草の波 夕暮れの船
「船だ」
自転車を降りて、始めに呟いたのは有理だ。
「おお、船だ」
「船だ!船だ!」
続いて和真、俊平、柊人。僕らは口々に叫ぶと自転車をそこに乗り捨てて、真
っすぐ「船」に向かって走った。
小さな窓が並んで付いた壁、突き出たウッドデッキは舳先のシルエット、天窓のついた二階建ての部分はちょうど船尾側だ。近くで見ると少し形の変わったおんぼろな小屋には違いなかったが、遠くまで広がる草原の、風にうねる草の波の中、僕らを乗せるために現れた、それは間違いなく「船」だった。
*
小学生最後の学年になった僕らは、「探検」とか「冒険」とか言っては自転車で遠出した。行先はその日の気分次第。毎回違う道を選び、校区の外にだって平気で出る。どんなに遠くに感じたって限られた時間で行ける距離は大したことはない。僕らの頭の中の地図はどんどん出来上がっていたから、帰り道が解らなくなる心配なんて全くなかった。
土手に沿って川を遡り、行きつくところまで──その日はそんな勢いだったけれど、道に従って進んで行くといつの間にか川を離れていた。どんどん狭くなる石ころだらけの登り坂の先、目の前に開けたのはだだっ広い草地。西の空、夕陽が空を赤く染め、丈高く伸びた草が風に揺れていた。
勢いで「船」に駆け寄ったものの、一歩踏み込む前に急に弱気になった僕たちは、お互いの顔を見る。
「誰も住んだりしてないよな」
隙間からのぞき見ようとする和真。
「フホーシンニュウで 捕まったりして」
笑いながらも結構心配そうな俊平。走るのが遅くてまだたどり着けない柊人。そんな中で躊躇なく踏み込んでいったのも、有理だ。僕の双子の片割れの有理はこういう時、誰よりずっと「男らしい」。
すっかり雑草が覆っているけれど、ずっと以前はここも畑だったのだろう。「船」の中を見回すと錆びついた農具や肥料の袋が転がっている。農作業用の物置というだけじゃなく、趣味でつぎ足しつぎ足し造った感じのする小屋で、天井には裸電球がぶら下がり、流しと小さなコンロもある。古臭いラジカセが置かれた木製のテーブルと、倒れたままの椅子は随分と埃を被っている。幾つかの壁板は剥がれかけ風に揺れてパタパタと音を立てた。急な梯子段を怖々上ってみると二階の床板もぎしぎし軋み、ところどころ朽ちて抜け落ちていた。天窓の下に破れた布張りのソファーベッドがある。触れると埃が舞い上がって柊人が咳込み、その様子が可笑しくてみんなが笑った。
「星を見ながら眠れるね」天文好きの和真が言った。
窓から遠くに広がる草地が見える。その先はきっと崖か急斜面だ。地平線が空と接していて、本当に海みたいだった。
*
ずっと誰にも見とがめられないことに調子づいて、それから僕らは何度も何度も「船」に通った。電気も水道も使えなかったけれど 飲み物とお菓子を持ちよれば充分だった。和真が漫画や本を、俊平がボードゲームを持ってきた。柱には手作りのダーツの的や柊人の好きなアニメのポスターが飾られた。
「船長」は茶トラの大きな雄猫だ。
僕らがここを見つけるよりずっと前から縄張りにしていたんだろう、入って来た僕らを梯子段の上からじろりと睨み、毛を逆立てて威嚇した。動物好きの有理は、そんな可愛げのない猫を相手にでも根気よく近づき、終には信頼を勝ち得て仲間として認められた。「船長」は相変わらず偉そうな態度のまま、気まぐれに有理の膝にどっかと座り込む。首を延ばして有理に喉を撫でさせると、そのまま気持ち良さそうに眠った。
*
夏になると流石に暑さには勝てず僕らは「船」から離れ、クーラーの効いた居場所を探して過ごすようになった。図書館、児童館、親の干渉の無い誰かの家、スーパーのフードコートとか、そんなところだ。
夏休みのある日、有理にしつこく誘われ、久しぶりに「船」に行った。暑いから嫌だと文句を言い言い、しぶしぶ付いて行く僕の前を有理は黙ったまま自転車を走らせる。流れる汗を拭き拭き「船」に入ると、先に入っていた有理が何かをじっと見下ろしている。有理の視線の先に数本の煙草の吸殻が落ちていた。煙草だけじゃない、椅子の下にはビールやチューハイの缶が転がり、僕らの持ち込んだ漫画が散らかっていた。壁のポスターに趣味の悪い落書きが書き込まれ、花火をした形跡もある。この「船」の持ち主のやったこととも思えない。
有理は床に放り出されたグラビア雑誌を蹴って隅に押しやった。船長を探したが、その日はずっと姿を見せなかった。嫌な予感がした。
「ごめん。あの場所のこと、うっかり話しちゃって」
数日後、俊平が謝ってきた。相当落ち込んでいる。中学生の俊平の兄貴とその仲間が、僕らの「船」を荒らした犯人だった。兄ちゃんはただのお調子者だけど、仲間の中には相当ヤバい奴もいる。当分「船」には行かない方がいい、と俊平が言った。
──有理は絶対に一人で行かせないで。
俊平は口ごもりながら、真剣な目をして付け加えた。
*
母と有理はよくぶつかる。もともとお洒落や買い物が好きだった母は双子の僕らを産んだ時、片方だけでも「女の子」だったことをそれは喜んだそうだ。そんな話を聞くと、男に生まれた僕の存在も結構悲しくはあったのだけれど、「女の子」に対する母の想いも有理にはただただ重く、迷惑だったようだ。
母が買ってくるフリルや花柄の洋服を嫌って僕の服を好んで着、髪を自分で短く切って、いつも有理は男の子に混じって遊んだ。母が誘っても買い物に付き合うこともせず、バレエやピアノといった習い事を薦めても頑なに断る。無理に始めさせても勝手に辞めて、有理は母の夢を壊し続けた。母はそんな有理のことを嘆き、何一つ受け容れてもらえない自分を可哀想だといつも言った。
──男だ、女だという時代じゃない、好きな格好で構わないじゃないか、本人がしたいことを応援してやればいい。
有理を庇い、僕のことについても、もっとちゃんと見てやって欲しい、と父は言ってくれた。
──貴方は本気で子供のことを心配していない。この家のひとは誰も私の気持を解ってくれない。
母は泣き、父を、僕らを詰った。
船は、此処ではないどこかに連れて行ってくれる。だからこそ僕らにとって、本当に大事な場所だった。
*
夕食の時間が近づいても有理は部屋から出てこない。有理の外出に気付いたのは、不覚にもついさっきのことだった。探しに行こうと立ち上がると同時に、玄関でドサリという音がした。見ると有理がしゃがみ込んでいる。髪は乱れ靴は片方で、パーカーに泥がついている。顔と腕に擦り傷があった。自転車で転んだだけだ、と有理は言った。母は有理を部屋に連れて入ると、顔の傷を消毒しながら涙声で
「顔に傷なんかつくって……」
と言った。
「『女の子なのに』って言うんだ、どうせ」
有理は手当する母を上目遣いで見ると、その腕を振り切って部屋に駆けこんでドアにカギをしめた。
ドア越しに、僕は有理に話しかける。船長のことを心配して「船」に何度か一人で様子を見に行っていたことは解った。怪我については本当に自転車で転んだのだと言い張ってそれ以上は言わない。
「何処で」も「何故」も絶対に大人になんか言わない。僕らの居場所、「船」の秘密だけは何があっても守る──有理の想いは強かった。
「あいつら船長を追い詰めていじめてたんだ。笑って花火を振り回して」
沈黙は長かったが数日経ってやっと、有理は少しずつ、その時のことを話し始めた。
「自転車で転んだだけって本当?」
「船長があいつらに飛び掛かって戦ってくれた。その隙に逃げた」
「酷いこと、されなかったかって…心配してた。俊平が」
俊平が特に有理を名指しして「船」に行くことを止めた理由は鈍い僕にも解っていた。同じ格好をしていても、僕らの身体はそれぞれに成長している。有理がどんなに嫌がっ