てきすとぽい
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第7回 文藝マガジン文戯杯「COLORS」
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冷たい檸檬
(
地主恵紀
)
投稿時刻 : 2019.04.26 19:31
字数 : 2219
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冷たい檸檬
地主恵紀
開け放
っ
た窓から、冷たい秋風が入り込んだ。金木犀の甘い香りが運ばれてくる。菫色の空を、優しく光る細い三日月や星々が装飾し始めた。ため息をつく。
外をしばらく眺めた後、キ
ッ
チンへ行き、冷蔵庫から冷えた四角い容器を取り出す。昨日作
っ
た檸檬の蜂蜜漬けが中には入
っ
ている。とろみのある金色が美しい。檸檬を一枚口に運ぶと、爽やかな甘さが広が
っ
た。少しだけほろ苦いのも、良い。
キ
ッ
チンには檸檬が三つ。その一つをよく洗い、まな板の上にそ
っ
と転がした。黄色い紡錘形は一回転して、止まる。薄く切
っ
ていくと、清々しい香りがする。
私ではない、他の誰かに恋をし始めた頃の、彼のような香りだ
っ
た。
私には恋人がいた。温厚で、ゆ
っ
たりとした川の流れのような人だ
っ
た。愛嬌に富み、嘘がつけない良い人だ。
公園は家族連れが多く、賑やかだ。小さな女の子が母親とシロツメクサの冠を作
っ
ている。微笑ましくて、つい笑みがこぼれた。
「可愛いね」
優しい声が隣からした。
「そうね。懐かしい」
「そうじ
ゃ
なくて、君が」
一の言葉には、頬を赤らめる以外の反応ができない。私の頭の上にぽんと手を置いて、彼は笑
っ
ていた。
足元に、シロツメクサに混ざ
っ
てピンク色のアカツメクサが咲いている。一はそれを摘み取ると、私に差し出した。
日々が愛おしい。そう思
っ
た。
雨の降る日、私は待ち合わせの時計塔の下にいた。地面を強く打ちつける雨。白い飛沫が激しくなる。不規則な音と冷たさが寂しい。
見慣れた靴が近づいてくる。隣には、黒いリボンのついたおし
ゃ
れなレインブー
ツ。目線を上にあげる。壊れた折り畳み傘を持
っ
た恋人が、見知らぬ女性に傘をさしてもら
っ
ている。すらりとした美人で、長い髪をひとつにまとめている。女性から見た、格好良い女性とい
っ
た印象だ
っ
た。
「ああ、どうもありがとうございます。なんとお礼したら良いか」
「良いのよ。それなら今度食事でも」
一がちらりと私を見る。どうすれば正解なのか分からなくて、思わず目をそらした。
「失礼しますね」
背の高い女性は、コツコツとヒー
ルを鳴らしながら去
っ
ていく。
「遅くな
っ
てごめんよ。傘が風で壊れてしま
っ
てね、ここまで入れてもら
っ
てきたんだ。タオルも借りてしま
っ
たよ」
「いいのよ。それより食事、行くの?」
聞きたくないことを、聞く。
「返さないといけないものもあるから、いずれ一度は。どうして?」
「どうして
っ
て
……
気にな
っ
ただけよ」
「もしかして
――
」
「違う」
私は冷たい言い方をしていることに気がついた。今更言い直すことなどできない。
「今日、調子よくないかも」
咄嗟についた嘘。なんとなく、一緒にいたくなか
っ
た。冷たい自分が許せなか
っ
たから。無理しなくても良いと言
っ
て、一は家まで送
っ
てくれた。彼は優しく労わ
っ
てくれたが、私はつんとしたままだ
っ
た。置いておいたビニー
ル傘を渡して、彼には帰
っ
てもら
っ
た。
それから数日間は、自己嫌悪の塊にな
っ
ていた。どうしてああいう言い方をしたのだろう。どうして嘘までついたのだろう。嫉妬だと言
っ
ていれば、何か変わ
っ
ただろうか。霧は晴れないままだ
っ
た。
一とは連絡を取り合うことも減
っ
てきた。何を話せば良いか分からなくな
っ
ていた。
厚く切りすぎた檸檬を口に入れる。甘くもない。ただ、酸
っ
ぱくて苦か
っ
た。厚く切
っ
たのなら、もう少し薄く切れば良い。それだけのこともできなか
っ
た。そのまま口に放り込んで、我慢していた。
三週間が経
っ
た頃、風の噂で、一が私ではない他の誰かに恋をしていると知
っ
た。何となく、予想していた。何となく、納得できた。
ただこのまま黙
っ
て離れるよりは、別れの挨拶くらいしておきたいと思
っ
た。時計塔の下、恋人を待つことにした。珍しく、時間ぴ
っ
たりに彼はや
っ
てきた。
「話したいことがあ
っ
たんだ。ち
ょ
うど良か
っ
た」
「あのね」
「何だい?」
「私、好きな人ができたの」
嘘をついた。苦しい嘘だ
っ
た。
「そうか」
一の顔は、どこかほ
っ
としたようだ
っ
た。
「今までありがとう。ごめんな」
「どうして謝るの?」
「嘘までつかせて。ごめん。幸せにな
っ
てね」
恋人だ
っ
た人は清々しい檸檬のような香りをさせて歩いてい
っ
た。あ
っ
という間だ
っ
た。別れというのはこれほどまでに淡々と終わるものなのかと思
っ
た。
家に帰
っ
てドアを閉めると、堰を切
っ
たように涙がこぼれだした。
おもむろにキ
ッ
チンに置いてあ
っ
たひんやりとした檸檬を手に取り、頬にあてた。思い返すのは穏やかな日々。悲しさよりも悔しさを募らせた。
「あなたが私を好きではなくな
っ
て、他の誰かに思いを寄せていても、私は少しも気にしません」
また嘘をついた。
薄く切
っ
た檸檬を新しい容器に入れていく。蜂蜜の金色が、檸檬色に溶け込む。爽やかな甘さが好きだ
っ
た檸檬が、酸
っ
ぱくてほろ苦いものだとあの日気づいてから二回目の秋。
忘れられない香りの中で、今日も私は可愛くない嘘をつく。
私は彼の幸せを祈る自分に酔
っ
ているだけの、女なのかもしれない。
「冷たい檸檬」
あなたが私を好きではなくな
っ
て
他の誰かに思いを寄せていると
風の噂で知りました
冷たい檸檬を頬に当て
悲しさよりも悔しさを募らせました
あなたが私を好きではなくな
っ
て
他の誰かに思いを寄せていると
風の噂で知りました
冷たい檸檬を頬に当て
穏やかな日々を思い返しました
あなたが私を好きではなくな
っ
て
他の誰かに思いを寄せていても
私は少しも気にしません
爽やかな甘さが好きだ
っ
た檸檬が
酸
っ
ぱくてほろ苦いものだと
初めて気づかされました
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