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第58回 てきすとぽい杯〈夏の特別編・前編〉
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亜里沙の涙
 投稿時刻 : 2020.08.01 16:34
 字数 : 2500
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亜里沙の涙
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 そのとき、亜里沙は確かに泣いていた。
 
 場所は、確か公園の水道のそばだ。地面から生えた水道の影が四歩分は伸びていた。周りにはひとはいなかたと思う。だて、当時のぼくは人見知りの弱虫で、女の子と二人でいるところを目撃されるのに耐えられたとはとても思えない。
 
 なにが理由だたのかは憶えていない。そもそも、女の子がなぜ泣くか、いまに至るまで分かたことなんてない。どちかというと女の子に泣かされたことの方が多い。もちろん、これは比喩で、実際には「斗真くんて、恋愛対象てカンジじないのよねー」的なせりふを聞かされて、だよねーと笑て応じた心の中で荒れ狂う大雨警報だけれど。
 
 すくなくとも、泣く原因になた人間から慰められることほど惨めなことはない。
 それはわかる。
 だから、亜里沙が泣いていたのはぼくのせいでないことを祈る。
 
 でも、幼稚園くらいの年頃の女の子が、時空を隔てた抽象的なもののために泣くだろうか。やぱり、そばにいたぼくに原因があたのではないか。亜里沙はしがんでいた。スカートから膝小僧が覗いていた。一人子で、母はいつもパンツルクだたせいか、スカートというものに純粋に興味があた。しがんでしまうと下着一枚に包まれたお尻が地面すれすれに晒されてしまう。それでいいのだろうか。いや、性的な意味ではない。たぶん。
 
 そこで何らかのやりとりがあた。ぼくに大した慰めができたとも思えない。でも、亜里沙は泣き止んだ、と思う。そのあと、もし印象的なことが起きたなら、いくらなんでも憶えているだろう。しう藪蚊がやて来て、払いのけるものの脛のあちこちを刺されてしまい、ボコボコになたのを掻きすぎて血が滲んで、母に叱られた、という本当にどうでもいいことは記憶にあるのだから。
 
 そして亜里沙は、いつのまにかぼくと付き合ていることになていた。

正直、ぼくにとては迷惑だた。小学校からずと、ぼくはいじめられ子だた。いじめ子にとては、いじめられ子のありとあらゆる属性がいじめの対象になる。だからいじめられ子は、自分の属性を無くして無個性なつまらない人間になていじめを回避しようとする。そうなると、いじめ子は身体的な苦痛を与えてリアクシンをすべていじめの種にした。つまり、いじめからは逃れられない。

 いじめのポイントを鵜の目鷹の目で探すいじめられ子の前で、亜里沙はぼくに絡んできた。からかわれた。でも、亜里沙は構わなかた。亜里沙の目の前で、ぞうきんを口に銜えて床の拭き掃除をさせられたのは忘れられない。いじめ子は大うけだた。亜里沙は平然とぼくを見つめていた。
「斗真は掃除好きだよな」
 いじめ子の言葉にも、亜里沙は黙ていた。

 そんなことがあた日も、亜里沙はぼくといに帰た。帰り道、亜里沙はいつもと変わらずぼくに話しかけ、声を上げて笑た。いたたまれなかた。いじめられ子の言いなりになるだけのブザマなぼくに、内心は幻滅しているに違いない。それだけならまだいい。女の子の中でのいじめの対象になるんじないか。亜里沙は、いわゆる美人じないけれど、女子のいじめリーダー・希美よりははるかにましな顔立ちだた。いじめられ子のぼくと付き合ている、という名目でいじめられるのは大いにありうる。

「かこ悪いだろう、ぼく」
 喉が抉られる思いで、亜里沙にそう言た。自転車歩行者専用道路のアスフルトはあちこち罅が入て捲れ、セイタカアワダチソウが突き出ていた。
「栄貴や俊倫や怜音の言いなりになてるぼくといにいたら、亜里沙までいじめられる」
 自分がどれだけ情けない人間か、身を切る思いで口にした。亜里沙も内心、そう思ているはずだ。思うさま罵倒して、希美たち「いじめ子」プロパーに属したらいい。
 でも、亜里沙の言葉は違ていた。
「べつに、それでもいいし、関係ないじん」
 そのとき、ぼくはどう思たか。こんなぼくとそれでもいにいようとしてくれる亜里沙に涙したか。

 逆だ。

 亜里沙が心底、憎らしくなた。自分の情けなさを亜里沙がよけいに掻き立てていると思た。完全に逆恨みだし、八つ当たりだ。それでも、そのときのぼくはそうとでも考えなければ惨めな自分が保てなかた。

 そして、ぼくはひそかに亜里沙をいじめ始めた。亜里沙が話しかけると、大声で「うるせえな」と怒鳴た。いつも下足箱のところでいになて帰ていたのに、かまわず一人で帰た。走て追いかけてくる亜里沙に、地面の砂を掬てぶつけた。なんの理由もなくぼくからいじめられ始めた亜里沙は、それでもぼくについてきた。そうされるとよけいにいじめずにはいられない気持ちになた。

 いつの間にか、ぼくの気持ちに変化が起きた。

 正直に言おう。いじめるのて、なんて気分がいいんだろう。

 ものをぶつけられたりひぱたかれたりして、怯えた顔で自分の犯してしまたかもしれない落ち度を考える亜里沙を見ると、腹の底から笑いが込み上げてくる。ばーか。いくら探しても理由なんてねえよ。ムカつくからやられているんだよ。そんなことも分からないのか。亜里沙に背を向けて、歩いてゆく。背後から伸びてくる影で、ついてきているのが分かる。

 なんでついてくるんだよ。

 亜里沙をいじめるようになて、栄貴や俊倫や怜音の気持ちがわかるようになた。いじめられたやつは自分の落ち度を必ず探す。ところが、そんなものはない。ありもしない答えを探して必死になる愚かさ、ブザマさを嘲笑したいのだ。いじめは優位に立つ快感の謂いだと思う。

 わからないのは、ぼくにそれだけいじめられても亜里沙はずとついてきたことだ。ぼくならいじめが一段落すればすかさず逃げる。でも、亜里沙は逃げない。黙てぼくのあとを歩く。バカじないか、と思てみても、バカなのは明らかにぼくの方だた。

 そしてもうひとつ。
 亜里沙は、ぼくに何をされても決して泣かなかた。怖気づいたぼくが亜里沙の服を脱がせてあちこちつねても、口をきと結んだままだた。

 泣いていたのは、水道の影が伸びるあの公園でだけ、だた。
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