橋占
新町を出たもののまだ帰る気になれず、総太郎は銅八を供にぶらぶらと四ツ橋へ向か
った。
四ツ橋とは長堀川と西横堀川の合流地点に掛けられた四本の橋で、大坂の名所の一つである。
まだ空は明るさを残しているが、軒行灯にはちらほら火が入れられている。宵の口の、浮き立つようなざわめきが、辺りに漂っているようだ。
「裏通りの見世の妓にしては、まったりと上品な顔立ちでしたなぁ」
さっきの茄子紺の遊女に後ろ髪を引かれていると思っているのか、聞こえよがしにしみじみと呟く銅八であったが、総太郎は返事をしなかった。
そんな女の事はもうどうでもよかった。懐が寂しいのにさっさと帰らないのは、単に――帰りづらいからだ。
当てもなく、西に掛かる吉野屋橋に足を踏み入れたとき、
「そこなお人。迷っておられるな」
と、声が掛けられた。
肩越しに振り返ると、ぼろぼろの菅笠を被り、薄汚れた単衣の着流しの男が立っている。左手に吹流しの旗を持っていることから、占卜者の類であろうか。
「迷う?」
総太郎は男へ向き直りながら鼻で笑った。
「迷ってなんかあらへん。迷う選択肢すら与えられてへんわ」
「迷う選択肢もない、とは仰々しい事だ」
笑みを含んだような声に、総太郎はかっとなった。
「なんやと?」
「旦那はん、こんなんいちいち相手にしせんでもよろし。行きまひょ」
袂を掴みながら銅八が止める横を、二人連れの若い娘がちらりと目を走らせる。が、すぐに自分たちの会話に戻った。
「ずっと待ってはったんやて」
「ほんまにぃ。でも良かったやんか」
娘たちが通り過ぎるのを待って、総太郎は腕を組みながら占卜者に向き直る。
「あんさんに何が分かるねん。適当な言葉並べてお足を払わせようと思てるだけやろ」
男は菅笠を片手で上げながら総太郎に向き直った。思ったより若く、三十歳を過ぎた辺りか。切れ長の細い目が射抜くように総太郎を見つめ、おもむろに口を開いた。
「大店の若旦那。婿養子として入ったが、まだ家業を継がせてもらえず、ご新造さんと親父殿に頭が上がらない、というところか」
「何で分かりまんねん。観相見でっか?」
感心したように言う銅八に、総太郎は舌打ちしたい気持ちになった。
素性を教えてしまえば、相手が有利になるだけだ。
総太郎はあえて、ふてぶてしい笑みを浮かべて見せた。
「そうやったら何やねん」
言い終わるや否や、占卜者はふいに、総太郎に親しげに笑いかけてきた。
「まだ、見切りをつけなくとも良いのではないか? 己自身に」
「己自身に、見切り?」
聞き返した途端、疲れ切ったような義父の背中が脳裏に浮かんだ。
帳簿を手伝っている、険のある、しかし寂しげな妻の横顔も。奉公人たちから同情と好奇の目にさらされているのは、自分ではなく妻の方かも知れない。
黙り込んだ総太郎に、占卜者はやさしく言った。
「貴殿にはまだできることがあるのではないか? 己の見栄や誇りより、もっと大切なものがあるのではないか? 今ならまだ間に合うはずだ」
諄々と説くように話す占卜者に、総太郎はすがるような気持ちで尋ねた。
「まだ、間に合うんか?」
占卜者は頷く。
「人の縁というものを軽んじてはならない。義父殿も、ご新造も、貴殿の帰りを待っておられる」
「…………」
考え込んでいた総太郎は、ふっと照れたように笑った。
「あんさんの言葉を信じて、許しを請うてみるわ。拗ねたり逃げたりせんと、もう一回頑張ってみるわ」
頷きながら占卜者は扇子を広げた。
「お代は十六文でよろしい」
苦笑しながらも総太郎は懐から紙入れを取り出し、銭を数える。
「すっきりしたお礼に、砂場で蕎麦でも一緒に食べていかへんか?」
「気が進まぬことをするときは、明日から、ではなく今日から、が鉄則だ」
扇子に載せられた十六文を袂に入れながら、占卜者もにやりと微笑む。
「せやな」
素直に頷いて、総太郎は銅八を見た。
「そんなわけで悪いけど、帰らしてもらうわ。砂場へは代わりにお前が行っといてくれ」
そう言って、同じく十六文を渡す。
銅八は肩をすくめ、言った。
「そういうことならしょうがおへんな。またのお呼びをお待ちしてますわ」
三人の男たちは橋の袂で別れた。