亜里沙の涙
そのとき、亜里沙は確かに泣いていた。
場所は、確か公園の水道のそばだ。地面から生えた水道の影が四歩分は伸びていた。周りにはひとはいなか
ったと思う。だって、当時のぼくは人見知りの弱虫で、女の子と二人でいるところを目撃されるのに耐えられたとはとても思えない。
なにが理由だったのかは憶えていない。そもそも、女の子がなぜ泣くか、いまに至るまで分かったことなんてない。どっちかというと女の子に泣かされたことの方が多い。もちろん、これは比喩で、実際には「斗真くんって、恋愛対象ってカンジじゃないのよねー」的なせりふを聞かされて、だよねーと笑って応じた心の中で荒れ狂う大雨警報だけれど。
すくなくとも、泣く原因になった人間から慰められることほど惨めなことはない。
それはわかる。
だから、亜里沙が泣いていたのはぼくのせいでないことを祈る。
でも、幼稚園くらいの年頃の女の子が、時空を隔てた抽象的なもののために泣くだろうか。やっぱり、そばにいたぼくに原因があったのではないか。亜里沙はしゃがんでいた。スカートから膝小僧が覗いていた。一人っ子で、母はいつもパンツルックだったせいか、スカートというものに純粋に興味があった。しゃがんでしまうと下着一枚に包まれたお尻が地面すれすれに晒されてしまう。それでいいのだろうか。いや、性的な意味ではない。たぶん。
そこで何らかのやりとりがあった。ぼくに大した慰めができたとも思えない。でも、亜里沙は泣き止んだ、と思う。そのあと、もし印象的なことが起きたなら、いくらなんでも憶えているだろう。しょっちゅう藪蚊がやって来て、払いのけるものの脛のあちこちを刺されてしまい、ボコボコになったのを掻きすぎて血が滲んで、母に叱られた、という本当にどうでもいいことは記憶にあるのだから。
そして亜里沙は、いつのまにかぼくと付き合っていることになっていた。
正直、ぼくにとっては迷惑だった。小学校からずっと、ぼくはいじめられっ子だった。いじめっ子にとっては、いじめられっ子のありとあらゆる属性がいじめの対象になる。だからいじめられっ子は、自分の属性を無くして無個性なつまらない人間になっていじめを回避しようとする。そうなると、いじめっ子は身体的な苦痛を与えてリアクションをすべていじめの種にした。つまり、いじめからは逃れられない。
いじめのポイントを鵜の目鷹の目で探すいじめられっ子の前で、亜里沙はぼくに絡んできた。からかわれた。でも、亜里沙は構わなかった。亜里沙の目の前で、ぞうきんを口に銜えて床の拭き掃除をさせられたのは忘れられない。いじめっ子は大うけだった。亜里沙は平然とぼくを見つめていた。
「斗真は掃除好きだよな」
いじめっ子の言葉にも、亜里沙は黙っていた。
そんなことがあった日も、亜里沙はぼくといっしょに帰った。帰り道、亜里沙はいつもと変わらずぼくに話しかけ、声を上げて笑った。いたたまれなかった。いじめられっ子の言いなりになるだけのブザマなぼくに、内心は幻滅しているに違いない。それだけならまだいい。女の子の中でのいじめの対象になるんじゃないか。亜里沙は、いわゆる美人じゃないけれど、女子のいじめリーダー・希美よりははるかにましな顔立ちだった。いじめられっ子のぼくと付き合っている、という名目でいじめられるのは大いにありうる。
「かっこ悪いだろう、ぼく」
喉が抉られる思いで、亜里沙にそう言った。自転車歩行者専用道路のアスファルトはあちこち罅が入って捲れ、セイタカアワダチソウが突き出ていた。
「栄貴や俊倫や怜音の言いなりになってるぼくといっしょにいたら、亜里沙までいじめられる」
自分がどれだけ情けない人間か、身を切る思いで口にした。亜里沙も内心、そう思っているはずだ。思うさま罵倒して、希美たち「いじめっ子」プロパーに属したらいい。
でも、亜里沙の言葉は違っていた。
「べつに、それでもいいし、関係ないじゃん」
そのとき、ぼくはどう思ったか。こんなぼくとそれでもいっしょにいようとしてくれる亜里沙に涙したか。
逆だ。
亜里沙が心底、憎らしくなった。自分の情けなさを亜里沙がよけいに掻き立てていると思った。完全に逆恨みだし、八つ当たりだ。それでも、そのときのぼくはそうとでも考えなければ惨めな自分が保てなかった。
そして、ぼくはひそかに亜里沙をいじめ始めた。亜里沙が話しかけると、大声で「うるせえな」と怒鳴った。いつも下足箱のところでいっしょになって帰っていたのに、かまわず一人で帰った。走って追いかけてくる亜里沙に、地面の砂を掬ってぶつけた。なんの理由もなくぼくからいじめられ始めた亜里沙は、それでもぼくについてきた。そうされるとよけいにいじめずにはいられない気持ちになった。
いつの間にか、ぼくの気持ちに変化が起きた。
正直に言おう。いじめるのって、なんて気分がいいんだろう。
ものをぶつけられたりひっぱたかれたりして、怯えた顔で自分の犯してしまったかもしれない落ち度を考える亜里沙を見ると、腹の底から笑いが込み上げてくる。ばーか。いくら探しても理由なんてねえよ。ムカつくからやられているんだよ。そんなことも分からないのか。亜里沙に背を向けて、歩いてゆく。背後から伸びてくる影で、ついてきているのが分かる。
なんでついてくるんだよ。
亜里沙をいじめるようになって、栄貴や俊倫や怜音の気持ちがわかるようになった。いじめられたやつは自分の落ち度を必ず探す。ところが、そんなものはない。ありもしない答えを探して必死になる愚かさ、ブザマさを嘲笑したいのだ。いじめは優位に立つ快感の謂いだと思う。
わからないのは、ぼくにそれだけいじめられても亜里沙はずっとついてきたことだ。ぼくならいじめが一段落すればすかさず逃げる。でも、亜里沙は逃げない。黙ってぼくのあとを歩く。バカじゃないか、と思ってみても、バカなのは明らかにぼくの方だった。
そしてもうひとつ。
亜里沙は、ぼくに何をされても決して泣かなかった。怖気づいたぼくが亜里沙の服を脱がせてあちこちつねっても、口をきゅっと結んだままだった。
泣いていたのは、水道の影が伸びるあの公園でだけ、だった。