子どもの頃よく通っていた市民プールが取り壊されると姉から聞いて、僕は数日振りに外に出た。
　干上がった用水路には蛙も飛び込まない。セミの声だけが喧しく響いている午後一時、物置から折りたたみ自転車を取り出して走り出す。「どこに行くの」という母の声には、「ちょっとそこまで」と返してやる。大学の夏休みに久々に帰ってきたものの、家族との会話は相変わらず弾まなかった。自分が無口というのもあるけれど、母の遠慮しがちな性格にも、きっと原因はあるのだ。そこまで考えたところで、僕は自戒して雑念を消した。　今はプールに行きたい。ただそれだけを考える。
　市民プールは住宅街から少し外れた公園の敷地内にあった。家からは自転車で１５分くらい。昔は子どもから大人まで集まる憩いの場だったが、子どもが減った今となっては暇をもてあました中高年層の溜まり場と化しているらしい。
「あんた小学生のとき泳ぐの好きだったじゃない。ほら、誰だっけ。伊藤くんとかとよく遊びに行ってたし」
　姉はそう言っていたが、当時の僕に伊藤くんという友達はいなかった。たぶん千葉くんか杉山くんの間違いだろう。千葉くんも杉山くんも、今ではすっかり疎遠になってしまっている。元気にしているだろうかと少し考えて、首を軽く横に振った。今だって大学に友達はいるのだから、寂しがることはない。
　セブンイレブンのある交差点を左に折れる。そしてまっすぐ直進する。車は一台も走っていない。セミの声。廃屋。キリスト教の黒い看板。暇をもてあます大学二回生。
　この街は田舎だった。畑や牧場に囲まれているわけではないけど、そのかわり高層ビルも建っていない。片側一斜線の道路の脇を走り抜ける。昔はこの近くに喫茶店があった。もう少し先にはダイエーとハローマックもあった。どれも今は存在しない。ハローマックのあった建物には、よくわからない名前のイタリア料理店が入っている。この街でやっていけるのかなと、人ごとのように心配している。心配しつつも、たぶん関心はあまりなかった。
　木陰に自転車を止めて、鞄からペットボトルを取り出す。
　あーあ、家に籠もっていればよかったな。
　家には扇風機もあるし、姉が買ってきたガリガリ君も冷凍庫に入っている。
　つまらない街のことなど、わざわざ考え直すこともなかったはずだ。「ここ」には何もない。何もないからこそ僕は、進学を口実に地元を離れたのだから。都会には人がいる。寂れているけれどアーケード街にダイエーも入っている。おもちゃ屋だってたぶんある。興味はもうないけれど、行こうと思えば行ける。テレ東だって映るから、ポケモンも毎週見放題だ。天国のようじゃないか、あの日の自分。
　呼びかけてももちろん、答えは帰ってこない。
　くだらない白昼夢に浸っていたことにふと気が付く。恥ずかしくなって汗をぬぐって、自転車を再び走らせる。
　河川敷を眺めながら橋を渡ると、公園の看板が見えてきた。誰もいないだろうと予想していた。けれど広場では幼稚園児の集団が、先生といっしょにボール遊びをしている。すぐそばの小川では、小学生が水をかけ合いじゃれ合っている。
　僕はゆっくりと自転車を止めた。家を出てから、ちょうど１５分が経過していた。
　砂利の敷かれた遊歩道を僕は歩く。
　千葉くんも杉山くんも、傍にはいない。あの夏の日の僕だけが、今ここを歩いている。
　プールは工事用の柵で覆われていた。ショベルカーが更衣室のあたりをちょうど壊しているところだった。しばらくぼうっと、それを眺めていた。しばらくして「帰ろうよ」と、ふと袖を引っ張られたような気がした。セミの声は今は聞こえない。工事の音にさえぎられている。けれど僕はもう少しだけ、そこにいたかった。感傷に浸るというよりは、冒険心に近いものなのかもしれない。
　ああ、と僕は思い出した。自分は昔、冒険が好きな子どもだったのだ。
　三人で作った秘密基地は、今も残っているだろうか――。

　汗でぐしゃぐしゃになりながら自転車で引き返して、例のイタリアンで昼食を取った。
　疲れた状態で食べるピザ、少ししょっぱかった。
　家に帰ったら母と姉に、話してやろうと思った。
　壁に穴のあいた、市民プールの話とともに。

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