ハロウィン小景
十月も半ばを過ぎたある日のことである。
午前中のクラスを終えた僕はダイニングコモンズでタコスやグアバジ
ュースの昼食をとり、そのまま寮には戻らずにキャンパスを出た。4thストリートを左に曲がりダウンタウンに向かって歩いていると、街路樹を駆けあがっていくリスが見えた。リスは日本のそれより大ぶりで木も通年葉を落とさないヤシの類いである。それらはこの地の温暖な気候を象徴しているようではあるが、五月でも十月でも似たような陽気で季節の移ろいが希薄である。僕はまだそれに慣れていない。
左手にセブンイレブンを見ながら数分歩くと、そこはもうダウンタウンの入り口で、バンクオブアメリカのサンノゼ支店が見える。レンガ積みの外壁に二基のキャッシュディスペンサーが備え付けられているが、僕はそれに目をくれずに入店した。
預金を引き出すための用紙に必要事項を記入し、順番を待つベンチに座る。そこで思わず目を見張った。窓口業務の女子行員たちがロックバンドKISSのようなメイクをしているのである。ハロウィンの時期であることは知っていたが、仕事中のテラーが仮装しているなんて。
左端のテラーさんから番号を呼ばれ、カウンターへ向かう。彼女はこの地で人気の高いロックシンガー、リンダロンシュタットに似ている。僕がキャッシュディスペンサーを使わない理由もそこにあるが、今日の彼女はリンダには似ていない。
「ハッピーハロウィン。メイク、素敵ですね」
おずおずと話しかけてみる。
「ありがとう」
彼女はにっこりと微笑んで返してくれた。
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「ねえ、せっかくパーティにお呼ばれしたのだから、ケイスケもメイクしてみたら?」
「メイク? ナマハゲみたいになる気がする」
「アハハ、ナマハゲでいいじゃない。悪霊も逃げると思うわ。あたしがやってあげるから手鏡を持ってここに座ってみて」
ラウンジのソファーで僕はメイクを施される。人生初の経験である。
サチは僕より早くこの地に来た日本人留学生で、同じ寮に住んでいる。現地のことをろくに調べずに来た僕は、当初、男子学生と女子学生が同じ寮で暮らすことに驚いた。けれど今では数人いる日本人学生の中で、サチが最も気の置けない存在になっている。でも色恋沙汰に発展する兆しは見えない。
サチは奔放で複数のネイティブの男子学生と身体の関係を持っていた。彼女の実家は中央線の快速が停まる駅に近い開業医である。あの路線を走る電車のように速く生きる彼女を僕は好ましく感じていた。
§
場末のおかまバーのママのようになった僕はサチとパーティ会場に向かう。行き交う人々の視線は大して気にならない。ハロウィンなのだからいいではないか。途中、セブンイレブンで缶のハイニケンとバドワイザーを半ダースずつとドリトスのサワークリームフレイバーふた袋を買った。
パーティ会場のオフキャンパスホールに着いた。エントランス横に鎮座したジャックオーランタンの頬をひと撫でしてから階段を上がり広間に入ると、真っ先に目を引いたのは古代ギリシャ人に扮した男子学生だった。白い布を身体に巻いて足元はサンダル履きである。しかし他の仮装者との圧倒的な違いは頸に太いニシキヘビを巻き付けていること。
「そのヘビ、人を咬んだりはしない?」
「安心してほしい。こいつはおとなしいんだ」
「なぜ古代ギリシャと大蛇なの?」
「家系がギリシャ系なんだ。ヘビはペットだから連れてきた。僕はニコラス。きみは? どこから来たの?」
「ケイスケ。日本から来てロイスホールに寄宿している」
「ああ、キャンパス内の寮だね。専攻は?」
「まだ正規の学生じゃないんだ。学期末のTOEFLをクリアすると、次の学期からレギュラーになれるんだ」
サチが壁際に寄せられたテーブルから紙皿に何かを盛って戻ってきた。
「パンプキンシードよ。ローストしたカボチャの種なの」
「ああ、ハロウィン用のスナック菓子か。セブンイレブンで売っているヒマワリの種よりデカいね」
ニコラスにサチを紹介し、僕はハイニケンのプルタブを開いた。パンプキンシ―ドはナッツ類のような香ばしい風味である。
「あら、あなたはケイスケ? ナイスなゾンビメイクね。どこのお墓から這い出てきたの?」
とんがり帽子を被り、踝丈の黒いマントを羽織った女子学生が悪戯っぽい笑顔で話しかけてきた。日本の墓ではないことは確かである。何故なら土葬は禁止されているから。と心の内で言ってみる。
「キャシー、君も性悪な魔女そのものだね。どうか僕を呪わないでくれよな」
§
キャシーはロイスホールの僕の部屋と廊下をはさんだ向かいの部屋の住人である。
この地に来て間もない頃、何かの用事で彼女の部屋をノックしたことがあった。
「カムイン」
ドアを開けると、キャシーは僕に背を向けてベッドに座っていた。オレンジ色の髪をポニーテールに結う彼女の上半身は白いブラジャーを着けただけだった。肩から背にかけてソバカスが点々と散っている。僕はドギマギして一言二言何か言ったが部屋には入らずにドアを閉めてしまった。
それ以来、僕は弦の錆びたアコースティックギターでサイモン&ガーファンクルの「キャシーの歌」を練習するようになった。
§
ニコラスが運転するフォード・ピントはハイウエイ101を北上してサンフランシスコへ向かっている。ピントは最も廉価なメイドインUSAで故障が多発するクルマと知られている。助手席にはサチ、後部座席には僕とキャシーが座っている。
ハロウィンパーティで意気投合した僕らは、次の週末にサンフランシスコへシーフードを食べに行く約束をし、レンタカーを借りたのである。
カーラジオからマイケルジャクソンの「スリラー」が流れている。あのゾンビたちが踊る映像がアタマに浮かんでくる。
左手に湾を望みながらピントは走る。都会に近づいたのに海は青く、そこが東京湾とは違う。
空港の滑走路を離発着する飛行機が見えてきた。ここまで来ればもうすぐサンフランシスコ市街である。
市街地に入ると、カレンダーや絵葉書でよく見る一輛しかない路面電車が坂道をゆっくりと登ってゆく。
かつては漁港であった有名な観光地「フィッシャーマンズワーフ」に着き、ニコラスはピントを駐車場に停める。車外に出ると海風が強く吹いていて潮の香があたりにただよっている。
§
僕たちは桟橋沿いのシーフードレストランに入店する。この店のジャックオーランタンは巨大と云える大きさで、それは母方の祖母の家で見た火鉢のようであった。こんなに大きなカボチャを何処で収穫したのだろうと不思議な気分になる。
窓際のテーブルに座るとすぐにウエイトレスが注文を取りに来た。この時期の名物料理は生牡蠣で、白ワインのボトルと共に注文する。
アメリカで海産物を生食するなんて大丈夫なのか? と心配する気分も生じたが、運ばれてきた牡蛎は新鮮で肝の部分がうっすらと青かった。僕は十代の頃からの友人が好きだったブルーオイスターカルトというバンドのことを思い出した。「ブルー」は「新鮮」のメタファーなのかもしれない。などと連想しながら窓に目をやると、遠景のゴールデンゲー