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第21回 文藝マガジン文戯杯「Illuminations」
もう多摩川を渡らない
(
hato_hato
)
投稿時刻 : 2022.11.04 04:06
最終更新 : 2022.11.04 05:55
字数 : 47560
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2022/11/04 05:55:49
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2022/11/04 04:06:07
もう多摩川を渡らない
hato_hato
京急電車が多摩川を渡り、川崎駅に着いた。
席に座
っ
ていた俺は、息をついた。
窓から刺す五月の陽射しはまぶしか
っ
た。
もう、多摩川を渡
っ
て仕事へ行くこともないだろう。
なにかが、終わ
っ
た感じがした。
いや、はじまりだ
っ
たのかもしれない。
今日は、十年勤めた会社の最終出勤日だ
っ
た。
最終出勤日と言
っ
ても、前日までに庶務的な手続きはすませていたので、荷物を取りに行くだけだ
っ
た。
荷物も何冊かの本とお気に入りの文房具ぐらいだ
っ
た。
送別会を開きたいと言われていたが、そういう気分ではないので、つつしんでお断りした。
会社を退職した理由は、十年勤務だと割増退職金のリストラをはじめたからだ。
数年前から有報を見ていると勘定科目のつけかえなどが行われていて、これはもう長くないなと思い、条件のいいうちに辞めて、次のことを考えた方がいいと思
っ
たからだ。
上長に、その旨を伝えたのは一
ヶ
月前だ
っ
た。
上長は、すぐに人事へ話をつけてくれた。
どうも、内部的には各部、リストラする人数のノルマがあるらしか
っ
たようで、俺のいた部からは誰も挙手しないので困
っ
ていたらしい。
それも賞与支給前までに人を減らしたか
っ
たらしい。
その後、お決まりの有休消化。
そして、今日の最終出勤だ。
そのような状況で十年も在籍していた企業だから、何回も送別会には呼ばれていた。
それを、自分もそれをやられるのがイヤだ
っ
た。
辞めるのを肴にしての愚痴大会の宴会なんて、こりごりだ。
川崎を過ぎ、俺の降りる駅に京急がついた。
ここで降り、タクシー
乗り場に向か
っ
た。
タクシー
乗り場前のター
ミナルビルにはイルミネー
シ
ョ
ンが光
っ
ていた。もう、冬かと思
っ
た。よく考えれば、そのとおりだ割増退職金と言うのももうすぐ支給予定の冬の賞与を込みで見た目をよくしたものだ
っ
たのだから。
両手に荷物を抱えていたので、自宅のアパー
トまで、タクシー
に乗ることにした。
「団地の付近まで」と運転手に言うと、返事があり、すんなり発車した。
途中、道案内をしつつ、アパー
トについた。
冷蔵庫からミネラルウ
ォ
ー
ター
を出し、一口飲んだ。
さて、明日からどうするか?
次の転職先は決めていなか
っ
た。
本来は、もう若くないし、転職先を決めないで退職するのは無謀だが、もう社内のムー
ドが落ち着いていなくて、そういう雰囲気でもなか
っ
た
だから、退職のほうが先にな
っ
た。
両親へはもう話をしてある。
父親は株式投資をや
っ
ていたので、勤務先のIR情報を見て、俺より、よ
っ
ぽど勤務先のことを把握していた。
父親からはよく心配されていた。
だから、反対はないどころか、いまの年齢ならやり直しがきくと賛成だ
っ
た。
そう言えば、社外には会社を辞めたことを伝えていなか
っ
たのを思い出した。
Macの電源をつけて、SNSを開いた。
なにを書くか、ま
っ
たく考えていなか
っ
たので、思いつかなか
っ
た。
しかたがないので、率直なことを書いた。
「私は、今日で会社を退職しました。次は決ま
っ
ていません。勤務中、お世話にな
っ
た方には会社の事情でご挨拶もできず申し訳ありませんでした。明日からは浪人生活です。実家にでも帰ろうと思います」
書いた一時間後には、コメントがいくつか書き込まれていた。
「お疲れ様です。長い間、よくがんば
っ
たな」
「状況は聞いています。いい判断だ
っ
たと思う」
「うちに仕事を手伝いに来ない?」
「そのうち、飲みまし
ょ
う!」
それらに返事をしているうちに食事の時間にな
っ
た。
クロ
ッ
クスを履いて、近所のラー
メン屋へ出かけた。
大将が「いら
っ
し
ゃ
い! 今日は早いね」
俺は、「ま
ぁ
、いろいろとね。いつものお願い」
「あいよ」
大将は麺を茹ではじめた。
いつものは、横浜風タンタン麺のニンニク入りだ。
学生時代から、この店に通
っ
ている。
大学がこの近所にあり、上京した時から越していない。
都内に住むことも考えて、物件を見たが、あまり環境が変わらないので、越すことがなか
っ
た。
タンタン麺が出てきた。
今は食べて、元気を出そう。
ニンニクの入りのタンタン麺は元気の源。
その後にいろいろなことは考えればいい。
タンタン麺を食べ終え、アパー
トへ帰ると、ドアの前で彼女のユキが立
っ
ていた。
ユキの身長はそんなに高くなく、スリムで胸が小さいことを気にしている子だ。
髪はシ
ュ
ー
トより長いが、肩までかかるほどではない。
家は都内にある。
どうも機嫌が悪いようだ。
「ち
ょ
っ
と、今日、最終日でし
ょ
?」
「うん」
「わたしに挨拶ぐらい、いいんじ
ゃ
ない」
そう言えば、電話もしていなか
っ
た。
「悪い」
「明日は私と付き合
っ
て。今日は泊ま
っ
ていくから」
ユキの瞳は猫のようだ。
起こ
っ
ているときはわかりやすい。
でも、喜んでいるときもまたわかりやすい。
今はご機嫌が斜めだ。
「はい」
#2
俺は寝ていたが、窓からの陽射しが差し掃除機の音がうるさく、目がさめてしま
っ
た。
ユキが「そろそろ、起きなさい。先方には昼頃に行く
っ
て言
っ
てあるから」
ああ、そう言えば、昨夜、今日はユキが私に付き合えと言
っ
ていたことを思い出した。
ユキは、ワー
ドロー
ブから、ち
ゃ
んと襟のついたYシ
ャ
ツとジ
ャ
ケ
ッ
トを取り出した。
「それを着て。朝ご飯はテー
ブルの上にあるから」
今朝のユキは怒
っ
ていないようだ
っ
た。
いつものユキだ。
トー
ストとスクランブルエ
ッ
グとコー
ヒー
があ
っ
た。
俺は、それを食べた。
時計を見ると九時を回
っ
ていた。
平日にこんなにゆ
っ
くり寝たのも久々だ。
着替えないでいると、ユキが着替えてと言
っ
てきた。
俺は、渋々着替えた。
でも、俺の疑問はま
っ
たく解決していなか
っ
た。口にした。
「で、俺はどこに連れて行かれるんだ?」
「区役所の近くの医療事務の専門学校で週四コマを担当する講師を探しているから、それの面接」
俺は、会社を辞めて、のんびりする気でいたから、反対した。
すると、「友達もいないあんたが、仕事もしなか
っ
たら、社会とのつながりがなくなるでし
ょ
。あたしだ
っ
て、し
ょ
っ
ち
ゅ
う相手できないんだから」
それは言えている。
「だから、とりあえずやりなさい。期限もまだ決ま
っ
ていないんだから」
それから、Macを開き、日経電子版を見た。人事欄もオプシ
ョ
ンで購読しているので、取引先の異動情報が出てきたが、もう関係ないことだ。
すると、ユキが「行くわよ。タクシー
は呼んだから」
そこの場所は俺をなんとなく知
っ
ていた。
休日には散歩していた。
最寄りのバス停からのバスはなく、歩くと結構めんどうだ
っ
た。
俺は、あわてて、靴を履いて、玄関の鍵をしめ、出た。
タクシー
に乗ると、ユキが、「私の学生時代の友達が講師をや
っ
ている学校だから、面接と言
っ
ても形だけ」
「ああ、俺は面接
っ
て奴が苦手だから助かる」
「書類は私が作
っ
て、送
っ
ておいたから」
おいおい、いつの間にと思
っ
たが。
「着いたわ」
たまに散歩する時に見かけるビルだ
っ
た。
通うとな
っ
たら歩けば健康にいいかなと思
っ
た。
ユキはタクシー
料金を払い、タクシー
を降り、どしどし進んでいく。
受付で内線電話をすると、ユキと同じくらい年齢の女性が出てきた。
「はじめまして、大野です。ユキから話は聞いています。まずは、応接でお話を」
「行くわよ」
俺は「はい」と答えた。
応接には、校是と思われるものが額に飾
っ
てあ
っ
たぐらいでシンプルな部屋だ
っ
た。
大野が、「上にはもう話は通してありまして、できたら来週から来て欲しいのですが、可能でし
ょ
うか?」
事情が気にな
っ
たので、訊いてみた。
「PC実習の前任の講師が交通事故で足を骨折して、それで、講義ができなくなりまして。もう、シラパスやテキストとかはできています。実習への対応、レクチ
ャ
ー
が中心になります。講義はとりあえずテキストの通りに進めていただければと思います」
ユキが「はい、大丈夫です」
それは、俺が言うことだろうかと思
っ
たが、どうも大野とは会
っ
たことがある気がする。
「あの、大野さん、前にお会いしたことありませんか?」
大野は笑みを浮かべて、「デ
ィ
ズニー
ランドへダブルデー
トで行
っ
たのを覚えていませんか?」
思い出した。まだ新卒二年目ぐらいでユキとも付き合いはじめたばかりの頃だ。
「ま
ぁ
、そんなわけで、人となりも知
っ
ておりますので、あとは契約書へサインしていただいて、来週から来ていただければ」
俺も、ま
ぁ
なにもしないよりはいいだろうと思い、「では、お引き受けします。できたら教室とかも今日、見たいのですが」
「はい、案内します」
連れて行かれたところは、大学時代の情報処理の演習の部屋みたいな感じだ
っ
た。ただ、壁紙は女子学生が多いせいか、パステル調だ
っ
た。
使われているPCは一世代前のものだが、問題ないと感じた。
大野が、「ち
ょ
っ
とログインして、環境をお見せします」と言い、一台のPCを起動した。
「では、ち
ょ
っ
と触
っ
ていただければ」
うん、会社で使
っ
ていたのとほぼ変わりない。
正直に、「これなら会社で使
っ
ていたのと同じで、すぐに講義をできると思います」
「よろしくお願いいたします」
ユキが「こちらこそ、お願いいたします」
そう言うと大野が、なにかユキに耳打ちした、なんとなく聞こえたが「がんば
っ
てね!」と。
なんのことだと思
っ
た。
ま
ぁ
、とりあえず糊口をしのげる。しかし、二コマの講義を週二日。もうち