「ね。開きそう？」
　ずっしりと重い鎖にぶら下がった南京錠。もちろん、鍵はない。子どもの背丈では、とてもではないが乗り越えられそうにない、朽ち果てた門が僕らを見下ろしている。
「無理だよ……」
　細い木の枝を拾って、適当に鍵穴にねじ込むものの、ピッキング技術など持ち合わせているはずもなく、ただ無情に鎖の音がジャラジャラと鳴り響くだけだ。
　僕は、背後にぴったりくっついて離れない女の子に向かって、わざとらしくかぶりを振ってみせる。
「やめようよ、優梨ちゃん。やっぱり危ないって」
　優梨をなだめるような言い方をしてみるものの、なにを隠そう、僕は怖いものが大の苦手だ。内心、おっかなびっくりといったところで、これ以上、ここにいたいとも思えないのだ。
　僕らを見下ろす門の向こうには、もう何年もひとの気配を匂わせない草木が生い茂り、木造の崩れかけた家屋がその隙間から姿を見せている。どう見たって、その光景はテレビの心霊特集で見た『心霊スポット』そのものだった。
「でも、見たんだって！　ほんとだよ！」
　優梨が興奮したように、舌足らずなしゃべり方でそう主張する。
　見た――順序立てて優梨の話を整理すると、ある霧の濃い朝、付近を散歩していた優梨は、この家に入っていくひとの姿を見たというのだ。が、見てわかる通り、ひとの気配なんてひとつもしないし、そもそも門には南京錠がかかっている。その光景を目撃した優梨が、慌てて家の前に駆け寄ったときには、すでにその人物の姿は見えず、南京錠はやはり、そこにぶら下がっていたのだから、単なる見間違えか、もしくは幽霊――
　もう梅雨の時期に入るというのに、僕はぶるりと身体を震わせて、前身に纏わり付く肌寒さを感じる。
「とにかく！　鍵がないんだから、入れないって。フェンスだって高いし、それにここ。ひとの家だよ？　勝手に入ったら、怒られるよ！」
　一刻もこの場を去りたい僕は、優梨を諦めさせようと、あれこれ説得を試みてみるが、
「誰に？　誰もいないよ？」
　僕の一生懸命な言葉に、不思議そうに小さく首を傾げる。まったく悪気はないふうだ。大人の僕なら、『住んでいなくても土地の所有権が……』とうそぶいて、優梨を煙に巻くこともできただろう。が、当時の僕には、それを口にできるほど、十分な年齢にはなかったことが悔やまれる。
「私がする」
　と、鍵穴に木の枝を差し込んで、懸命に開けようとするが、僕の言葉の通り、開かないことをやっと理解してくれたようで、しぶしぶという表情で、その日はその場を後にすることができた。
　だが、それから数日後――
「あったの！　あった！」
　またまた興奮気味の優梨が、僕の袖を引っ張って、またあの南京錠の前に連れ出す。どうやら、公園で遊んでいたとき、木陰に無造作に捨てられていた鍵を発見したらしいのだが、その鍵がこの家の門のものだと言い張って聞かなかったのだ。試してみたらわかる――優梨には珍しく、ぐうの音の出ないほどの正論を盾にされ、僕は結局、またここに来ることになったのだった。
「はい。お兄ぃ」
　優梨から、錆びきった鉄の鍵を渡される。開けるのは僕の役目らしい。優梨のまっすぐな目に、僕はついに根負けして、鍵穴に差し込んで、
（どうせ、違う鍵だから……）
　ガチャリ。
　鉄と鉄が擦れ合う嫌な音のあと、それは音を立てて開く。優梨は、僕の腕をなんども叩いて、やったやったと、はしゃぐが、ずるずると鎖から抜け落ちる南京錠の姿に、僕はそこに立っているのが限界だった。やがて、だらしなく揺れる鎖の重みで、木製の門が音を立てて少し開く。
「行こ」
　僕の手をしっかりと握って、優梨がまた不思議そうに首を傾げながら、こちらを見上げる。僕の心臓は高鳴りの頂点に達し、まるで破裂しかけの風船のようだ。鼓動が耳をつんざき、脚が細い棒状のものになって、うまく身体を支えられない。
　けれど、ここで僕が嫌がって入るのに愚図れば、優梨はひとりでもこの家に入っていくだろう。優梨ひとりに行かせるわけにはいかない。嫌な予感がするのだ。二度と優梨と会えなくなる。そんなはっきりとした恐怖。
　僕は、震える脚を差し向けて、開かれた門の隙間に身体を滑り込ませた――

　それからの記憶は僕にない。僕には半年ほどの空白の時間がある。まるで、最初からそのとき、その場所にいなかったかのように、すっぽりと僕の歴史が抜け落ちているのだ。
　あのあと、なにかが起きて、僕らの身になにかが降りかかった。それだけは確かなのだが、親は堅く口を閉ざし、この辺りに住んでいたなあと懐かしがると、途端になにかを探るような目つきになり、いい返答はもらえない。
『君は知らなくていいことだよ』
　子どもの頃、まわりに誰もいないのにも関わらず、時折、女の子の声が僕の言動に対して応えることがあった。年上のような物言いだが、それほど歳の離れている感じもしない。そんな声だ。いつかのときも、僕がそれを知ろうとしたとき、ぼんやりと頭の斜め上のほうから声が振ってきたものだった。
　僕の意識からは抜け落ちた、されど、それは記憶から消えたわけではない。『さき』と呼ばれるもうひとりの僕に、その記憶を預けているだけなのだから。だけど、意識に上がらなくても、どこかで覚えている。そのとき、なにが起きて、どうなったのか。突然、フラッシュバックのように脳内が白くスパークして、記憶にはない、けれど知っているなにかが鮮明に映像となってその姿を現すのだ。
　だが、まるであのときの――鎖にぶら下がる南京錠が、ジャラジャラと僕の脳内を這いずり回り、記憶の鍵穴に合う鍵は今も見つかっていない。

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