僕の知らない彼女のこと
 アキホと僕は、簡単な言葉で表現すると、「幼なじみ」とか「腐れ縁」とか、そういう単語がぴ
ったりの関係だと思う。小学生の頃から互いの家を行き来したり二人で遊びに行ったりするくらいは仲が良かった。親同士も面識がある。
 そんな僕らは同じ地元の高校に進学した。アキホは生徒会に所属し、僕は僕でパソコン部なる前時代的な名称の部活に入っていて、以前ほど二人で出かけることは減っていたけど。気まぐれにアキホがうちに遊びに来ることは今でもあった。やっぱり、それなりに仲良くしてはいると思う。
 なので。
 普段の僕だったら、アキホを問いただすようなことなんて絶対にしない。絶対にしないけど、今回ばかりは緊急事態で。
「何?」
 僕に呼び出され、いかにも不機嫌な顔をしてアキホはシェイクのストローをすすった。ストロベリーシェイクはもちろん僕の奢りだ。
「私を呼びだそうなんて何サマなわけ?」
「……予定、あった?」
「予定はないけど、そういう気分じゃなかった」
 僕とアキホの関係は、アキホの機嫌一つですべてが決まるということを改めて思い知った。僕を連れ回すときは僕の都合など一切考慮しないくせに、僕が連れ回そうとしようものなら彼女の機嫌一つでそれは左右する。
「あとでチキンナゲットも奢って」
 渋々了解した。
「で、何、話って?」
 ストローをはむはむと噛みつつ、アキホは上目遣いに、じろっと僕を睨んでいる。
「クラスの奴に、聞いたんだけど」
「何を?」
「アキホに彼氏がいるって」
 ――二ノ宮に彼氏がいるって話聞いたんだけど、ホント?
 今日の、昼休みのことだった。クラスメイトの男友だちに、ふいにそんなことを訊かれた僕は言葉を失った。
 ――二ノ宮って、二ノ宮秋穂?
 彼女のことは「アキホ」としか呼ばないので、苗字を言われてもいまだにピンとこないことが多い。
 ――ほかに二ノ宮ってうちの学校にいないと思うんだけど。
 びっくりしすぎて言葉を失っている僕を見て、彼は心の底から同情するような憐みの視線を僕に向け、ぽんぽんと肩を叩いた。
 ――お前に訊いた俺が悪かったわ。
 ――……情報源は?
 ガセネタであることを心の底から願った。
 ――サッカー部の奴が、告白したらそう振られたって。
 二度目の衝撃に体が風化しそうになった。そのときには、アキホに告白するなんてどんな頭のおかしい奴なんだという感想すら浮かばなかった。
 ――お前ら付き合い長いっていうし、知ってる話かと思ってたわ。
 丸い目をきょとっとさせて。アキホはその唇からストローを離した。
「それが何?」
 照れるでも慌てるでもない。ごくごく自然にそんなことを訊き返され、僕は今日何度目かの衝撃に打ちのめされた。
「何、その顔」
 何もクソもない。僕はもともとこういう顔出し、その顔をさらにおかしくしたのは今のアキホだ。
「教えてくれても、よかったじゃん」
 負け惜しみみたいな言い方になってしまって泣きたくなった。
「何を?」
「彼氏がいるならいるで」
「……なんでそんなこと、あんたに言わないといけないわけ?」
 途端にその目が鋭くなって僕はシートから身を引いた。
「あんた、さっきから何なの?」
 アキホの言うとおりだ。さっきから僕は何なんだろう。事実確認してどうするつもりだったんだろう。
 僕はアキホのことが好きだ。それは小学生の頃からずっと変わらない。中学生の頃には、アキホに直接そう伝えたこともある。伝えた結果は、そんなの知ってたし、という言葉と共に鋭い蹴りを喰らって、なぁなぁになったわけだけど。それを伝えた上で、でもアキホの僕に対する態度は以前となんら変わりなく、じゃあまぁこれでいいのかと現状に甘んじた僕がバカだったんだろうか。
 どうしょうもないくらい落ち込んでしまった。こんなに強い敗北感を憶えたのは、これまでの十六年間の人生で数えるほどしかない。何か言った方がいいかもしれないと頭では思うのに、口を開いたら別のものが溢れそうで言葉を選べない。
 と、黙りこんでいた僕に我慢ならなくなったらしい。
 テーブルの下から勢いよくスネを蹴られた。
 うぉ、と声を上げて体を折った。これまでアキホに何度スネを蹴られたかわからないけど、こればっかりは慣れられない。痛い。弁慶泣くって。
「何なの、あんた」
 テーブルに突っ伏すような姿勢で、若干涙目になりつつアキホを見上げる。
「言いたいことがあるなら言いなさいよ」
 そもそも、こんな暴君アキホサマと付き合おうなんていう物好きは、どこの馬の骨なんだ。出て来い。世の中にはもっと優良物件が転がってますよと、小一時間、説教という名のアドバイスしてやるから!
「ほら!」
 また蹴られそうになって体をよじって避けた。
「私に彼氏がいるとかいないとか、あんたに関係あるわけ?」
 大ありだ。
「だって、」
「だって、何?」
 長いまつげの丸い目で見つめ返され、黙りこむ。この視線の強さだけは、昔から変わっていない。変わっていなくて、また泣きそうになる。
「アキホに彼氏がいるだなんて、僕、どうしたらいいんだよ」
 自分でも情けないとしか思えない台詞だった。せめて告白し直すくらいのことすればよかった。
「どうしたらって、何が?」
 一方のアキホの眉間には、ものすごく深いしわが寄っている。
 ……あ、なんかもう、ここにいるの、耐えられないかも。
 呼び出しておいて、アキホには本当に悪いけど、シェイクを奢ったし許してほしい。ナゲットも今度奢ります! 僕は荷物を引っ掴んでそそくさとシートから腰を浮かせた。そのまま逃げだそうと思っていた。したら。
 アキホに足を引っかけられた。
 勢いよく駆けだそうとしていた僕は、ビタンと思いっきり前のめりに倒れた。少し脂っぽい床に、鼻を思いっきり打った。じんじんして熱くなる。
「なんで逃げんのよ」
「ごめん僕もう今日は無理申し訳ございません帰らせてくださいこのお詫びは今生のうちに……」
 無言で紙ナプキンを差し出され、鼻血が出ていることに気がついた。口の中にも変な味が広がっていく。素直に紙ナプキンを受け取り、ぐりっと鼻に押し当てた。
「なんで、彼女を置いて帰るわけ?」
 床に這いつくばったまま、アキホの言葉に固まった。
「……誰が?」
 鼻血は結構な勢いで出ていて、紙ナプキンがみるみるうちに湿っぽくなっていく。鼻の付け根をつまみつつ、見上げたアキホの顔はなぜか赤くなっていた。
「あんた……何?」
「いや、何って、アキホこそ何!?」
 わき腹を蹴り飛ばされ、鼻血で手いっぱいだった僕の体は再びこてんと倒れた。
「私のこと、好きだって言ってたじゃん!」
「……言ったけど」
 いつの話だそれ、と言いたいくらいには昔の話だ。
 転がっている僕の肩を、アキホは今度は踏みつけた。
「あんた、彼氏だったんじゃないの!?」
 まさかの台詞に息を飲んだ。……途端に鼻を通った血が口の中に流れ込んできて、慌てて体を起こして下を向く。
「ごめん、下僕のつもりだった」
 アキホは目まで真っ赤にして、テーブルにあった紙ナプキンをぽいぽいと投げてくる。それを拾って、すっかり血で汚れた手で鼻に押し当てた。
 アキホの中で、僕はいつ格上げされたんだろう。
 疑問は尽きないけど、でも思い返してみれば、それはいつものことであって。
 鼻血のせいか彼女の言葉のせいかわからないけど。少しぽうっとした頭で考えながら、紙ナプキンを引きだし続ける彼女の手を止める方法を僕は思案した。