サイダー
傾いた夕陽が街並みの影を長く曳いている。「松の湯」の前の砂利道は人が歩くたびに埃が舞い上がる。「東金製麵所」の屋根に夕陽が隠れてから、立ちこめる埃は見えなくな
った。おかげで縁台の上の将棋盤は見えづらくなったけれど、それは向こうに座っている今野さんにとっても不利になる。今野さんが角頭に金を打ってきた。逃げる。桂が利いていて、あとは角道が通っている。今野さんの金は立ち往生だ。縁台に置いたサイダーの瓶を取り上げる。びっしりと水滴がついていた。王冠を外してひと口飲んで、元に戻す。「木ノ内縫製工場」の終業サイレンが、砂利道に面した長屋越しに響く。
小学校から帰ってくると、魚河岸から帰っていた父が声を掛けた。
「おう、遅かったな。」
浴衣姿で縁側に座り、祖母の漬けた沢庵を肴に冷酒を飲んでいる。ランドセルを畳に抛り、運動靴を脱ぎ捨てる。
「海事研修の準備があったから。」
通っていた小学校では五年生の夏に海辺の町へ行き、カッター漕ぎや地引網をメインとした海事研修が行われていた。近所のタナキやトオヤはこっそりと爆竹を用意している。夜中に屋根の上から投げるつもりなのだ。バレたらただではすまない。紙玉に火をつけて庭に投げて援護する手はずはできている。屋根に登らなかった意気地なし、の汚名を着せられないためにも十枚は用意しなければならない。母に言ってもこづかいの増額は無理だ。かすかに期待を持って、父の顔を窺う。
「あのさ、父ちゃん。」
父の額から汗の玉が落ちる。コップに残った日本酒をひと息で飲み干す。シーシーと音をさせながら立ち上がる。
「よっしゃ、健太。風呂に行くぞ。」
大声で言う。台所にいるはずの母は何も言わなかった。タオルと着替え、それに石鹸が二人分、縁側の隅に並んでいた。
玄関を出て、まだ日の高い道を歩く。近所の家ではまだ父親は帰ってこない。うちの父は朝が早い。三時か四時に起きて出かけてゆく。そのかわり、昼過ぎにはもう帰ってくる。小学校に入るまではそれが当たり前だと思っていた。会社に勤めている父親は夕方に帰ってくる、というのが分かってからは、縁側で酒を飲んでいるか座敷で大の字になっているかの父がなんとなく恥ずかしくなった。それでも、まだ日の高いうちから一緒に銭湯に行けるのは嫌ではなかった。タナキやトオヤと遊んで遅くなったときには三人で行く。女湯を覗こうとして怒鳴られたり、フルーツ牛乳を白牛乳に見せかけて十円ごまかすのは楽しかった。でも、子どもだけで湯船に浸かっていると、どことなく肩身の狭い思いがしてくる。父の大きな身体のそばにいるときには、自分も大きくなったような気がした。
砂利道を銭湯の前まで歩く。こづかいの話をすると、父はふん、と言ったきり黙った。「松の湯」の向かいには駄菓子屋があり、縁台が出ている。ふだんは子どもの遊び場だったが、陽が傾いて来ると大人に譲らなければならない。たいていは金物屋の今野さんが将棋盤と駒を持って来て、将棋大会になる。対戦相手はいろいろだ。わざわざ駒を持参するだけあって、今野さんは強かった。五百円札を賭けての将棋で、見物するひとも出て来る。
「佐野さんよ、やってくかい。」
父の顔を見た今野さんが声を掛ける。もしかすると、と思う。父がぼくの肩に手を載せる。
「もちろんだ。ただし、ちょっとヤボ用があるんで、息子を代打ちさせるぞ。」
言いながら耳元で囁く。「二時間稼げ。そうしたら五百円やる。」
頷く。父は笑顔になり、駄菓子屋に入って三ツ矢サイダーを一本買って、ぼくに渡した。子どもはふつう、ラムネしか飲ませてもらえない。量も多くて高価なサイダーはお客用だった。それを一人で飲んでもいいのだ。冷たい瓶を頬に当てながら、縁台に腰を下ろした。
「じゃ、がんばれな。」
言いながら父は砂利道を真っ直ぐに歩いて行く。今野さんはタオルで汗を拭きながら駒を並べ始めた。
ぼくが物心ついたころから、父は縁台将棋をやっていた。銭湯そっちのけで将棋に熱中する父のそばで、じっと駒の動きを見ていた。王を取られたら負け。飛や角は強力な武器、金はオールラウンダーで銀は曲者。桂や香は意外に使いにくい。見ているうちにだんだんわかって来ると、そのうちに勝敗の流れが見え始めた。あるとき、父が打とうとしたところでつい言ってしまった。
「それだと負ける。」
父は怪訝そうな顔でこちらを見たが、今野さんは険しい顔になった。
「じゃ、どうすりゃいい。」
父の言葉に、僕は言った。「七3銀。」
その日、父は今野さん相手の連敗を脱出した。将棋が終わり、汗まみれの身体で銭湯に駆け込む。上機嫌の父は、初めて三ツ矢サイダーを飲ませてくれた。いつものラムネの倍はある。おかげで晩御飯があまり食べられず、母に叱られた。
それからは縁台に向かう時には必ず、父の隣にはぼくがいるようになった。勝負どころになると父はぼくの顔を窺う。今野さんは顔を顰めて、他人の力を借りねぇと勝てねぇのか、と言った。その時、父は縁台を叩いて怒鳴った。
「これは俺の息子だ。俺の一部に聞いて何が悪い。」
埃っぽい砂利道で長々と続く将棋が、初めて好きになった。
先月くらいからだった。父はぼくに将棋の大部分を任せるようになった。
「真打は最後に登場するもんだ。それまでは前座の仕事。」
そう言って、いつもは風呂上りに買ってくれる三ツ矢サイダーを渡してくれた。
「じゃ、小一時間で帰って来るんで、よろしく。」
父の姿が消えてから、ぼくは苦虫を噛み潰した顔の今野さんと向き合った。周囲の大人たちは囃し立てたが、表情は変わらない。小声でぼそりと言う。
「あのな、ボウヤ、負けたらトウチャンじゃなくてボウヤに払ってもらうからな。」
今野さんは縁台の上に胡坐をかいた。大きめの猿股から中身が覗くのをときどき指で収め直す。飛車口を開けて、隙間の空いた陣形を破って侵攻する。今野さんは駒音が大きい。音が繰り返されるにつれて、表情は引き攣って来た。
父が戻って来た時には今野さんは将棋盤を畳んで帰っていた。父はあたりを見回してタオルと着替えを持ち直す。今野さんにもらった五百円札を目の前に広げてみせる。父は言った。
「早過ぎる。もうちょっとゆっくりやれねぇのか。」
父の身体は銭湯に入る前なのに汗のにおいがしなかった。そのまま向きを変えて「松の湯」に入って行く。折り皺のついた五百円札を持て余したまま、ぼくはしばらく砂利道に立ち尽くしていた。
それからだった。父はぼくに縁台将棋の代打ちを命じるたびに、時間を指定するようになった。たとえ相手がどんなに弱くても「二時間。」と言われれば二時間、引き延ばさなければならない。指定された時間になると父は必ず現れて、最後の数手を打って勝ちを収めた。五百円札は父の懐に消え、ぼくには三ツ矢サイダーが与えられた。
何度も飲むうちに三ツ矢サイダーには飽きてきた。オレンジジュースかコカ・コーラが飲みたい気もした。それでも、急に飲み物を変えてしまうと判断力が鈍って決められた時間を守れなくなってしまうかもしれない。そう思うと、刺激と甘みしか感じられなくなっても三ツ矢サイダーを飲んで盤面に向かうしかない。
戻ってきた父はいつもいい匂いがしていた。母の布団にもぐりこんだ時の匂いに似ていたけれども、どこか違う。トオヤの家には歳の離れた兄貴がいて、奥さんを迎えていた。遊びに行ったときに、間違えて奥さんの部屋に入ったことがある。母の部屋とは違う調度のなかに、何とも言えない甘い匂いがしていた。少し似ている気がした。
父がどこに行くのかは分からなかった。仕事場の魚河岸にしても、ぼくは行ったことがない。ただ、戻ってきて対局を交替して打ち終えたあと、どこか気の抜けたような顔をしているのは気になった。将棋に勝つことは、父にとってそれほど重大なことではなくなっていた。それでも、負ければ五百円を払わなければならない。五百円あれば、中華そばなら十杯は食べられる。父が毎日稼いでくる日銭にはそれほど余裕はないはずだった。ある時、いつものように「松の湯」の暖簾をくぐろうとした父が何かを落とした。拾い上げてみる。今しがた、対局相手から巻き上げた五百円札だった。ポケットに入れて、男湯に入る。父はいつものようにお湯を頭からかぶり、湯船にゆっくりと入っていた。銭湯から上がり、暗くなった砂利道を並んで歩いた。縫製工場の女工さんたちが汗の匂いをさせてすれ違ってゆく。父はうるさそうによけながら、石鹸箱を鳴らしてみせる。五百円札については何も聞かれなかった。電線の隙間に浮かんだ月は、脱衣場の明かりよりも暗かった。
小学校からの帰りが遅い日が続いた。家に帰ると、母が台所で明りもつけずに夕ご飯の支度をしていた。父は銭湯からまだ帰らない、という。タオルと石鹸を持って暮れなずむ砂利道を走った。駄菓子屋の前の縁台には今野さんが、見慣れないおじさんを相手に将棋を指していた。「松の湯」に入る。脱衣場の籠を見る。父の縞柄の猿股はない。浴場に入る。湯気に覆われた中に浮かぶ赤ら顔をひとつひとつ見つめた。父の顔はなかった。身体を洗うのもそこそこに湯船から飛び出し、服を着て外に出る。薪を燃すにおいの彼方に、見慣れた背中があった。父だ。小走りに追いつく。タオルと石鹸箱を抱えて歩いている。声を掛けられず、歩みを緩める。角の電柱の向こうに背中が消える。ぼくはそのまま立ちどまった。振り返る。縁台の人影はもう見えなくなっていた。