なぜSFなのか
表題に「なぜSFなのか」と掲げた。
つまり、「なぜSFを読むのか、書くのか」と言う意味である。
それをこれから述べるのであるが、SF観と言うのは人それぞれなので、あくまで私個人の偏見であると言う予防線は先に張らせて頂く。その事はどうかご勘弁いただきたい。
さて、この話をするとなると当然、定番の『「SFとは何か」議論』に漸近せざるを得ない。だが、皆様ご存じかどうか、その話題は泥沼なのである。
過去、多くの人々が、SFの定義を挙げ、これはSFではない。あれはSFである、ではこれはSFか、と、喧々諤々し、今も
って尚決着を見る事のない深遠なるテーマだ。底無しと言ってもいい。
余談だが、泥沼と言うのは入ってみるとぬるぬるねちょねちょしていて、人にもよると思うがそれはそれで楽しいものだったりする。泥沼に顔まで埋め息を止めていると、これがまた居心地がよく、体と泥の境界の感覚が融和して行く様である。
耳まで泥に埋まり、音も消え、視界も暗く、自分と言う存在が溶けて行くような感覚が心の奥底から広がってきた時、ある疑問が鎌首をもたげるのである。
「あぁ、俺、前世ムツゴロウだな、間違いない」とか思い始め、挙句「いや、今も、ムツゴロウなんじゃないか。ただ、これまでは人間であると勘違いしてる夢を見てただけだったんじゃないか」とかなって来て、「と言うか、俺が人間の夢を見てるムツゴロウか、ムツゴロウ気分を疑似体験してる人間かに本質的な違いがあるのか」まで行きついて「僕と言う主体が、僕と言う主体を認識すると言うことはつまり」あたりで、はい、顔上げようか。そろそろ息継ぎしよう。
私は人間です。
It's all right.
閑話休題。
何が言いたいかと言うと、私が考えるにSFとはこの泥沼に浸かるのと同義ではないだろうか、と。
つまりはムツゴロウごっこなのである。
なんのこっちゃ。
SFの界隈で有名な文句に「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」と言う物がある。
まぁざっくり言ってしまえば、超すげぇ技術でなんでも出来る、って事になるのだが、その技術で、さぁ何をしようかと。
この文句はクラークの三法則と呼ばれものの内の第三法則で、その第二法則には「可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである」とある。
これを、先に挙げた第三法則と合わせると、「充分に発達した科学技術で、不可能であるとされることまでやってみること」となる。
そうすると何があるのか。シンプルである。不可能と言う壁が見えてくる。
容易に答えを与える事の出来ない問と言い換えてもいい。
つまり、私がムツゴロウなのか、ムツゴロウが私なのか。
人間とロボットの違いは何なのか。そこに「魂」と呼ばれるものはあるのか。人の体を機械に変えて行ってもそれは人間と呼べるのか。
ネットが進化を続け、世界中の人間がネットワークでつながれた時に、自分はどういう存在で居られるのか。
外宇宙に飛び出し、行ける所まで行ったらそこは宇宙の涯てなのか。そこに地球外生命体は居るのか。彼らは知性を持つのか。知性とは何なのか。
そう言った問が剥き出しになってくる。
SFをスペキュレイティブフィクションと解する事もある。
スペキュレイティブ。思弁的。哲学的。
思考実験を行うと言う事だ。
科学技術をフィクションで作り上げ、魔法を実現し、あれが出来て、これも出来て、この問題も解決したら、さてその時、一体何が残るのか。
何が不可能の壁なのか。
つまりそれじゃ現代を生きるの我々にもにも通じる、普遍的で根源的な問題なのではなかろうか。
そう言った事を問い直す土台を整えてくれる舞台装置として、SFは非常に優れた手段だ。
思弁的であるとか、哲学的であるとか、難しく考える事もない。
誰しも、自分が透明人間になれたら。自分が宝くじで一等当たったら。自分が万能の超能力を持っていたら。そんな妄想をする事は難しくないと思う。
あれも出来て、これも出来て。そんな妄想の行きつく先は「満たされた後、なお、自分は何を欲するのだろう」と言う問いであり、それはすなわち「自分とは何か」と言う問と同義である。つまりそれこそがSFだと、私は思う。
「あなたのSFコンテスト」
小伏さんが掲げたこの企画の理念も非常にSF的であると言える。
ここで、小伏さんのお言葉を少しお借りする。
「そこで一度、SFの見えない壁を、とことんまでに壊してしまわないか。そうすることであまりに過多であったために姿を現さなかったSFの限界点が、見つかるのではないか。」
どうだろう。まさに、ムツゴロウごっこではないか。
なんでもやってみる。とことんまで壊してみる。
そうする事で、クラークの言う「不可能であるとされること」、小伏さんの言う「SFの限界点」が見えてくるのである。
SFの「核心」が見えてくるのである。
その営みがまずもって、とてもSF的なのである。
企画自体がSF的であるとはなんと素晴らしいことだろうか。
そんな素晴らしい企画なので、皆さん、SFを読みましょう。書きましょう。
一点、難しい事もあるにはある。色々な条件を取っ払って、核心を突くと言う行為は、言って見れば素っ裸になると言う事だ。
一糸まとわぬ姿で「私はこれを問う」と、自らのありのままの姿をさらけ出すと言う行為だ。
それは少し恥ずかしい行為かもしれない。
だがしかし。これもまた余談ではあるが、実は素っ裸をさらすと言う事は気持ちの良い、たまらなく癖になる行為なのだ。
とりあえず、このコラムで私の中の「SFとは何か」をさらけ出すことで、私は一足先に素っ裸になった(むろん比喩である事は、聡明な読者諸君に御理解いただけているはずだ)。あとは皆様をお待ちするのみだ。
最後にもう一度、小伏さんのお言葉をお借りして、このコラムを締めさせて頂く。
曰く、「暑さにやられてヘンテコなことが起こるのも仕方のないことなのでしょう」と。
このコラムをしたためた日。5月にも関わらずとても暑い一日だった。そんな日には、服の一枚や二枚や全部、脱いでしまうのも仕方のないことなのだ。
参考リンク
「あなたのSFコンテスト-企画概要-」
http://yoursf.tiyogami.com/guide.html