君が言ったナッツは遠い幽冥の中、ソーラーに消えてった打ち上げ歯並び
私には彼氏がいない。
いた事もない。
すなわち、彼氏いない歴=Excelで出力するところのDATEDIF(生年月日,
今日の日付,Y)=年齢である。
何故彼氏がいないのか。
彼氏と結合した状態が安定的で、彼氏と解離している状態が不安定な状態とみなされる現代社会に生まれてものとして、上記のように自問することもある。
そもそも彼氏というものは何なのか。例えば自然発生的に生成消滅するようなものなのか。つまるところ、彼氏という存在には反彼氏という負の電荷を持つ彼氏が存在していて、彼氏と反彼氏が出会うと対消滅してしまうのものなのだろうかというのが場の彼氏論である。反彼氏というのはすなわち彼女のことであるという奇妙な説を唱える学派も存在するのだが、その奇妙にして巧妙、エキセントリックでありながらも美的整合性を醸し出すその学説はその説明だけで膨大な文章量を必要とするので、ここでは省略する。余白が足りないのだ。フェルマー曰く。
いやはやそもそも彼氏というものは都市伝説のたぐいではあるまいかと考えてみたこともあるのだけれど、都市伝説にしては巷を騒がせているし、友達の友達にはやはり彼氏というものが付随しているという噂も聞かぬでもないから、彼氏という存在があながち都市伝説として片付けられぬ面もある。彼氏は「見つけ」たり、「捕まえ」たり、「作った」りするものらしい。多くの人間はいずれかの方法で彼氏を伴い、使役していると聞く。
ということはやはり彼氏がいないという事は自然な状態ではないということだろうか。
ではここで彼氏というものが実在すると仮定して話を進めてみよう。
何故、実在すると仮定される彼氏が、現時点で存在していないのかという設問に対して、理想が高過ぎるのではないか、と友人が仮説を提示したことがある。世に言う理想の彼氏論争事件である。
友人の説に従えば、私にとっての理想の彼氏が絶対的に到達し得ない完璧さを持ち合わせ、イデア論的な完璧な型として想定される聖的存在であるからして、私が生きる、あるいは生きられる、イデアの影によって出来上がった俗的世界では到達し得ない存在を追い求めており、不可能性に対する疾駆はゼノンの言うアキレスと亀のように永遠に追いつけない競争を強いられている、というような白馬の王子に比喩される高尚な理想を夢見心地に待ち続ける少女の状態に私がなっているというのだ。
しかし私はこの仮説に異を唱える。別に理想の彼氏などというものに完璧さを追い求めたことなどないのだ。そもそも、理想の彼氏という言語によって結ばれる像が私にとってかなり曖昧なのだ。
私にとっての理想の彼氏は、理想の彼氏というよりはもっとぼんやりとした、どちらかと言えばぼんやりとした、ある種幻影のような彼氏なのだ。
Phantom Lover。Phantom Liebhaber。幻影情人。
いくら別の言語で言い換えてみたところで幻は幻である。
どこらへんが幻なのかというと、漠然としていて呆然としていて、確固とした彼氏像というものが存在していないことに帰結する。ああ、こんなふうなのがいいな、と思っていたりもすれば、こんなふうでもいいかもと思ったりする。こっちが好みだけれど、こっちも好みかもしれないとも思ったりする。なんとも流動的で靄靄していてつかみ所無い。理想の彼氏というものを想像してみても、どこかぼんやりとしていて、掴みどころがない。
そこまで言って友人はなるほどという。だがしかし、それは私の「彼氏」という存在に対する欲求度が低いのではあるまいかと言う。それに対して私は、いやそんなことはない。私だって彼氏は欲しいのだ。そこそこ。と付け加えた。ならば、と友人は継いで言う。目標の設定があまりにも曖昧であるからして、目標が目標たり得ていない。いわば霧の中で霧の作った影を追っているようなものだ。スティーブン・R・コヴィー曰く「成功のはしごに足をかける前に、それが目当てのビルに立てかけてあるかどうか確かめろ」である。今はそのビルすら見えず、梯子だけ持ってさまよっている状態だ。それではいけない。理想の彼氏像というのはある程度曖昧でもいいのだけれど、どこか譲れない一部分、例えば性格であるとか容姿であるとか趣味であるとかの、を設定しなければ目標として追うことすらできない、というのだ。
ふむなるほどと私は思ったのだが、どうにもその一部分の設定というのが私には難しかった。困難であった。絶望的であった。これでは彼氏との邂逅は自分の能力的欠損によって絶対的不可能性を帯びてしまっているのではあるまいかと絶望しかけた。
しかし私は考えた。幻の彼氏と出会うことが絶対的不可能性に支配されているのだとすれば、作ってしまえばよいではないかと思い立ち、さればと思って遺伝子工学の学問の道を突き進み、現代の科学では彼氏どころが人間すら作れず、そう遠くは無いが決して近くもない未来においてでなければ実現しないであろうことを知り、マッドサイエンティストになることもできずに学問で身につけた技術を日々の生きる糧としながらも引きこもって乙女ゲームに逃避するのが今の私というわけだ。
乙女ゲームは楽しい。何となく彼氏という存在の疑似体験ができる。だが、そこにはやはり理想の彼氏というものは存在しない。そもそも自分を主人公に投影しているのであって、投影された先の主人公にとっての理想の彼氏でありえても私にとっての理想の彼氏足り得ないのだ。そんな風に底のあいたコップに水を流し込み続けるような擬似的充足体験を楽しんでいるのだが、根本的解決になっていない。いささかの参考になるのかと思ってやっているのだが、一向に自分の理想の彼氏像に何かしらの具体性が帯びる気配がない。
もうアラサーだし恋愛も結婚も諦めましょうと言っていた友人達は婚活とかいう謎のサバトに忙しいらしく、最近では私の幻の彼氏の固定化に関する論争にも付き合ってくれない。
ある友人は猫がいいよ。猫は癒してくれるし、裏切らないから、などと言ってやたらと猫とか言う宗教に勧誘してくる。
ある友人は彼氏が駄目ならば彼女を作ろうという深遠な哲学を展開し始めている。
彼氏を求めるというのはある種の狂気につながっていくのかもしれない。
私も既に狂っているのかもしれない。
ともあれ、人生は長い。
狂っていたとしても、狂っているなりに生きていくしか無い。
たとえ彼氏なんてものは本当は存在しないのだとしても。