第54回 てきすとぽい杯〈紅白小説合戦・白〉
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辻稲江刺し
投稿時刻 : 2019.12.15 00:00
字数 : 3019
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辻稲江刺し
合高なな央


「こんな冷え込む日は『ツジイネエザシ』が食べたくなるなあ」
 昼休みにふと課長がそんなことをつぶやいた。
 課の紅一点、美人OLの渚ちんが合いの手を入れる。
「そうですね。体温まりますもんね『ツジイネエザシ』」
「でも、なかなか手が届かないですもんね『ツジイネエザシ』」
 と、イケメンだが少々チラい新人の初川が話に割り込んでいく。
 
「どうですか? 中井さん。今夜はご家族で『ツジイネエザシ』でも突かれては?」
 と、渚ちんが私に振てくる。
「なんだいその『ツジイネエザシ』て?」
 
「は? 知らないんですか?」
 と初川。
「中井くん、君本気かい? だとしたら少々常識が足らないんじないのかい」
 と課長。
「冗談ですよね、ね、中井さん」
 と渚ちんも心配げな顔で訊いてくる。
 
 私はついつい強がて嘘をつく。
「ははは、もちろん冗談ですよ。あんな美味しいもの知らないなんて、1月7日に届く年賀状くらい非常識ですよ」
 と話を合わせる。

 その後の皆の話から推察するにどうやら『ツジイネエザシ』というのは、『辻稲江刺し』と書くらしい。
 それは……
 
 ・この地方特有の鍋料理の具材である
 ・その具材そのものも、鍋料理も両方を指して『辻稲江刺し』というらしい。
 ・郷土の人間なら知らないものはめたにいないとても美味な料理である。
 ・八百屋に売ている。
 ・めたに入荷しない。
 ・家族みんなが幸せな気分になる。
 ・どんなに仲違いした家族も一つの卓について食事するほどの魔力がある。
 
「もう、中井さんそんな冗談言てると、奥さんに愛想つかれちいますよ」
 と休憩時間が終わるチイムと同時に初川に軽口を叩かれた。
 だが私はその言葉が胸に重く伸し掛かた。熨斗をつけて。
 

 
 五時のチイムが鳴り、普段する残業も今日は辞めにして、私は家路についた。
 そして最寄り駅の喧騒にまみれた商店街で八百屋に飛び込んだ。
 狭く薄汚い店内を見渡すが『辻稲江刺し』などという商品はない。
 さては課の連中に担がれたかと思たが、目の前でダンボールから玉ねぎを取り出している八百屋の親父にそと声をかけてみた。
 
「ねえ親父さん。あんた『辻稲江刺し』て知てるかい?」
 多分馬鹿にされるだろうと思いこんでいたが、振り返た親父は深刻そうな顔でこう言た。
「いやあ、今年は冷夏で生育が悪くてねえ、なかなか手に入らないんですわ」
「そうかい。残念だ」
 私は肩を落とした。

「あんた。なんか訳ありかい?」
「ああ」と私は言た。

 私の家庭状況は芳しくない。父は早くに他界し、母は寝たきりで介護が必要だ。妻はそれに疲れて毳々しい化粧をして夜の街を飲み歩く日々、息子は街で喧嘩に明け暮れ、日々警察の厄介になていて、娘は不登校で部屋に引きこもりSNSで怪しげな友達と異星人のようなやり取りをしている。
 
 そんな私の内心を察したのか。
「いいよ、今夜うちで突こうと思てこそり取ておいた『辻稲江刺し』だが、あんたにお売りしますよ」
 
 私は唐突に手に入た『辻稲江刺し』に顔がほころび、店を飛び出すとスキプしながら商店街を抜け出し、小躍りしながら大通りを駆け抜け帰宅した。


 
 家に帰た私は、背広を脱いでハンガーにかけると、さそく腕まくりをして台所に立た。台所は最近使われてなかたようなよそよそしさでうすらホコリが積もている気配さえする。
 
 そして私はククパドにアクセスした。
『辻稲江刺し』の項目には驚くほど多彩な作り方が載ていた。味噌味、キムチ味、酒粕を入れたもの、牛乳とコラーゲンたぷりなもの。しかし私はシンプルなものを選んだ。
 複雑になた家族を、一瞬でもいい。また昔のように一つ鍋の元につどい、語り合いたいからだ。
 
 私はまず包丁を研ぐことにした、料理は何より包丁の切れ味で決まる。私はペテナイフが好きなので、それを重点的に研いだ。テペーパーも空中で切り裂くことができるほどに研いだ。実際空中に投げ上げた二枚重ねのテペーパーを2等分にした。そしてつぶやく。
「またつまらぬ物を切てしまた」
 
 五エ門ごこに浸りつつ、私はククパドに目をやり調理を始める。
 そして冷蔵庫にあた白菜をペテナイフで削ぎ切り、葉ぱの部分と白い芯の部分に分ける。そして芯の部分は更に2センチ幅で切り、耐熱ボールに入れて電子レンジで7分温める。
 
 そしてコタツに家族全員の膳をならべ、底に金属のついた土鍋に、乾燥昆布にハサミで切れ目を入れて敷く、水を張り、IHヒーターの上にセトする。『辻稲江刺し』は野趣に溢れた味わいなのでシンプルだが濃い味の出汁がよく合うのだ。

 と、そこでご飯が炊けた合図が炊飯ジから聞こえてくる。
 ところで、米を炊くのが正しい日本語なのか、ご飯を炊くのが正しい日本語なのか、水を沸かすが正しい日本語なのかお湯を沸かすが正しい日本語なのか、そんなことを3分ほど思案してから炊飯器を空けて炊けたご飯をかき混ぜて蒸らし直す。
 
 そしてまずは長男に電話する。
 やはりというか毎度というか、どうやら喧嘩の真最中らしく殴り合う音ガラスの割れる音、物が壊れる音がする。
「なんだクソジジイ、今忙しいんだよ!」
 という応答に、
「もしもし今夜は『辻稲江刺し』だ」
 というと、
「なんだと? すぐ帰るぜ。必殺ギラクテカフントム!!!!」
 というなんだか凄まじい技を繰り出した音が背後から聞こえて電話は切れた。
 
 そして次は妻にメールする。
「今夜は『辻稲江刺し』だよ」
 すると飲んだくれの妻から即座に返信が返てくる。
「愛してるわ、あ・な・た(ハート」
 私は少し不気味に感じながら、娘の部屋の前に向かう。
 
 ノクして、今夜は『辻稲江刺し』だと告げると、ガンガンにスピーカーから流れていたベイビーメタルのヘドバンヘドバンの音がやみ、道なき道を進むがごとくドアを開けた娘が私の横をすり抜け洗面所に手を洗いに走た。
 
 階段を降りてリビングに戻ると、まだ呼びに行ていない寝たきりの母が飛び起きてもう座についていた。
 すげえ威力だな『辻稲江刺し』



 そして家族が一同に揃う。
 毳々しい香水と酒の匂いを漂わせながら妻が、擦り傷と血の跡を服につけたまま息子が、長袖から手首が出るのを気にしておどおどしながら娘が、いつも寝込んでいて愚痴ばかりの母が今日だけは笑顔で食卓についている。
 
 煮込んでトロトロにとろけた白菜の上でグツグツ音を立てて『辻稲江刺し』が白い煙を上げる。
 そして皆がそれに箸を突つき、はふはふと熱そうに舌で包みながら舌鼓を打つ。
 
 家族の団欒。何年振りだろう。
 これで元通り昔の家族に戻る、なんてことは夢を見すぎだろう。当たり前だ。それだけそれぞれが複雑な想いを背負ている。
 でも一瞬でもいい。このひとときでいい。家族が揃て笑顔で食事をすることが、幸せだたのだと思い出させてくれた、『辻稲江刺し』。
 私は涙で隠し味をつけた熱々のトロトロ白菜を喉に流し込みながらむせ返る。
「お父さん。なにしてんの?」
「気をつけろよ親父」
「あなた気をつけて」
「ふがふがふが」
「おばあちん入れ歯外れてるよ」
「おやおや、あんまり美味しいから驚いて入れ歯が飛んで逃げたよ。ふがふがふが」
 
 
 結局私は、一口も『辻稲江刺し』を食せなかた。
 皆が笑顔で食べているところを見るだけでお腹いぱいだたからだ。
 
 そして一瞬のやすらぎだたとしても神と『辻稲江刺し』に感謝したい。
 そしてまた、機会があれば『辻稲江刺し』を手に入れて、家族で鍋を囲もう。
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