三叉路
右頬に浮かんだ三日月型の黒い影。見覚えのあるアザだ
った。
駅前のさびれたビジネスホテルの二階の部屋が現場だった。ユニットバスルームの小便色した黄色い明かり。シャワーカーテンを吊るした芯棒に、赤いラメ生地の派手なネクタイが結ばれている。その輪に頭を突っ込んで、男は首を吊って死んでいた。赤く充血したくちびるの端から灰色の舌がのぞいている。カーキ色の上下のスウェット、そのズボンの股間が黒く濡れている。禿げ上がった頭頂部。黒カビみたいな無精ひげ。恰幅のいい、腹の突き出た中年の男だった。着衣の乱れ、暴力、抵抗、偽装の痕跡は見当たらない。
「自殺だよな」
バスルームを出て、柳が言った。
今日の夜勤のパートナー。俺と同期で階級は巡査。同じ私服のヒラ刑事だった。
「自殺だよな?」
イントネーションだけを変え、俺は柳の言葉をくり返した。
午前二時四十一分。通信指令センターからの一報を受け、俺たちは西署から、覆面パトカーで臨場していた。お互い三十過ぎ。深夜の出動に愚痴をこぼす時期は終わっている。淡々と事案を処理すればいいのだ。張り切るなんてのは論外だった。
派出所の制服警官が先着して、然るべき準備を整えてくれていた。
自殺。それが事実なら、わざわざ鑑識の手を煩わすことはないだろう。近所の町医者を叩き起こせばことは済む。しかしだ。そうとも言い切れない予感があった。
通報は、ホテルのフロント係からだった。定年退職後のアルバイトなのだろう。鶏ガラのようにガリガリに痩せた真っ白な髪の爺さんだった。
薄暗い廊下。擦り切れて色褪せた、えんじ色のカーペット。
自動販売機の明かりの前で、俺たちは彼に話を聞いた。
二時半頃、小太りの若い男が受け付けに怒鳴り込んできたのだという。
「いかつい顔の男でしたよ。夜中だってえのに、八〇二号室のカギを開けろって騒ぎましてね。どうやらデリヘル嬢の送迎をしている男らしいんですが。ウチの姉さんが客の部屋にいったまま戻ってこないって言うんですよ。そんなのねえ、わたしに言われても、知ったこっちゃないんですが」
年寄りのフロント係は、さも迷惑そうに、口をへの字にひん曲げた。
送迎係の怒声の断片から察するに、プレイの終了時間は午前二時。にもかかわらず女はホテルを出てこない。十分過ぎても、ニ十分過ぎても、時間延長の連絡もない。電話をしても誰も出ない。男は一度、部屋までいって、扉をノックして呼びかけてみた。それでもやはり反応はなかった。
『レイコ姉さんに何かあったら、テメエのせいだぞ』
そう凄まれて、仕方なくフロント係は、合いカギを持って部屋に向かった。
男が死んでいた。派遣されてきたデリヘル嬢、レイコの姿は消えていた。
警官が到着する前に、送迎係もとんずらしていた。
「ホテルの入り口で、そのレイコさんとやらを見ましたか?」
ボールペンと手帳をかまえて、俺は訊いた。
「ああ、見ましたよ。たぶんアレがそうだったんだな。トラブルがあるからホントはねえ、商売女を部屋に呼ぶのは禁止になってはいるんですが……。いちいちそのたびに騒いでいたらキリがないでしょ? 見て見ぬふりをしているんです」
言い訳がましく老人は言った。
「出ていくところは?」
「見てません。ちょっと奥に引っ込んで、テレビを見たりしてましたから」
「どんな感じの女性でした?」
「美人な奥さんでしたよ。ちょっと上品な感じのね。青っぽい花柄のワンピースだったかな。三十後半、四十は越えていないと思いますよ」
そんなに年増だったのか。
デリヘル嬢という言葉の響きから、勝手に二十代の若い女を連想していた。
「最近は熟女の専門店も多いんでしょ? 人気もあるんでしょうなあ。おばさんたちは、若い子とちがって、客の言うことなら、なんでもほいほい聞くようだから。あの女も澄ました顔して、そうだったみたいですよ」
白髪の爺さんは、しわびた口元を、意味あり気にニヤニヤさせた。
「何か心当たりでも」
「ええ、ええ。じつは、首吊ったあのお客さんがね、宿泊の受け付けをしながら、スマホでデリヘルに連絡してるのが聞こえたんですよ。いえいえ、盗み聞きじゃありません。お客さんの声が大きかったものですから」
『縛り、スカトロ、アナルセックスありのドスケベなババア』
それが男のリクエストだったそうだ。そんなマニアックなデリヘル嬢をコールしておいて、直後に首を吊るものだろうか? レイコが姿を消しているのも気になる。
「念のため鑑識も呼んでおこう」
「だな」
俺の提案に柳は頷いた。
部屋に戻った。扉の脇に立つ制服警官が敬礼を返す。
蛍光灯の寿命が近づいているのだろう。室内もまるで灰でも撒いたように薄暗い。ベッドに敷かれた白いシーツだけが妙に視界に鮮やかだった。ヘッドボードに置かれた飲みかけの缶ビールとスマートフォン。スティック付きのルームキー。片扉の開いたクローゼットには、脱ぎっ放しのワイシャツやスーツ、黒いツアーバッグが無造作に放り込んである。プレイの開始前だったようだ。
柳が白い手袋の両手で、ズボンのポケット、財布から、男の私物を抜き出していく。ハンカチ、数枚のクレジットカード、運転免許証、レシート、小銭、様々な店のサービスカード。
シーツに並んだそれらの中から、俺は免許証を手に取った。
「一九八〇年五月八日生まれ。鈴木孝則」
写真は本人だが、名前と生年月日がちがっている。精巧な偽造品。男がカタギである可能性は消えた。
じっくり偽物をチェックしていると、いきなり背後で扉が開いた。
毛羽立つような無線機の雑音が、室内の空気をかき乱す。
制服警官が青ざめた真顔で口をひらいた。
「報告です。本館北側、駐車場の植え込みそばで女性の変死体を発見。血を流して倒れているそうです」
エレベーターに乗り込んで、急いでホテルの裏手にまわる。
駐車場はフェンスに囲われ、四方のまばゆい照明の光で、昼間のように明るかった。ホテルの建物に添うように、常緑樹の低木が等間隔に植え込まれている。その奥の隙間。コンクリートの側溝の蓋に、女はうつ伏せに倒れていた。照明の死角。夜よりも暗い影に捕われ、青いワンピースはそよとも動かない。ただ全身から、赤い血の手が、這うように滲み出している。豊かに波打つ栗色の髪にも血潮はべっとりと絡み付いている。さいわい頭は割れていない。顔も潰れていなかった。見開いたままの右の瞳が、呆然と宙を見つめている。
「なるほどな」
ホテルを見上げて柳が言った。
視線のその先。手すりの付ついた非常階段が銀のジグザグを描いている。
「何があったかは知らないが、レイコはたぶん、客の鈴木にあそこから突き落とされたんだろう。我に返ったか。ビビった鈴木は首を吊ったというわけだ」
妥当な推理。だが真相はちがう。
「そうじゃない」
俺はきっぱりと言い切った。
「じゃあなんだ」
不満気に柳は俺を見た。
「二人とも自殺だ」
「何?」
「考えてみろよ。デリヘル嬢を部屋に呼んだら自分の妹がきたんだぜ。依頼を受けて部屋にいったら自分の兄貴がいたんだぜ。そりゃあ、互いに死にたくもなるさ」
しかもオプションは『縛り、スカトロ、アナルセックス』。
目も当てられない。
「二人は兄妹だったっていうのか?」
「そうだ」
「なぜわかる? DNA鑑定を……、ん? ああ、お前さんの知り合いか?」
「知り合いなんてもんじゃない。俺の兄貴と姉ちゃんだ」
事故で死んだ親父とおふくろの三回忌以来、十数年ぶりの再会だった。
子供の頃から聡明で、一流大学を卒業後、一流企業に就職していたはずの兄。
美人でスタイル抜群で、若いときにはアイドルとして芸能活動もしていた姉。
伺い知れない年月の闇。
湿った風が吹き抜けていく。
星も月もない夜だった。