蝶合戦
ひらひらと、ひらひらと舞う蝶。
いろとりどりの、いろとりどりの蝶。
花と花、草と草の間を飛び交い、風に揺られ、からみあい、もつれあう。
あるものは空に向か
って、あるものは日に向かって、あるものは花に向かって。
さまざまな色の大量の蝶が思い思いに飛び回り、鮮やかな色を輝かせている。
幾千もの蝶が飛んでいるのではなかろうか。
それはまるで色んな色の紙をちぎった紙ふぶき、あるいは桜以外にも様々な種類の花を集めた花吹雪。
幻想的で、まるで、夢でも見ているかのような光景。
でもそれは紛れもない現実で、そして、いま目の前で繰り広げられているのだ。
「蝶合戦」
昔の人はこの光景を、そう呼んだという。
春一番というわけではないが、それなりに強い風が吹いている。朝晩の寒暖差はだいぶ和らいできたが、少し冷え込むこともあるので着る物を選ぶのに少し困る。花粉症というわけではないのだが、この季節特融の埃っぽさがどうにも苦手でマスクは欠かせない。冬から春に代わる時節に風邪をこじらせたものだから、ずいぶんと長いことマスクをつけているような気もする。たまに飲みに行ったりしてマスクを外してみると同僚に「お前そんな顔だっけ」なんて言われるほどには長い。このマスクのおかげで眼鏡もかけられず、しばらくの間コンタクト続きだ。
マスクを外して眼鏡をかけ始めたら今度こそ同僚に認識されなくなるのではあるまいかなどと思いつつ営業車を降りて事務所へ向かう。事務所と言ってもプレハブで、周りは草だらけの原っぱだ。工事現場の仮説事務所というわけだ。工事現場と言ってもまだ重機などはない。これから原っぱを平らげるところから手を付けていかなくちゃならない。それももう数日で始まることだろう。
「おはようございます!」
景気よく挨拶をしながら事務所の戸を開けると、上長の安原さんと先輩の水野さん、あと事務おばちゃんの片田さんが渋い顔をしてこちらを見てくる。やばい、遅刻したかと思って時計を見るも定時の五分前。遅刻ではないといえ一番下っ端の自分が最後に来ているというのがまずいというのも事実。すいませんのすが口から出かかったところで、ちょうど自分の前に誰かが座っていることに気付いた。
ん?なんでこんなところに座ってるやつが?と思って下を見ると、いささか薄汚れた格好の老人が座っている。
「お爺さん。いい加減にしてくれないかな。いくらあんたが言ったってしょうがないことなんだ。地権者からは許可貰ってるし、俺たちみたいな下請けに言ったって仕方がない。それに今でも反対してるのはあんただけだよ」
苛立った様子の安原さんの言葉を聞いて、噂程度に聞いていた話を思い出す。何やらひとりだけ今回の工事に反対している爺様がいるらしいと。
なるほどこの爺様が噂の……などと思いつつ、いい加減建物の中に入りたかったので爺様の横を通り抜けようとした時、怒号が響き渡った。
「地権者だの誰も反対してないだのは関係ない!あそこを潰すんだったら俺ごと潰せ!!」
あーこりゃだみだね。この爺様には論理とか筋とかそう言うのは通じなさそうだ。かなり厄介なタイプだね。
案の定、みんな困ったといった調子で、渋い顔をしている。たぶん俺も渋い顔をしている。しばらく沈黙が続き、大声にびびって丁度爺様の横に立ったままになっていた俺は好機とばかりに一歩踏み出した。すると、水野さんが今更俺の存在に気付いたかのような顔をする。
「申し訳ありませんが、こちらですと業務にも支障が出ますので、お話ならその者が外で聞きますので。あの、まだ工事開始までには2、3日御座いますので、はい」
その者?
どの者?
この者?
俺!?
「え!?」
「任せたぞ宮部」
「よろしくな宮部」
「頼んだわよ宮部君」
かくして俺は事務所到着も早々に追い出された。厄介そうな爺様と一緒に。
「お話を聞かせていただくことになりました宮部と申します」
と言いつつ名刺は渡さない。爺様はこちらを怪しげな変質者でも見るような目つきで値踏みしている様子だ。それはこっちがやりたいことじゃという感情を抑え付けながら営業スマイルを決めると、営業車まで案内して、助手席のドアを開ける。どこか近くに喫茶店でもないかなぁ、これ経費で落ちるんだろなぁ、なんて思いながらカーナビを操作していると爺様が口を開いた。
「うちで話すぞ」
「はぁ」 は?何言ってんだこいつ。
「はぁ、じゃない」
「はぁ」 いや。行きたくないから。めっちゃアウェーじゃん。
「茶くらいは出すぞ」
「はぁ」 いやいや結構です。
「ほれ案内してやる。こっから出た通りをまず右に曲がれ」
「だから行きたくないって」 はぁ。
「は?」
「は?」
「お前今なん「よろこんでお伺いいたします!!」
爺様の古びた家は以外にも小奇麗に手入れが行き届いていて、不快な印象はあまりなかった。爺様があまり服装に気を使っていないものだからてっきりゴミ屋敷にでも連れて行かれるものと思っていたが、これはこれで拍子抜けだ。庭付きの平屋で生垣も手入れされている。面積は広くないが、安っぽいつくりではないので、それなりの収入があったのか、もしくは子供の収入がそれなりにあるのだろう。
中に入ってもそれなりに掃除されている様子で、人は見かけによらないものだと思うものの、別に爺様がやってるとは考えを改める。爺様がいるってことは婆様もいるのに相場が決まっている。いきなり聞くのも不躾だが、この爺様にそこまで気を使う必要もあるまい。
「ご家族の方は……」
「おらんよ」
「お出かけですか」
「いや、家族はおらんよ。独り身だからな」
「これは失礼いたしました」
「失礼?独り身が恥ずかしいとはおもっとらんわ」
ということはこの家の管理は爺様がしているということになる。ということはこの爺様はなかなかまともかもしれないと考えを改めかける。かけたところで止めた。ちゃぶ台にどんと一升瓶とコップが二つ置かれた。
「えーっと……これはいったい」
「お茶だ」
「はぁ、ずいぶんと珍しそうなお茶で御座いますね。アルコールとか入ってませんよね」
「入っとらん。だが、酔う」
「はははー。なるほどー」
「ま、飲め」
俺の目の前のコップに酒がなみなみと注がれていく。お、おぅ。これはよろしくない。
「あの私業務中ですので……」
「少し飲むくらい大丈夫だろ」
「規則上就業時間内での飲酒は……」
「だから、お茶だといってるだろ」
「いやしかしですね」
「そうか。ならまた事務所に行って座り込むしかないな」
くそ。この爺様最初からこれが狙いだったわけじゃないだろうな。寂しい孤独老人が話し相手を求めてあんな大それた真似をした。全く社会の闇で御座います。全く持って全部社会が悪いので御座います。
俺は悪くない。
帰りたい。
「まずは飲め、話はそれからだ」
ええい。こうなったらば仕方があるまい。覚悟を決めたらあとは早い。かっとつかんだコップをぐっと持ち上げぐいっと飲んでぐいっと飲んでぐいっと飲んでぷはっと息を吐きだんっと空になったコップでちゃぶ台を鳴らす。爺様が楽しいそうに手を叩き笑う。愉快愉快。爺様を酒を飲み始め、愉快愉快。なんだか頭がぐらぐらっとしてきたが、愉快愉快。
おう。爺様がなんだか語り始めやがった。はっはーん。思い出話か。聞いちゃろうじゃないか。なんたっていま俺は愉快愉快。
少年がいた。
虫取り網を高らかに掲げ、風を切るように走る。まるで戦国時代の旗持ちのように誇らしげに、そして真剣に。
見る先には、ひらひらとはばたく一匹の白い蝶。走る速度を上げて網を振る。
しかし蝶はそれを悠々とかわし、何事もなかったかのように飛び去っていく。少年はそれを追いかけ何度も網を振るう。そのたびに蝶はひょいっとそれをかわす。かわしながらも一つの目的地があるかのように一つの方向へ進んでいく。少年もそれにつられるあのように追いかけていく。
草はだんだんと高くなっていき、その密度も濃くなっていく。季節は春。花々が咲き誇り、陽気の下で小鳥たちが囀っている。やっと蝶が一つの花に止まった。少年もスピードを緩め慎重に近づいていく。
抜き足、差し足。
一歩、一歩。
気づかれぬように、感づかれぬように。
そして網を蝶の近くまで持ち上げ、一気に振り下ろす。
すんでのところで蝶は避け、網は花を包み揺らした。
まるでその揺れが伝播したかのように野の花々が一斉に震えだした。かと思えば一斉に花弁が宙に舞い上がった。
少年はあまりの光景に呆然と立ち尽くした。
けれどもよくよく見てみればそれは花ではなかった。
蝶だ。
色とりどり、様々な種類の蝶が一斉に飛び立ったのだ。
まるで空で花が咲き誇っているかのようだった。鮮やかな蝶の羽に彩られた青空は少年が今まで目にしたことのようなものだった。
恐怖すら感じるほどに、日常とはかけ離れた色鮮やかな光景だった。
「何してるの?」
声の聞こえたほうを振り返ってみると蝶が舞う中に着物姿の少女が立っていた。
「見てる」
「何を?」
「ちょうちょ」
虫取りをしているとは言わなかった。言わなくても虫かごと虫取り網を持ったその姿を見られればすぐにわかることだし、それに何故か虫取りをしていることを少女に咎められそうな気がしたのだ。
「ふぅん」
着物は淡い緑色で光沢のある蝶の刺繍がちりばめられている。
「君はどこのこ?」
この近所では見かけない子だった。顔だちも整っていて見とれるほどに可愛い娘だ