辻稲江刺し
「こんな冷え込む日は『ツジイネエザシ』が食べたくなるなあ」
昼休みにふと課長がそんなことをつぶやいた。
課の紅一点、美人OLの渚ち
ゃんが合いの手を入れる。
「そうですね。体温まりますもんね『ツジイネエザシ』」
「でも、なかなか手が届かないですもんね『ツジイネエザシ』」
と、イケメンだが少々チャラい新人の初川が話に割り込んでいく。
「どうですか？ 中井さん。今夜はご家族で『ツジイネエザシ』でも突かれては？」
と、渚ちゃんが私に振ってくる。
「なんだいその『ツジイネエザシ』って？」
「は？ 知らないんですか？」
と初川。
「中井くん、君本気かい？ だとしたら少々常識が足らないんじゃないのかい」
と課長。
「冗談ですよね、ね、中井さん」
と渚ちゃんも心配げな顔で訊いてくる。
私はついつい強がって嘘をつく。
「ははは、もちろん冗談ですよ。あんな美味しいもの知らないなんて、１月７日に届く年賀状くらい非常識ですよ」
と話を合わせる。
その後の皆の話から推察するにどうやら『ツジイネエザシ』というのは、『辻稲江刺し』と書くらしい。
それは……
・この地方特有の鍋料理の具材である
・その具材そのものも、鍋料理も両方を指して『辻稲江刺し』というらしい。
・郷土の人間なら知らないものはめったにいないとても美味な料理である。
・八百屋に売っている。
・めったに入荷しない。
・家族みんなが幸せな気分になる。
・どんなに仲違いした家族も一つの卓について食事するほどの魔力がある。
「もう、中井さんそんな冗談言ってると、奥さんに愛想つかれちゃいますよ」
と休憩時間が終わるチャイムと同時に初川に軽口を叩かれた。
だが私はその言葉が胸に重く伸し掛かった。熨斗をつけて。
五時のチャイムが鳴り、普段する残業も今日は辞めにして、私は家路についた。
そして最寄り駅の喧騒にまみれた商店街で八百屋に飛び込んだ。
狭く薄汚い店内を見渡すが『辻稲江刺し』などという商品はない。
さては課の連中に担がれたかと思ったが、目の前でダンボールから玉ねぎを取り出している八百屋の親父にそっと声をかけてみた。
「ねえ親父さん。あんた『辻稲江刺し』って知ってるかい？」
多分馬鹿にされるだろうと思いこんでいたが、振り返った親父は深刻そうな顔でこう言った。
「いやあ、今年は冷夏で生育が悪くてねえ、なかなか手に入らないんですわ」
「そうかい。残念だ」
私は肩を落とした。
「あんた。なんか訳ありかい？」
「ああ」と私は言った。
私の家庭状況は芳しくない。父は早くに他界し、母は寝たきりで介護が必要だ。妻はそれに疲れて毳々しい化粧をして夜の街を飲み歩く日々、息子は街で喧嘩に明け暮れ、日々警察の厄介になっていて、娘は不登校で部屋に引きこもりSNSで怪しげな友達と異星人のようなやり取りをしている。
そんな私の内心を察したのか。
「いいよ、今夜うちで突こうと思ってこっそり取っておいた『辻稲江刺し』だが、あんたにお売りしますよ」
私は唐突に手に入った『辻稲江刺し』に顔がほころび、店を飛び出すとスキップしながら商店街を抜け出し、小躍りしながら大通りを駆け抜け帰宅した。
家に帰った私は、背広を脱いでハンガーにかけると、さっそく腕まくりをして台所に立った。台所は最近使われてなかったようなよそよそしさでうっすらホコリが積もっている気配さえする。
そして私はクックパッドにアクセスした。
『辻稲江刺し』の項目には驚くほど多彩な作り方が載っていた。味噌味、キムチ味、酒粕を入れたもの、牛乳とコラーゲンたっぷりなもの。しかし私はシンプルなものを選んだ。
複雑になった家族を、一瞬でもいい。また昔のように一つ鍋の元につどい、語り合いたいからだ。
私はまず包丁を研ぐことにした、料理は何より包丁の切れ味で決まる。私はペティーナイフが好きなので、それを重点的に研いだ。ティッシュペーパーも空中で切り裂くことができるほどに研いだ。実際空中に投げ上げた二枚重ねのティッシュペーパーを２等分にした。そしてつぶやく。
「またつまらぬ物を切ってしまった」
五エ門ごっこに浸りつつ、私はクックパッドに目をやり調理を始める。
そして冷蔵庫にあった白菜をペティーナイフで削ぎ切り、葉っぱの部分と白い芯の部分に分ける。そして芯の部分は更に２センチ幅で切り、耐熱ボールに入れて電子レンジで７分温める。
そしてコタツに家族全員の膳をならべ、底に金属のついた土鍋に、乾燥昆布にハサミで切れ目を入れて敷く、水を張り、IHヒーターの上にセットする。『辻稲江刺し』は野趣に溢れた味わいなのでシンプルだが濃い味の出汁がよく合うのだ。
と、そこでご飯が炊けた合図が炊飯ジャーから聞こえてくる。
ところで、米を炊くのが正しい日本語なのか、ご飯を炊くのが正しい日本語なのか、水を沸かすが正しい日本語なのかお湯を沸かすが正しい日本語なのか、そんなことを３分ほど思案してから炊飯器を空けて炊けたご飯をかき混ぜて蒸らし直す。
そしてまずは長男に電話する。
やはりというか毎度というか、どうやら喧嘩の真っ最中らしく殴り合う音ガラスの割れる音、物が壊れる音がする。
「なんだクソジジイ、今忙しいんだよ！」
という応答に、
「もしもし今夜は『辻稲江刺し』だ」
というと、
「なんだと？ すぐ帰るぜ。必殺ギャラクティカファントム！！！！」
というなんだか凄まじい技を繰り出した音が背後から聞こえて電話は切れた。
そして次は妻にメールする。
「今夜は『辻稲江刺し』だよ」
すると飲んだくれの妻から即座に返信が返ってくる。
「愛してるわ、あ・な・た(ハート」
私は少し不気味に感じながら、娘の部屋の前に向かう。
ノックして、今夜は『辻稲江刺し』だと告げると、ガンガンにスピーカーから流れていたベイビーメタルのヘドバンヘドバンの音がやみ、道なき道を進むがごとくドアを開けた娘が私の横をすり抜け洗面所に手を洗いに走った。
階段を降りてリビングに戻ると、まだ呼びに行っていない寝たきりの母が飛び起きてもう座についていた。
すげえ威力だな『辻稲江刺し』
そして家族が一同に揃う。
毳々しい香水と酒の匂いを漂わせながら妻が、擦り傷と血の跡を服につけたまま息子が、長袖から手首が出るのを気にしておどおどしながら娘が、いつも寝込んでいて愚痴ばかりの母が今日だけは笑顔で食卓についている。
煮込んでトロトロにとろけた白菜の上でグツグツ音を立てて『辻稲江刺し』が白い煙を上げる。
そして皆がそれに箸を突つき、はふはふと熱そうに舌で包みながら舌鼓を打つ。
家族の団欒。何年振りだろう。
これで元通り昔の家族に戻る、なんてことは夢を見すぎだろう。当たり前だ。それだけそれぞれが複雑な想いを背負っている。
でも一瞬でもいい。このひとときでいい。家族が揃って笑顔で食事をすることが、幸せだったのだと思い出させてくれた、『辻稲江刺し』。
私は涙で隠し味をつけた熱々のトロトロ白菜を喉に流し込みながらむせ返る。
「お父さん。なにしてんの？」
「気をつけろよ親父」
「あなた気をつけて」
「ふがふがふが」
「おばあちゃん入れ歯外れてるよ」
「おやおや、あんまり美味しいから驚いて入れ歯が飛んで逃げたよ。ふがふがふが」
結局私は、一口も『辻稲江刺し』を食せなかった。
皆が笑顔で食べているところを見るだけでお腹いっぱいだったからだ。
そして一瞬のやすらぎだったとしても神と『辻稲江刺し』に感謝したい。
そしてまた、機会があれば『辻稲江刺し』を手に入れて、家族で鍋を囲もう。