第18回 文藝マガジン文戯杯「Junction」
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三叉路
投稿時刻 : 2022.01.17 12:07 最終更新 : 2022.02.08 00:49
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三叉路
山葉大士


 右頬に浮かんだ三日月型の黒い影。見覚えのあるアザだた。
 駅前のさびれたビジネスホテルの二階の部屋が現場だた。ユニトバスルームの小便色した黄色い明かり。シワーカーテンを吊るした芯棒に、赤いラメ生地の派手なネクタイが結ばれている。その輪に頭を突込んで、男は首を吊て死んでいた。赤く充血したくちびるの端から灰色の舌がのぞいている。カーキ色の上下のスウト、そのズボンの股間が黒く濡れている。禿げ上がた頭頂部。黒カビみたいな無精ひげ。恰幅のいい、腹の突き出た中年の男だた。
 着衣の乱れ、暴力、抵抗、偽装の痕跡は見当たらない。
「自殺だよな」
 バスルームを出て、柳が言た。
 今日の夜勤のパートナー。俺と同期で階級は巡査。同じ私服のヒラ刑事だた。
「自殺だよな?」
 イントネーンだけを変え、俺は柳の言葉をくり返した。
 午前二時四十一分。通信指令センターからの一報を受け、俺たちは西署から、覆面パトカーで臨場していた。お互い三十過ぎ。深夜の出動に愚痴をこぼす時期は終わている。淡々と事案を処理すればいいのだ。張り切るなんてのは論外だた。
 派出所の制服警官が先着して、然るべき準備を整えてくれていた。
 自殺。それが事実なら、わざわざ鑑識の手を煩わすことはないだろう。近所の町医者を叩き起こせばことは済む。しかしだ。そうとも言い切れない予感があた。
 通報は、ホテルのフロント係からだた。定年退職後のアルバイトなのだろう。鶏ガラのようにガリガリに痩せた真白な髪の爺さんだた。
 薄暗い廊下。擦り切れて色褪せた、えんじ色のカート。
 自動販売機の明かりの前で、俺たちは彼に話を聞いた。
 二時半頃、小太りの若い男が受け付けに怒鳴り込んできたのだという。
「いかつい顔の男でしたよ。夜中だてえのに、八〇二号室のカギを開けろて騒ぎましてね。どうやらデリヘル嬢の送迎をしている男らしいんですが。ウチの姉さんが客の部屋にいたまま戻てこないて言うんですよ。そんなのねえ、わたしに言われても、知たこないんですが」
 年寄りのフロント係は、さも迷惑そうに、口をへの字にひん曲げた。
 送迎係の怒声の断片から察するに、プレイの終了時間は午前二時。にもかかわらず女はホテルを出てこない。十分過ぎても、ニ十分過ぎても、時間延長の連絡もない。電話をしても誰も出ない。男は一度、部屋までいて、扉をノクして呼びかけてみた。それでもやはり反応はなかた。
『レイコ姉さんに何かあたら、テメエのせいだぞ』
 そう凄まれて、仕方なくフロント係は、合いカギを持て部屋に向かた。
 男が死んでいた。派遣されてきたデリヘル嬢、レイコの姿は消えていた。
 警官が到着する前に、送迎係もとんずらしていた。
「ホテルの入り口で、そのレイコさんとやらを見ましたか?」
 ボールペンと手帳をかまえて、俺は訊いた。
「ああ、見ましたよ。たぶんアレがそうだたんだな。トラブルがあるからホントはねえ、商売女を部屋に呼ぶのは禁止になてはいるんですが……。いちいちそのたびに騒いでいたらキリがないでし? 見て見ぬふりをしているんです」
 言い訳がましく老人は言た。
「出ていくところは?」
「見てません。ちと奥に引込んで、テレビを見たりしてましたから」
「どんな感じの女性でした?」
「美人な奥さんでしたよ。ちと上品な感じのね。青ぽい花柄のワンピースだたかな。三十後半、四十は越えていないと思いますよ」
 そんなに年増だたのか。
 デリヘル嬢という言葉の響きから、勝手に二十代の若い女を連想していた。
「最近は熟女の専門店も多いんでし? 人気もあるんでしうなあ。おばさんたちは、若い子とちがて、客の言うことなら、なんでもほいほい聞くようだから。あの女も澄ました顔して、そうだたみたいですよ」
 白髪の爺さんは、しわびた口元を、意味あり気にニヤニヤさせた。
「何か心当たりでも」
「ええ、ええ。じつは、首吊たあのお客さんがね、宿泊の受け付けをしながら、スマホでデリヘルに連絡してるのが聞こえたんですよ。いえいえ、盗み聞きじありません。お客さんの声が大きかたものですから」
『縛り、スカトロ、アナルセクスありのドスケベなババア』
 それが男のリクエストだたそうだ。そんなマニアクなデリヘル嬢をコールしておいて、直後に首を吊るものだろうか? レイコが姿を消しているのも気になる。
「念のため鑑識も呼んでおこう」
「だな」
 俺の提案に柳は頷いた。

 部屋に戻た。扉の脇に立つ制服警官が敬礼を返す。
 蛍光灯の寿命が近づいているのだろう。室内もまるで灰でも撒いたように薄暗い。ベドに敷かれた白いシーツだけが妙に視界に鮮やかだた。ヘドボードに置かれた飲みかけの缶ビールとスマートフン。ステク付きのルームキー。片扉の開いたクロートには、脱ぎ放しのワイシツやスーツ、黒いツアーグが無造作に放り込んである。プレイの開始前だたようだ。
 柳が白い手袋の両手で、ズボンのポケト、財布から、男の私物を抜き出していく。ハンカチ、数枚のクレジトカード、運転免許証、レシート、小銭、様々な店のサービスカード。
 シーツに並んだそれらの中から、俺は免許証を手に取た。
「一九八〇年五月八日生まれ。鈴木孝則」
 写真は本人だが、名前と生年月日がちがている。精巧な偽造品。男がカタギである可能性は消えた。
 じくり偽物をチクしていると、いきなり背後で扉が開いた。
 毛羽立つような無線機の雑音が、室内の空気をかき乱す。
 制服警官が青ざめた真顔で口をひらいた。
「報告です。本館北側、駐車場の植え込みそばで女性の変死体を発見。血を流して倒れているそうです」

 エレベーターに乗り込んで、急いでホテルの裏手にまわる。
 駐車場はフンスに囲われ、四方のまばゆい照明の光で、昼間のように明るかた。ホテルの建物に添うように、常緑樹の低木が等間隔に植え込まれている。その奥の隙間。コンクリートの側溝の蓋に、女はうつ伏せに倒れていた。照明の死角。夜よりも暗い影に捕われ、青いワンピースはそよとも動かない。ただ全身から、赤い血の手が、這うように滲み出している。豊かに波打つ栗色の髪にも血潮はべとりと絡み付いている。さいわい頭は割れていない。顔も潰れていなかた。見開いたままの右の瞳が、呆然と宙を見つめている。
「なるほどな」
 ホテルを見上げて柳が言た。
 視線のその先。手すりの付ついた非常階段が銀のジグザグを描いている。
「何があたかは知らないが、レイコはたぶん、客の鈴木にあそこから突き落とされたんだろう。我に返たか。ビビた鈴木は首を吊たというわけだ」
 妥当な推理。だが真相はちがう。
「そうじない」
 俺はきぱりと言い切た。
「じあなんだ」
 不満気に柳は俺を見た。
「二人とも自殺だ」
「何?」
「考えてみろよ。デリヘル嬢を部屋に呼んだら自分の妹がきたんだぜ。依頼を受けて部屋にいたら自分の兄貴がいたんだぜ。そりあ、互いに死にたくもなるさ」
 しかもオプシンは『縛り、スカトロ、アナルセクス』。
 目も当てられない。
「二人は兄妹だていうのか?」
「そうだ」
「なぜわかる? DNA鑑定を……、ん? ああ、お前さんの知り合いか?」
「知り合いなんてもんじない。俺の兄貴と姉ちんだ」

 事故で死んだ親父とおふくろの三回忌以来、十数年ぶりの再会だた。
 子供の頃から聡明で、一流大学を卒業後、一流企業に就職していたはずの兄。
 美人でスタイル抜群で、若いときにはアイドルとして芸能活動もしていた姉。
 伺い知れない年月の闇。
 湿た風が吹き抜けていく。
 星も月もない夜だた。
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