷惑だぞ」「あー
もう」
家具や小物たちが喚き出す。その騒ぎに、寝ている物たちも起き出して、騒ぎに加わる。私は耳を塞いで、「うるさい!」とだけ叱責した。彼らは静まり返
っ
た。
「ま、新入りが寝てるんだ。起こしち
ゃ
悪いだろ」しれ
っ
と棚が場をまとめる。しばらくするとまたいつものように長針と秒針がこそこそお喋りを始めたが、枕はそれには注意をしなか
っ
た。注意してもしきれないのだろう。
その日は他にやることがなか
っ
た。作り置いていた夕飯を食べ、それから寝台でごろごろ本を読んでいるうちに夜になり、そのまま落ちるように眠
っ
た。
しかし夜も深ま
っ
た時刻、野太い悲鳴が部屋中に響いた。安眠を妨げたのはかごだ
っ
た。
ここはどこだ! 体が動かない! 足がない! 手がない! なんなんだ! なんなんだ! という趣旨のことを嗚咽と悲鳴に混ぜて言う。死んでから意識が戻
っ
たのだ。
私が目覚め、体を起こしたものだから、圧迫感から解放された枕が気持ちよさそうに野次を飛ばした。棚がかごを慰める。長針と秒針は図太いやつらだから、騒ぎの中でもぐうぐうと眠
っ
ている。
真下の声に慰められたおかげか、しばらく待つとかごはある程度の冷静さを取り戻した。
「あなたはかごだよ」
そのタイミングで、私は彼に話しかける。
「なんなんだよ。なんなんだよそれ」
話だけでは信じられないだろう。寝台の脇の台に置いてあ
っ
た手鏡を掴んで、かごの前に示した。かごはない目で自らの姿を確かめた。
「おまえは魔女か?」
「そんなことないよ」
「おまえは魔女だ」
「あなたはかご」
くそ
っ
、とかごが悪態をつく。
その晩かごはそれきり喋らなか
っ
た。
朝にな
っ
た。「朝よ!」「朝なのよ!」といつものコンビが喚きたてる。今日は休日ではなか
っ
た。朝食を済ませ、渋るハンガー
ラ
ッ
クから服を奪い取る。仕事に行く。
村の中央に、ひときわ大きな建物がそびえている。そこは託児所だ
っ
た。山中にあるこの村では、畑で採れるもの以外は、ふもとの街に下りて賄わなくてはならない。そのため数日間かけて出稼ぎに行く村人も多く、それを手助けするために、託児所が設けられていた。
長期間手の空く者はほとんどがそこで働くことにな
っ
ている。料理を作
っ
たり、洗濯をしたり、こどもと遊んだり、寝かしつけたりと、そういうことをする。私は雑用を任されていた。給仕をし、皿を洗い、服を洗う。給料は出るが、誰でもできることだからと、あまり貰えなか
っ
た。
こどもたちの嬌声が建物のなかを響く。おんぶ紐を背負
っ
たおばさんに呼ばれ、大きなかごに入
っ
た下着の山を渡された。それを持
っ
て庭に出て、バケツに水を溜める。数個ずつバケツに放り込んで、下着を水で揉んだ。石鹸で汚れを落とす。中にはうんちの付着しているものもある。何度かバケツの水を替えながら、かごの中身を減らしていく。ここにあるかごやバケツは、ただのかごやバケツだから、喋ることはない。洗い終えた下着は軽く絞り、物干し台に並べた。最後にバケツとかごと手を洗い、建物の中に戻
っ
た。遅いと叱責される。
こどもたちはいつでも飽きずに遊んでいた。あまりこどもは好きではなか
っ
た。おばさんが私の手を掴み、そのにおいを嗅ぐ。それで頷いて、調理場へ行くように指示した。
流し台にはコ
ッ
プが積み上げられていた。こどもたちが使
っ
たコ
ッ
プだ。その横では料理係の人が昼食の用意をしている。私はコ
ッ
プを洗い、昼食を運び、その後食器を洗
っ
た。
お昼寝の時間にな
っ
たので、布団を敷いた。他の人がこどもたちを呼びかけ、それぞれの布団に潜り込ませる。カー
テンを閉じ、消灯すると、落ち着きのないこどもたちは飽きずに悲鳴を上げた。お喋りをやめない子たちをひとりひとり寝かしつけながら、たまには優しく背中を叩いてやる。そのうちに彼らはお人形さんのように寝息を立ててい
っ
た。
みんなが寝静ま
っ
たのを確認すると、おばさんは私に大きなかごを渡した。午前のうちに汚れた服だ
っ
た。下着と比べて付着物の心配が少ないので、ざ
っ
と確認だけした後に、この村唯一の洗濯機に放り込んだ。
日が沈む前には家に帰
っ
た。
「今日は新入りはいねえのか?」帰るなり棚が言
っ
た。
「そう頻繁にはできないよ」
「おい、魔女」棚の頭に載
っ
ている新入りが、怒気をはらんだ声で言う。「おれを元に戻せよ」
「戻せよです
っ
て!」「戻せよ! 戻せよ!」長針と秒針が声真似して遊ぶ。
「残念だけど、死んだ人は、元には戻らない」
「違う。おれは変えさせられただけだ」
「殺されたときのこと覚えてないの?」
「おれは死んでいない! おれは死んでいない!」
かごが喚くたびに時計のコンビが黄色い声を上げて喜んだ。このコンビの声は託児所のこどもたちのものとよく似ていた。それでもそこまでうざ
っ
たくないのは、彼らが下着を汚さないからだろうか。
「お願いだよ。頼むからおれを人間に戻してくれよ」
「そう悲しむなよ。物でいるのだ
っ
て楽しいぜ?」
「楽しくなんかねえよ!」
「いいやき
っ
と慣れるさ」
棚がかごを慰める。この棚は生きているときも面倒見の良いやつだ
っ
た。
かごのことは棚に任せて、夕飯の準備をした。
翌朝、またいつものコンビに起こされて、仕事に出向いた。泊まり込みのおばさんたちが、隣村でまた行方不明者が出たことを噂していた。かごのことだろう。街で賭博をや
っ
ていたらしいとか、いい年なのに妻を持たなか
っ
たからき
っ
と人格に問題のある人だ
っ
たに違いないとか、いなくな
っ
た人の評判を楽しそうに交わしている。
こどもたちの相手を任されていると、ふいにおんぶ紐のおばさんに呼ばれた。私に来客があるのだという。
玄関口に向かうと、長老がいた。手提げの鞄を持
っ
て立
っ
ている。いつも門の前で座
っ
ているところしか見ないから、ま
っ
すぐ立
っ
ている長老を見るのは新鮮だ
っ
た。
「養ち
ゃ
ん、ち
ょ
っ
と話があるんだけどね」私を見るなり、長老は立
っ
たまま言
っ
た。「お見合い、してみないかい?」
返事の仕方に悩んでいると、長老は手提げから写真を取り出した。それを私の顔に突きつける。
「私の孫なんだけどね。良い大学を出て、街で働いているのだけど、明後日には村に帰
っ
てくるらしくてね。あの子もそろそろ結婚させてあげたくてね。養ち
ゃ
んは気立てが良いし、それにいつも寂しそうにしてるから、き
っ
とお似合いだろうと思
っ
て」
長老の言葉が、耳をすり抜けていく。長老の言葉は勢いが強くて、言葉を挟む隙がなか
っ
たので、代わりにその写真の顔を目に焼き付けた。
「でもおばさま、私、結婚するつもりはないよ」
「何言
っ
てるの。結婚しないと大人になれないよ」
「でも」
「とりあえず、一度会
っ
てみるだけでもいいからね。気が変わるかもしれないし。そういうことだから。お手伝い中に悪か
っ
たね」
それだけ言
っ
て、長老は去
っ
てい
っ
た。おばさんに肩を叩かれ、良か
っ
たじ
ゃ
ないと褒められる。め
っ
たに人を褒める人ではなか
っ
たので、困惑した。
そのお見合い相手が村に来るという日には、夜中に起きた。時計の針たちも眠
っ
ている。素早く身支度を整えて、懐の感触をし
っ
かり確かめてから、家を出た。夜中なら門に長老はいない。足を忍ばせて門をくぐり、入り組んだ山間の道を歩いてい
っ
た。誰にも会わずに隣村に辿り着き、そこを通り抜けて山道を下
っ
ていく。人が来るとすれば、ふもとから村までは一本道だ
っ
た。
村が見えなくな
っ
たあたりまで歩いて、路傍に腰を下ろす。お見合い相手が今日の何時にや
っ
てくるのかは聞いていない。長く待つことになるだろうと思
っ
て、人の気配があるまでひざに顔をうずめた。
「大丈夫?」
どれほど経
っ
ただろう。うとうとしていると、そう声をかけてくる者がいた。顔を上げると見覚えのある顔だ
っ
た。先日目に焼き付けた顔だ。
「長老のお孫さんですか」
「え、そうだけど」
「私お見合いすることにな
っ
てるんです」
「ああ、君が」その人は顔を綻ばせた。「迎えに来てくれたんだね。こんなに早くに」
見渡すと山の向こうが白んでいた。もうすぐ夜明けだ。彼が手を差し出してくる。それを握
っ
て、立ち上が
っ
た。手を放す。
彼の背後には小綺麗な車が停められていた。ここまで車で登
っ
てきたのだろう。
「素敵な車ですね」
言
っ
て、車に指をさした。
彼は微笑みながら、自分の車のほうを見た。懐から匕首を取り出す。それを彼の後ろ首に突き刺した。すぐに抜き取る。血が吹き出る。
今度は一突きで殺せた。死体は棒切れのように地面に倒れ、足元から霧にな
っ
て消えてい
っ
た。甘い匂いに変わる。顔に浴びた血のぬめりけは不思議と消えず、目の前に林檎が現れた。どうやら返り血は果汁に変わ
っ