デラシネ
湖畔のベンチに座るその男は、実に分かりやすい顔でヒマラヤの峰々を眺めていた。
いや、あるいは七千メー
トル級の山の連なりも、ピラミッド型をしたマチャプチャレの威容も、奴の目には映っていないのかもしれない。
自分がどこにいるのかも分からない。そんな茫然自失としたうつろな表情で粗末なベンチに腰掛け、肩を落としている。
「あんた、倉橋さんだっけ。まあ、ソナム先生はずっと留守にしているが、いずれ帰ってくるんじゃないかな」
倉橋の脇に立つと、俺は声を掛けてみた。背後には雑草が伸び放題になった野原が広がり、その一角にソナムが住んでいる石造りの家がある。カトマンズからバスで8時間、アジアの辺境のさらに片田舎にふさわしい粗末な造りだ。が、そんな貧しい家の主に、俺も倉橋も命を救われている。そして、倉橋が浮かない表情でいるのは、そこに少々厄介な事情が絡んでいるからだ。
「しかし、術には十日かかると聞いています。さっきの侍者の方の話では、これ以上ソナム様の帰りが遅れれば、どちらかが術を受けられなくなるとか。そうなったら、どうなるのでしょうか。きっと、私かあなたのどちらかが……」
そこまで言うと、倉橋は口をつくんだ。俺より十歳は上の四十前半ほどだろうが、恥も外聞もなく涙をためている。迷子になった子供のほうが、まだ気丈というものだ。何故人はこんなにも生きることに執着するのか理解に苦しむ。倉橋の人生には、それだけの価値があるのだろうか。自分が体験していないことを想像するのは、何事につけ困難だ。
湖の南側には洗濯場があり、サリーを着た女たちが談笑していた。彼女たちの多くは村から出ることもなく一生を終えるのにちがいない。この国には、それが自然な流れだと思わせる空気が漂っている。
「まあ、いざとなったら、俺が貧乏くじを引いてやるから安心しなよ。あんたのことは全然知らないけど、奥さんや子供がいてもおかしくなさそうだ。有り難いことに、俺は天涯孤独って奴でね。ソナム先生に助けてもらったのはいいが、やっと眠りに就けたのを邪魔された気分でもあるわけさ」
まるで霊魂を見るように口を半開きにした倉橋に手を振ると、俺はその場を後にした。野原の先には田んぼがあり、あぜ道には椰子の木が生えている。道端を歩けばバナナが茂り、その脇を牛がゆっくりと歩いていく。ネパールは思ったよりも温暖な気候だ。強い日差しにさらされ、鼻の先がじりじりと熱い。こんなのどかな場所で死ぬのも悪くない。俺みたいな人間には、出来すぎというものだ。
ホテルに戻ると、俺はベッドに横たわった。
村に来てから、すでに三週間。半年後にネパールへ来い、と告げたのはソナム自身だが、肝心の本人がそのことを忘れているらしい。
もしかしたら、奴は俺たちを助けるつもりなどなかったのかもしれない、と俺は思う。根拠はないが、ただの気まぐれ。そもそも、奴は何故日本にいたのだろう。倉橋はともかく、少なくとも俺は命の恩人について知らないことが多すぎる。
初夏が訪れたある深夜のことだった。俺は国道を400CCのバイクで疾走していた。行き先は特になく、強いて言えば単なる暇つぶし。俺の日常は、有り余る時間をやり過ごすことで成り立っている。消費はするが、生産はしない。何故なら、その必要がないからだ。
高校を卒業した年に両親が飛行機事故でこの世を去り、俺には使い切れないほどの金が残された。一般的な会社員数十人分の生涯賃金に相当する額が舞い込んできたのだが、いずれは俺のものになる金だったし、その時期が少し早くなっただけの話ではある。親父はロクな人間ではなかったが、金儲けだけは上手かった。遺産争いをする親族がいなかったのも、俺にとっては幸いだったかもしれない。
けれども、10年もすると腹はいっぱいだ。一通り遊びつくし、女を取り替え、ほしいものは躊躇なく買い漁り、そして気がつけば興味があるものがなくなっていた。銀行にはそれでも吐き気がするほどの金が残り、そのことを考えると砂漠に取り残されている気分に見舞われた。俺の人生は、チートありきでクリアしているゲームと変わらない。しかも、今更新しくプレイし直すのも無理がある。俺は大学にも進学しなかったし、身につけたスキルもない。両親の残した金が、登るべき階段をことごとく葬り去ってくれたのだ。
そうして俺は、人々が寝静まった深夜にバイクにまたがり、ガードレールに激突した。些細なミスによる単独事故だ。身体が宙に浮いた瞬間、どういうわけか一種の恍惚感が俺を包んでいた。俺は死ぬことを望んでいたのかもしれない。有り余る金を捨て、この世を去る。今の俺にとって、これほど痛快なことはない。
が、俺は生きていた。胸に陽だまりのような温かさを感じ、ぐらついた意識の中で目を開けてみると、見知らぬ男の手の平が見えた。
男は呪文のようなものを唱えていて、次第に身体が軽くなっていくのを俺は感じ取っていた。ぼろぼろに破れた革のジャケットには血のりもついていたが、身体にはかすり傷ひとつ付いていなかった。路上に転がったヘルメットはシールドが割れ、ほんの少し頭痛がした。上半身を起こすと、男は困ったような顔で長い髪をかいていた。
「やれやれ、たまたま通りかかったものでね。君には延魂の儀を施した。ただ、これは応急処置に過ぎないから、いずれ効果が切れるだろう。もし君が望むなら、半年後に私の家に来なさい。少々遠いが、そのへんは都合をつけてもらうしかないだろう」
片言の日本語と、訛りのきつい英語だった。親父の仕事の都合でイギリスで暮らしていた時、似たようなアクセントの人間と出会ったことがある。彼は確かグルカ兵だった。男の顔立ちも彼とよく似たアジア系だったが、日本人とはどこか雰囲気がちがっていた。
「よく分からないが、俺はあんたに助けてもらったのか?」
路上で横転しているバイクと、溜め息をつく男を交互に見た。余計なことをしてしまったとでも言っているのか、鼻に皺を寄せていた。けれども、それはこちらも同じだ。男が何をしたのかは見当もつかないが、俺にはようやく安寧の時が訪れるところだったのだ。
たすき掛けしたカバンからメモ帳を出すと、男はそこに何かを殴り書きした。加えて、半年後の日付け。今の君の身体はかりそめだから、と男は言った。さらにその意味を説明する。端的に言えば、半年後に新たな術を施さなければ、俺の身体は崩壊するらしい。
「暦の流れからすると、その頃が適切なタイミングだ。ま、君に出会えてちょうどよかったな。私もそろそろ飽和しそうなところだったのでね」
独り言のようにつぶやくと、男は俺を一瞥した。命を救われたにも関わらず、背筋に冷たいものが流れる。というより、俺は本当に助けられたのだろうかと疑問が湧いてくる。男の目が、金の亡者だった親父の冷徹な視線とも重なった。女を捨てる時の俺も、もしかしたら同じ目をしていたのかもしれない。
そして無為な日常へと戻り、俺はこうしてネパールを訪れた。メモ帳に書かれたのは、男の住む場所だった。ところが、実際にネパールへ飛んでみれば本人が不在だという。やはりな、と俺は思った。ソナムは慈悲で俺を手当てしたのではない。侍者だと名乗る若い男の対応も、ひどく事務的なものだった。
「ソナム様は、あなたもご存知のとおり類まれな能力をお持ちです。それ故、一つのところに留まってもいられません。昨日の連絡ではあと5日で戻るそうですから、今しばらくお待ちください。おそらくは、あなたのために精を集めているのでしょう」
侍者の言葉は分かりかねたが、細かいことを訊ねても答えらしい答えは返ってこなかった。その後何度訪れてもソナムが帰ってきた様子はなく、だらだらと湖畔で日々を過ごしているうちに倉橋が現れた。どうやら、倉橋も延魂の儀とやらを施された一人らしい。中肉中背で印象の薄いタイプだったが、まともな人生を歩み、まともな会社に勤めているのだろう。倉橋は折り目のついたチノパンに、ベージュのジャケットという出で立ちだった。しかも、足元は革靴だ。舗装された道のないこの村では、そんなものを履いている人間は一人もいない。
その頃には約束の5日も過ぎていたのだが、侍者は事情を説明するどころか、俺と倉橋を家に招き入れると、こう切り出した。
「わざわざ村までお越しいただいたので、お二人には正確なことをお伝えします。私の知る限り、延魂の儀には十日ほどの時間がかかります。そして、同時に二人に施すことは不可能です。いかにソナム様が特異な方と言えども、次の儀を行うまでには数週間か数カ月を要します。誠に残念ですが、これ以上ソナム様の帰りが遅れるようなら、どちらかの方は本来あるべき道を辿ることになるでしょう」
家の中はひどく窮屈で、乱暴に石を組み合わせた壁には梵語がつづられた札が何枚か貼られていた。ソナムはチベット仏教の僧なのかもしれないし、あるいは信仰とはまったく無縁なのかもしれない。瀕死の人間を蘇生する術をどこで会得したのか、この家を見ても侍者と話しても見当がつかずにいた。それでも、一つだけ確実に言えることがある。ソナムも侍者も、俺たちの生死にはさほど関心がないのにちがいない
「ちょっと待ってください。本来あるべき道とは、どういう意味ですか? まさか、私かこの方、どちらかが死ぬということですか?」
さも当然というように、侍者は倉橋に向かって肯いた。奇妙なことに、俺は驚きもしなかった。よくよく考えれば、村の人々がこの家に近づいている光景を見たことがない。そこには何もないと言わんばかりに、誰もが野原の前を通り過ぎていく。
「言葉の通りです。あなたも何らかの形でソナム様に命を救われたのでしょうが、それはある意味では自然の理に逆らう出来事でもあります。本来あるべき道とは、あなたがソナム様と出会わなかった状況をさします。それだけの話です」
絶句する倉橋をよそに、侍者はバター茶が注がれた茶碗をテーブルに置いた。悪い夢を見ているようだが、現実とはそんなものだ。ただ、ソナムと侍者の正体が見えてこないのが腑に落ちない。
「ところで、このあたりはかつてのチベット難民が住んでいるようだな。近くには、でっかい目玉が描かれた寺院もあるし。あんたらもそうなのか? そのわりに、この部屋には上人様の写真も飾られていないみたいだが」
侍者は苦く笑うと、今度はゆっくりと首を振った。チベット人と信仰はワンセットだ。俺が宿泊しているホテルもチベット人が経営していて、バーの壁一面にはポタラ宮が壮大に描かれている。たとえてみれば、それは日本人にとっての富士山だ。ところがこの部屋にはポタラ宮もなければ、ダライ・ラマもいない。ブッディストか、と訊かれたことも一度もない。彼らはチベット系の姿をしていてるが、原風景は別にある。
よろめきながら椅子から立ち上がると、倉橋は無言のまま部屋から出て行った。ともかく、ソナムがいなければ話にならない。憐れむ素振りさえもない侍者に向かって肩をすくめると、俺は無意識に舌打ちをした。倉橋にとっては、ありがた迷惑な話だろう。持ち上げて落とす。しかも、落ちた先が恐ろしく深くて暗い。
「しかし、世の中は狭いな。俺みたいな人間が、ここにもいるとは。まあ、ソナム先生が戻ってきたら連絡を頼むわ。俺が本来の道とやらを辿るんだったら、それでもいい。折角ネパールまで来たんだし、別の村を旅してみるさ」
それだけ言うと、俺も部屋を出た。話が理解できずにいるのか、侍者は不思議そうに片方の眉をあげていた。どうやら、奴らにも感情があるらしい。少なくとも、どちらかに術を施すのは本当のことなのだろう。
そして、一年後。
俺は山梨にある霊園を訪れていた。
ネパールから帰国したのは、つい一週間ほど前のことだ。
ほうぼうを旅してまわり、することもなくなったので戻ってきたのだが、成田に到着したと同時に一人の男のことを思い出した。言うまでもなく、倉橋だ。
ソナムが戻ってきたのは、あの翌日のことだった。延魂の儀に選ばれたのは倉橋ではなく俺で、すべての決定権はソナムが握っていた。
ソナムの正体が何であるのかは、今も分からない。が、奴のしていることは大体の見当がついた。ソナムは瀕死の人間に残された精を吸収することができるのだ。どうやら日本にいたのも、自殺率の高さに引かれてのことらしい。
ヴァンパイア? 悪魔? あるいは、そのように呼ばれる存在なのかもしれないが、倉橋は彼に見捨てられ、そしてこの世を去った。生き残ったのは、家族と仕事を持たない俺のほうだった。
おそらく、ソナムたちは絶望する倉橋の顔を楽しみたかったのだろう。それ以上の意味はない。俺が生きていることと同様なのにちがいない。
興信所に調べさせ、俺は今こうして倉橋の墓の前に立っている。この石の塊は、倉橋が生きていた証だ。そう思うと、少しうらやましい。
遠くには、南アルプスの山々がそびえている。俺は墓前を後にすると、知り合いが一人もいない街へと戻って行った。