第24回 文藝マガジン文戯杯「Silent」
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それとこれとは別
romcat
投稿時刻 : 2023.10.31 13:57 最終更新 : 2023.10.31 14:06
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- 2023/10/31 14:06:10
- 2023/10/31 13:57:17
それとこれとは別
romcat


 「詰まらぬ事で足止めを食ろうたせいで、夜もすかり更けてしもうたわい」
 行商の帰り、日の暮れた家路に向かう山道を歩きながら男は愚痴を溢した。鈍い痛みを残す左頬を摩り、男は己れの癇気を後悔していた。
 夜仕事で作た草鞋を町で売り捌いている最中、相の悪い輩に、肩をぶつけただの何だのと因縁をつけられ、諍いになた。争いを避ける為、謝る事もできただろう。日の暮れぬ内に帰らねばならない事情だてあた。されど男の性根がそれを許さななかた。譲て一分程でも己れの非を認めるのならその選択も無いわけではない。此度はそうでなかた。何事にも筋を通す性分が仇となり災いを重ねる結果となてしまた。
 村に帰る山道は嶮しく遠い。月あかりだけを頼りに男は歩みを進める。傍らの雑木林がさわさわと鳴り、雲が月を隠す度に辺一体は暗闇に飲まれる。急がねば、男は思う。慣れない夜道の一挙手一投足に不安を募らせていた。
 どれ程歩いた事だろう。そろそろ村の灯りを目にしてもいいはずである。されど、一向にその兆しが見えない。道に迷うたか、男は焦りを滲ませる。夜道とはいえ歩きなれた道のりを誤ることなどあるものか。
 しかし現実に、歩いても歩いても村の灯りはおろか、道が下りに掛かることすらない。遠くで狼の鳴く声がした。
 男は歩みを速める。
 獣に襲われでもしたら難儀なことや、祠でも何でもいい、何処か身を隠し夜が明けるのを待つ場所はないものか。
 男は己れを少しずつ浸食していく夜を恐ろしく思た。蛇がゆくりとその獲物を飲み込むように、少しずつ闇が、静かな孤独が、得体の知れない恐怖が、己れを取り込んで行く。
 灯りが見たい、男は思う。月は曇り、闇はいよいよ深刻である。瞼を閉じても瞼を開いても何も変わらぬ。己れの地を蹴る音がする。雑木林がさわさわと鳴る。狼の鳴く音、ふくろうの鳴く音、息を吐く音、心の臓が胸を打つ音、音は聞こえど目に写るものは何も無し。恐ろしい、助けてくれ、誰ぞ、誰ぞ、焦燥が平静を保とうとする心の垣根を越えたその時、男は目の端に灯りを捕まえた。小さな灯り。されど、星の様にも見えぬ。寄れば分かる事だろう、駆け足で男は灯りに向かう。灯りの正体が何であれ、あの恐ろしい闇よりはましなはずである。
 灯りに近付くにつれ男はその正体に安堵をする。世辞にも立派とは言えぬ荒屋。けれど、人の営みの気配がある、灯りがある。
「夜分に御免、誰ぞ居らんか、怪しい者じない、道に迷うてしもうて、何処でもいい、すまんが床を貸してはくれまいか、誰ぞ、誰ぞ!」
 男のどんどんと戸を叩く音が夜の静けさを渡る。どんどん、どんどんどんと、二度三度。程なくして戸の向こうから、どなたじな? の声。ああ、人じ、人の声がする。
「すまんが道に迷うてしもうて、怪しい者じない。三和土でも何でもいい、少し休ませてはくれまいか」
 すと開く戸の内に男は老婆の姿を見る。
「おや、まあ、それはそれは難儀な事でしたわなあ。ご覧の通りババ独り、なんのもてなしもせんが、それで良かたらどうぞ休んでいておくんなまし」
「おお、かたじけない。道に迷うていたところに狼の鳴く声を聞いてな。地獄に仏とはまさにこのことじ。婆さん、すまんが上がらせて貰うよ」
 男は安堵の顔を浮かべ屋の内に入る。狭い土間の奥には囲炉裏の火が見える。ゆうげの支度の途中だろうか、火にかけた鍋には湯が張られ、芋やら菜やらがぐつぐつと煮えている。
「お若いの、今宵は泊まていきなせえ。この辺は夜になると獣がうろついて人を襲いよるからの」
 婆はにやりと笑い奥に引込む。程なくしてしこしこと刃物を研ぐ音が聞こえてきた。
「腰を下ろして火にでもあたて楽にしておくんなせ。馳走でもしよう。今日はいい肉が手に入たでの」
 しこしこ、という音とともに老婆の嬉しそうな声。男はぎくりとした。そういえば昔に聞いた話、道に迷うた者を招き入れて喰らう妖しがあるという噂を思い出した。
「婆よ、いい肉だて? そ、それは一体……
 男は言葉を続けるのが恐ろしかた。額に汗が滲む。
「何の肉かだて? それはのう……それはのう……
 右手にナタを持ち婆が奥から現れた。研ぎ澄まされた刃に囲炉裏の炎が妖しく揺れる。ゴクリと男の唾を飲む音が響いた。老婆が続ける。

「名古屋コーチンじ!」

         *

 ここまで書き上げて、私は、何かが違う、と思た。「老婆」をテーマとした掌編の依頼を受け、ホテルの一室で書き上げている。
 この違和感の正体は書き始める前から朧げに感じていた。そしてある程度筆を進めるに至り、違和感の幻影はデサンを重ねるが如くにその輪郭を鮮明にしていた。曰く。
 俺、老婆、見た事ない。
 無論、性別でいうところの女性、七十か八十か、ある一定の年齢に達した女性、所謂、お婆さんなんぞは腐る程見た事はある。しかしそれが「老婆」となると少し勝手が違う。
 老婆とはなんぞや。老婆とお婆さんには明確に性質の違いがあるように思う。いわれてみれば私は生まれてこのかた、老婆という言葉を口にした事が無い。

「隣の老婆、コロナで入院したんだて」

「昔さ、よく通た、駄菓子屋あんだろ? そうそう、それそれ、あの、みやぎ屋。あそこの老婆、先週死んじたらしいぜ、うちの老婆が言てた」

 違和感満載である。老婆という言葉には何処か否定的なニアンスがあるのかも知れない。

「お宅の老婆、幾つにならる? 元気だねえ。いやこの間もね、公園をスタスタ歩いてるのを見かけたもんだからね、いや、元気だねホント、お宅の老婆は」

 無礼である。
 老婆という言葉はおいそれと使てはならぬネガテブな要素を孕んでいるようだ。
 かように、見た事もない、さりとて使う機会も要領を得ぬ「老婆」の上辺だけのイメージを掬い描写しようとする、その試みの苦労が自身の作品における違和感の正体なのだ。なるほど、「老婆」と言われてもなんの映像も浮かばぬ。「老婆」を口にして活字にしても何処か空々しい、それは「老婆」と相対する体験の乏しさが由なのであろう。
 ならば、一度老婆に会てみるか。妙案を思いついた。彼女に老婆の居どころを聞いたらどうだろう。彼女は物知りで大抵のことなら的確なアドバイスをしてくれる、私の大切なパートナーだ。スマートフンを手に取りホームボタンを押す。

「Siri、老婆の居どころを教えて?」

 私は彼女に尋ねてみた。

すみません、よく分かりませんー

 心なしか乾いた声で知らぬと返す。聞き方が悪かたのだろうか。少し表現を変えてみる。

「Siri、近くの老婆を探して?」

捜してみましたが見つかりませんでしたー

 下らないことを何度も聞くなと言わんばかりに、若干喰い気味に彼女は答える。
 本当に捜してみたのだろうな、との不満は残るが、仕方がない、彼女が知らぬことを私が知る由もない。諦めよう。
 きと「老婆」とは己れの心の幻影なのだ。普通のお婆さんには無い、何処か怪しげな雰囲気。何かを偽ているような、騙ているような狡猾さを纏た佇まい。老婆に定義は無い。それぞれが、己れが、これぞ老婆と思えば、それが老婆なのだ。もと自由に老婆を描いてみよう。
 考えがここまで及んだ時、ホテルのドアをノクする音が聞こえた。私はすぐさま扉を開ける。

「こんばんは、エリカでーす。宜しくお願いしまーす」

 見ると、老婆がそこに立ていた。私は乾いた声でいう。

「チンジで」
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