足音の存在証明
現実とは何か。
夢とは何か。
悲劇とは何か。
あるいは草の海原で眠る羊の
あるいは濃密な空気で泳ぐ魚の
あるいは金貨を貪る虫達の
夢想家は現実の辛さに耐え切れず
リアリストは理想の重さに耐え切れない。
見ているものが違うのだと、あるものは諦め
戦うことに疲れたものは、他者の夢を呪う。
そんな現実の中を、僕は生きている。友人たちは既に諦めてしま
ったこの世界で、僕は生きている。
足音が響く。
こつ
こつ
こつ
こつ
歩くタイミングに合わせて。
こつ
こつ
こつ
こつ
自分の足音とは思えぬほど、明確に、しっかりと、響く。
自分が確かに存在していることを確かめるように、耳に刻んでいく。
ただ、自分の意志で歩いているのだけれども、何だか自分の意志に反して足が動いているような気がする。
立ち止まってみようか。
ふとそう思ったが、そんなことは出来なかった。
怪しげな行動は出来ない。僕は支配されていない数少ない人間でなのだから、気取られてはいけないのだ。
監視されているかもしれないという恐怖は絶えずつきまとっているし、その危険性は常に存在する。
だから、足音が自分のものであることにも本当は自身が持てない。
プロならば、もしくは足音をさせず追跡してくるかもしれない。だから僕は人混みと人気のない路地を交互に通って行く。
絶対に安全というわけではないが、今までこうすることで危険を回避してきたのだ。
「カルタヘナ・デ・インディアス党に清き一票を」
選挙カーが横を通り過ぎていく。
まがい物だ。
本当は選挙なんて存在していないのだ。もちろん選挙というシステムは存在しているし、投票も数え上げられるだろう。けれどもそれは政府やメディアに操られた結果なのだ。政府は既に結果を知っている。その結果に達するように国民たちを仕向けるのだから。要は茶番なのだ。
だが、だれもそれに気づかないふりをしている。
そりゃそうだ。
政府になんて勝てっこない。
歯向かった人間は皆、なかったコトにされる。皆の記憶から消され、記録も残らない。
そう、皆消えていった。
エルナンドも、カミーロも、エドゥアルドだってそうだ。
皆、消えてしまったんだ。
ガブリエルが消えた晩の事は今でも鮮明に思い出すことができる。僕は行きつけの飲み屋で、一人で琥珀酒を煽っていた。時刻は九時。いつもならガブリエルが陽気な歌声でカウンターにつき、ビールを煽りだすのだが。不思議に思って、僕はマスターにガブリエルは今日は来ないのかな、と聞いた。けど、マスターはこう答えたんだ。
「ガブリエルって誰だい?」
その時、僕は全てを悟った。
ガブリエルは消されたんだって。
そうして、幾人もが僕の目の前から姿を消していった。
人を消し、記憶も記録も消すほどの力を持っているのが政府のどこの組織なのか、僕は知らない。
僕は、孤独なのだ。ある意味では孤独だからこそ消されずに生きていられるのだ。
多分、反政府組織のようなものもこの世には存在するのだろうと思う。
入ろうかと思案したこともある。
けれど、思ったのだ。そんな組織の存在を、政府が見逃すはずがないと。
罠なんだ。
おそらく反政府組織は政府が作ったものだろう。僕のように政府に疑問を抱く人間をおびき寄せるための。
そんな罠におびき寄せられるものか。
だから僕は人との接触を避け、どこにも属さず、怪しまれぬように生きていく。
生き残るために。
生きていく。
これからも、ずっと。
この、現実という世界で。
例え、僕だけにしか見えなくなっても。
考え事をしていたから、前から走ってくる子供に気が付かなかった。
ぶつかって初めてその存在に気付いた。
ふと、振り返ると男の子は申し訳なさそうに僕を見上げていたので、大丈夫だよというように笑顔で答えた。
子どもたちは純真だ。
政府の洗脳もこの子たちにまでは及んでいないだろう。
男の子は笑顔を返してきた。
そして手を突き出してきた。何か、白いものが握られている。
「消しゴム!」
そう、大きな声で言った。屈託のない笑顔で、思わずつられて笑ってしまう。
けれど、その笑顔も長くは続かなかった。
僕の右腕は、忽然と消えていたからだ。
ない。
ない。
何度見ても、何度触れてみても、そこには何もない空間だけがある。
はっとして、男の子のほうを見やる。
「なんでも消せるんだよ!」
男の子は自慢げに言った。
僕の顔は恐怖に歪む。
嫌だ。
嫌だ。
こんなところで僕は消えるわけにはいかな