感染
憎しみや悪意、呪いや怨みの感情が空気中を漂い流れ、あたかもウイルスのように、人の心に感染する。ホラー
を題材にした映画や小説ではあるまいし、そんなことがありえるはずはない。Ａさんに出会うまで、わたしは普通にそう思っていた。
Ａさんは四十代半ばの女性。今でも女優並みの美貌とプロポーションを維持している。若い頃はキャバクラ勤めで、幾度も月間指名数ナンバーワンを獲得したことがあるそうだ。いまだに独身。
話をしてみると、その端々から、かつての彼女の経済感覚や、男に対しての考え方がうかがえる。いわく、ハゲの社長に会社が傾くまで貢がせたことがあるだの。男からプレゼントされたバッグや服や靴だけで、数百万円はくだらないだの。全額、会社社長の御曹司持ちで、一か月のヨーロッパ旅行に出かけたことがあるだの。
「ちょっとは反省してるんだけどね」
Ａさんは今になって、その報いを受けているのだという。
当時、付き合っていた彼氏が、出先の歩道でとつぜん殴りかかってきた。それが異常な現象のはじまりだった。彼は倒れたＡさんに馬乗りになって、さらに危害を加えようとしてくる。さいわい周囲に人がいて、数人で彼を取り押さえてくれた。すると憑き物が落ちたように、男は「ごめん」と謝罪の言葉をくり返す。自分が何をしたのか、まったく覚えていないというのだ。なら、あの親の仇を見つけた時のような、あの怒りの表情はなんだったのか？
また、スリムな体型維持のために通いはじめたフィットネスクラブ。そのプールで男性インストラクターに泳ぎの指導を受けていた時のことだ。インストラクターがいきなり豹変して、Ａさんをプールに沈めようとしてきた。ふざけているのではない。ものすごい力で頭を押さえ込んでくる。
「何すんのよ！ 死んじゃうじゃん！」
なんとか危機を脱したＡさんは叫んだ。
「すみませんでした」
男性は正気に戻って呆然としている。
やはり何も覚えていなかった。
ふたりとも、本当に、誰かの怨みや憎しみが感染しているような振る舞いだったという。
「ていうか、ホントに誰かの怨みが感染してんのよ。たぶん、過去にわたしと付き合ったことがある男じゃない？ わたしに関わったおかげで、首吊った男もいるかもしれないし」
せめてそれが誰の怨みなのか、はっきりすれば、供養のしようもあるのだけれど。皮肉っぽく言ってＡさんは笑った。
Ａさんはいま、とある病院に入院している。史上、何人目かの彼氏である男のマンション。そのキッチンで、またしても男に襲いかかられることになったのだ。頭に叩きつけられたアルミ製の写真立て。頭皮を三針ほど縫う裂傷を負った。怪我はその程度で済んだのだが、ただ、そのあとが悪かった。血を見て逆上したＡさんは、手元にあった包丁を使って、その場で男をめった刺しにしてしまったのだ。
「いつまでも、やられっ放しじゃいられないわよ」
Ａさんはベッドの上で、らんらんと瞳を光らせている。
担当弁護士であるわたしは、彼女の言い分をよく理解し、法廷での戦略を決定しなければならないのだが。怨みが感染しただの、憎しみが乗り移っただのと、そんなバカげた主張が法廷で聞き入れられるはずはない。また精神鑑定を依頼するには、彼女の思考はあまりにも明晰すぎた。
「何度も殺されそうになってるのよ、正当防衛じゃないの！」
彼女は声を荒げて、そうも言った。
しかし本当にそうだろうか？ 素手で殴る、プールに沈める、写真立てを頭に叩きつける。それぞれ暴力行為ではあるものの、そこに殺意と呼べるほどの強烈な意志は感じ取れない気がするのだ。
そこでわたしはふと思った。かりに本当に誰かの怨みが、毎回、Ａさんの相手に感染していたのだとしよう。だとしたら、怨みの主の真の目的はこれだったのではないか？ Ａさんを殺すことではない。Ａさんに事件を起こさせる。そしてＡさんを刑務所に送り込む。それこそが怨みの主の真の復讐だったのではないだろうか？
自由奔放、思うがまま、誰に縛られることもなく生きてきたＡさん。彼女にとって、くまなく行動を制限される刑務所での生活は、それだけで地獄。一秒たりとも耐えられないものだろう。苦しくて苦しくてたまらないものであるだろう。Ａさんをその生き地獄に送り込める。復讐の主は、今頃あの世で高笑いしているだろうか？
いやいや。わたしはゆるく首を振る。憎しみや怨みが空中を流れて人の心に感染する？ 映画や小説じゃあるまいし、そんなことはありえないのだ。そうありえない。絶対にありえないはずだった。
なら、これはなんだ？ Ａさんが病室の床にうつ伏せになって倒れている。頭からゆっくり鮮血が流れ出している。床に何度も顔面から打ちつけられたのだろう。額が潰れて、床にめり込んだようになっている。彼女と二人きりの病室。彼女のほかにはわたししかいない。わたしは何も覚えていなかった。