名作の書き出しは必ず名文
〔 作品1 〕» 2  4 
リバース
ぷーち
投稿時刻 : 2026.05.30 23:11
字数 : 5622
5
投票しない
リバース
ぷーち


(2)上海/横光利一

 満潮になると河は膨れて逆流した。時が、人生が、巻き戻されて流れていく。戻ていく? 右手を右ポケトに、ない、身体を横切て左のポケトに突込んで、スマホを握て、ずるりと取り出す。右のボタンを親指で押す。
――今、どこ?
喉に唾液が溜まて絡む。咳払いをする。今、どこ、どこ、ここ、どこ、どこどこ鳴るのはどこの子の足音、マンシンの騒音、どこにでもある今の事情。下唇を噛んで微笑みを殺す。口の中で舌を動かして復唱する。覚えた? 覚えた。あとでどこかしらに投稿しよう。右下のカメラのアイコンを長押しして離す。画面が一瞬黒くなて、光て、黒い柵と逆流する水が映る。傾けて、両手で構えて、両腕を伸ばして、左手でボタンを押す。まばたきして、流れていく。腕を戻す。写真フルダを開いて確認する。黒い柵と河。
 ラインを開く。一番上の花のアイコンを押して開いて、写真を送る。逆流する河見てる、すごい、頭バグる、も送る。閉じる。スマホが震える。伏目でちら、と見る。
――静止画だと分かりません。
――で、どこ? 至急ホテルに戻りなさい。ご飯食べ行くから。
下唇をもと噛み締める。くすくすを飲みこむ。今日の僕、最高に冴えてる。R-1グランプリ優勝。スマホを右ポケトにしまう。右手もしまたままにする。黒い柵の間から飛び跳ねる水の粒々を眺める。HとOが離れたりくついたりする。Hが水素でOはなんだけ、酸素? 地面に目を落とす。コンバースの薄汚れた右のつま先をブロクの溝にそて流して、二ブロク先で止めて、膝を曲げて、身体を乗けて、ぐと前屈みに背を伸ばして、左足も引てきて右足に揃える。つま先をぱたぱたする。目だけブロクの溝に沿て流して、黒い柵を登て、手すりに止める。灰色がかた透明の水滴の上を小さな赤い蜘蛛が横切る。追いかけて見送る。赤い蜘蛛は潰したら赤いんかな、中身。
 スマホが小刻みに震えて、太ももの肉も一緒に震え出す。もう一度、河を眺める。僕もここに飛び込んだら、ママのお腹の中に戻れるかな。目を閉じる。水に包まれる。鼻と耳が水で埋まる。くるくる回されながら運ばれていく。狭くて湿て絡みつくところを通てほの明るい闇に受け止められる。ごうごう血が流れて、どこどこ鼓動が響く。手探りでお腹のあたりを弄る。人差し指と中指がしわしわの管に触れる。ぐと掴む。少し胸が苦しくなる。膜を蹴て動いてくるくる回て管を首に巻き付ける。膝を曲げて、お腹にくつけて、一気に伸ばして、蹴る。締まる。闇が重たくなる。
 パと開ける。河が逆流していく。ふん、と鼻から息を抜く。スマホを握て黙らせる。右手だけポケトから取り出す。持ち上げて、胸のところで立ち上げて、河に向かて指先をぱらぱら動かす。くるり、と回て、踵と踵を打ち鳴らす。
 前進、前進! つま先がブロクの辺からはみ出さないように前進する。水音が遠ざかていく。

 黄色いカバーをランドセルにかけた男の子が前から歩いてくる。目を細めて、男の子のつむじからつま先まで目で流す。すい、と逸らしてアスフルトにこびりついた黒い何かを見て、ポケトに右手を突込んで、少し前屈みになて、少し速く歩く。右端に黄色がちらちら手を振て消えて河の方へ消える。足音を頭の中で反芻する。とことこ、と呟いて、首を傾げる。とぷとぷ、かな。頷く。
 左のポケトの奥底からワイヤレスイヤホンの薄紫色のケースを取り出して、かこ、と開けて、耳にイヤホンを押し込む。ピアスに手のひらの腹が擦れる。かちかち鳴る。そのまま人差し指を耳の後ろに滑らせて、耳のふちの軟骨ピアスに引かかた髪の毛を慎重に外す。金属の丸みをさと撫でて、横髪に手櫛を通して、頬に沿わせて、ポケトからスマホを取り出して再生ボタンを押す。音が僕に入ていて僕が埋まる。胸の奥の方で歌いながらとぷとぷ歩く。
――数える、数える、あと何個、まだまだ。数えて数えて。
T字で立ち止まる。見上げて、名前を確認する。コンバースの右のつま先を右に向けて、左のつま先も引てきてまた歩く。
 スマホが震える。今向かてるところだよーと小さく応えてまた歌に戻る。風が吹いて前髪を吹き上げる。舌打ちをして押さえる。通り過ぎる。スマホをインカメにして、前髪を直して、しまう。
 カラスが低く滑空してくる。シと避けて、視線が交わて、いなくなる。ふー、と鼻から息を吐く。
 ざり、と靴底が鳴る。目を落とす。赤オレンジ色のでこぼこのタイル。上げる。くねくねした青いリバーサイドヴラホテルの文字。頷いて、歩いて、ガラス戸を押して、入る。

 ぽてぽてと灰色のタイルとコンバースがぶつかて鳴る。スマホを取り出して、ラインを開いて、花のアイコンを押して、通話ボタンを押す。歌が途切れて呼び出し音が流れ出す。ぷつ、と切れて、もし、もしもし、と話し出す。
「ね、ホテル着いたよ、みんなどこ?」
――え、着いたの?
「着いたよ」
――支度して降りるからロビーで待てて。
「うん」
ぷつ、と切れて、また歌が始まる。右、左、右と見渡して、細めて、早足で奥の黒いソフに向かう。ウツボに、そこまでかこよくないか、サワガニになてしと埋まる。腰を滑らせて、もと低く埋まて、頭を背もたれにくつける。ポケトからケースを取り出して、イヤホンをしまて、しまう。
 空調で揺れるレースカーテンを眺めて、ひらひら流れて、乳白色の電球に止める。つるつるとしとりした表面を透明のベロでぺろりと舐めて、くすくす笑う。くて、とソフに頭を埋める。つま先でとんとんタイルを叩く。
「周一」
声を鼻先で追てまばたきする。右手の指先をひらひらする。
「待てたよー
こちらの台詞です、いい加減にしてください、と切られて、緑色のカーガンが近付いてくる。母親の膝がソフに当たて、揺れる。ぱちぱちと見上げる。母親の眉毛と上瞼がくついて、黒目がぎるんと見下ろす。ふ、ふ、と僕は笑て、もぞもぞしべる。
「ボーダーコリーはね、すごく頭がいいんだけどね、一日の運動量もすごくてね、たくさん散歩させないとストレスが溜まて問題行動するようになうんだよね」
「なんのはなしですか」
「僕のはなし」
「は?」
「河が逆流しててすごかたよ、見るべきだたね、あれは」
「ねえ、いつもそうだけど、何も言わずにふらふらいなくならないでもらえますか? 団体行動わかりますか?」
「お父さんとむぎちんは?」
話逸らさないでくれますか、と母親の黒目がもと狭くなて、猫の目になる。みんなでごはんだよね? とききなおす。ため息が返てくる。逸らして乳白色を見つめる。ミルク色、というよりも水で薄また牛乳の色。想像する。せり上がてきて、歯をぎり、と鳴らして、ぞわぞわ肩に広まる。きも。
 スマホを開いて、メモ帳を開いて、今、どこ、どこどこ、と打ち込む。周一はいつもスマホスマホでそんなにスマホ見てるんだから返信してくれればいいのになんで返信してくれないの、が降てきて濡れる。貼りついた髪をひと外す。そーゆーこともある、と言て、見上げて、ちんと見てたよ、いつも見てるよ、神の目、と付け足す。
「周一はさ、人とちんと会話がしたいて思わないの?」
「ごめん、今大事なメモをとてるから」と、ぺことして、どこどこ、と打ち込む。またため息が降る。五月雨を集めて早しナイアガラ。面白い、採用。打ち込んで、投稿する。ついでにスクロールして昨日の僕を確認する。
 おまたせー、と声が高音と低音で響いて、足音も二重、いや、二かける二で四重になて響く。僕から顔を上げて、母親の緑のカーガンの貝ボタンを経由してから、音にたどり着く。妹が手をぶんぶん振る。ぶんぶん振りかえす。待てたよー、遅かたね、と言て頬の内側を噛む。
「いや、おまえがな」と妹が手を振るのをやめて、低い声で言う。歯から頬が逃げる。へへ、と笑う。笑てるよコイツ、と妹が母親に笑う。全部わかてやてるんだよ、わざとわざと、ほんと困るわ、迷惑、と母親も笑う。
 頬を緩めたまま、すと妹の肩の向こうを見る。父親が、視線を辿る、乳白色見てる、戻る、後ろ髪をゆくり、残りわずかな後ろ髪をゆくり撫で付ける。甲羅から鼻先を覗かせる亀を思い出す。首の後ろが冷える。やだやだ、と首を小さく振て、すうと後ろ髪に指を通す。目を軽く閉じて、僕には母方のおじいちんの遺伝子がきますように、祈て、開ける。膝を揺らす。
 よ! と言て、スマホをポケトにしまて、膝を叩いて、立ち上がる。母親と、妹と、父親と目線が合う。僕ら小さすぎだから、マジで。はずかし。前髪を直して流す。
「何食べるんだけ? 寿司?」と言て、首を指で擦る。あくびを噛み潰して、鼻から抜く。僕、一貫ずつ出てくるところで食べてみたい、と左右に揺れる。
「周一がまたなんか寝ぼけたこと言てるよ」と母親の黒目が転がる。父親の亀の顔がぬと突き出てくる。半歩後ろに下がて避ける。亀の口が開く。
「歩いて十分ぐらいのところのビストロに行くよ」
「え、ビストロ?」
「そう」
「せかく海沿いに来たのに、生魚ゴーしないの?」
「お父さんはワインを飲みたいんだて!」と母親が撥ねつける。ほんとよく似てるわ、お父さんと周一、団体行動ができない、と強目に床に吐き捨てる。僕はまだ禿げてないからね、と透明な声で訂正する。予約に遅れるから行こ行こと母親が手のひらを扇にして僕を吹き飛ばす。風に押されて歩き出す。ててて、と足音が響いて妹が横に並ぶ。一緒に風に乗て、ガラス戸を押して出る。

 水分飽和率の高い風が顔に吹き付く。俯いて、あー、と言て前髪を両手で押さえる。お父さんのヅラが飛んでうと妹が呟く。
「お父さんごと飛んでうかもよ」とこそこそする。いいねそれ、メリーポピンズと妹もこそこそする。前髪に指を通しながら振り返る。父親がおでこに皺を寄せて、後頭部を撫で付けている。母親はぼんやりと父親の手の動きを見ている。
 ねえ、と話しかける。母親の黒目が左右に細かく揺れて止まて僕を見る。
「どち行たらいいの?」
「右」
右を見る。灰色の雲が広がてる。母親に戻る。
「わかんないから先行て」
「ボーダーコリーなんじないの?」
「そう、だから飼い主についていくから」
緑のカーガンが亀を拾て、ずいずい進んで、僕の肩と擦れて、通り過ぎて、進んでいく。前歩くの苦手だわ、と妹に話しかけて、緑についていく。わかる、と妹もついてくる。肩を肩にくつける。揺れに合わせて押したり押されたりして歩く。
「ね、僕ね、さき逆流する河見てたんだけどね」
「うん」
「河てどこまで逆流しても、河ていうか水ね、元いた空には戻れないよね」
「そうだね」
「人間て空からきたのか海からきたのかどちだと思う?」
「さあ」
「海だとしたらさ、河逆流してきてるよね」
「どういうこと?」
ふふ、と僕は笑て、そーゆーこと、と妹の肩を押す。
 気をつけて! ゲロ! と妹がピと人差し指を突き出して僕の斜め、3から4歩前を指す。妹をもと押して大きく迂回する。オレンジ色を曖昧に流して、前の緑色に目を戻す。きも、と呟く。
「逆流物だね、あれも」と妹が僕の肩を押す。きもきもきも、私ほんとにゲロ無理、と震える。シピピピと僕の中でシナプス同士が手を取り踊り出す。ゲロ、ゲロ! 跳ねて、手を叩く。でもさ、とシナプスが僕の声帯を震わせて唇をこじ開ける。
「ゲロはさ、不要物ではないよね」
「あ? うんこと違てこと?」
「そう。意図せず飛び出してきちた中身じん? 不要物よりそちの方が無理なの?」
「お兄ちて生きるの大変そうだね」と妹が言て、まあ元気出せよ、と僕の肩を叩く。実にこの世は生きづらいてなんかなかけ、有名な言葉で、と妹に笑いながらきく。知らん、とくすくす返てくる。
「ゲロはさ、一番押し付けがましくない? だから私やだ」
「うんこより?」
「うん。一番勝手だわ」
「むぎちんも生きづらいでし?」
一緒にしないで、と押し退けられる。よよ、と揺れて、踏ん張て、ふふ、と笑てまた歩き出す。

 カチ、カチと鳴る。振り返る。止まて、目を細めて、レーダーを飛ばす。犬のフン踏んだの? と前から妹の声が飛んでくる。んー、と返して、もと遠くを見渡す。横髪が頬を引掻く。引掻き返して直す。電柱を一本ずつなぞりながら遠くに、奥に戻る。
 ゲロの電柱の奥の奥、僕から六本目の電柱の後ろに黄色がちらついて、いなくなる。後ろから肩に重みがかかて、つんのめる。ずずず、とコンバースで止まる。
「どうしたの?」
んー、と鼻を鳴らして、まばたきして、妹に目を戻す。うん、と言て、くるりと振り返て、目を上げて緑を捉えて、前に進む。おい待てコラ、と妹がついてくる。
「知り合いがいたの」と言て、かもかも、いたかも、と付け足す。
「僕、逆流してたの」
「は?」
「むぎちんにもいずれ分かるときがくるよ」
震えて待て、と鼻で笑て、妹の肩を叩く。
「酒飲んでる? 私の前でゲロだけは吐かないでね」
「シラフだよ、ガチマジシラフ」
「飲んでるわこいつ」
コンバースのつま先を見て、ずーと目を上げて、緑を見る。前髪を直す。息を吸て、肺に溜めて、ゆくり吐き出す。耳たぶのピアスの裏側をかりかり引掻く。
「ねー、むぎちん、僕ピアス増やそうかな」
「いいじん。ダイスね」
「ううん、耳じなくて」
「耳じなくて?」
「パンツの中に開けちおうかな」
ちら、と妹を見る。ちら、と目が合う。
「開けれんの?」
「開けれる」
「すげ、いいじん。じあ私はへそに開けるわ」
「いいじん」
イ、と拳を合わせる。足音が重なる。とぷとぷ歩く、歩く。
← 前の作品へ
次の作品へ →
5 投票しない