若者たち
1
夏の朝、始発の列車に乗り込み私は東京駅を出た。
私は空席を見つけ、旅行鞄を網棚に放り投げた。学生帽を脱ぎ、立襟のボタンをいくらか開けると車窓から入る風で涼む事が出来た。空は藍染めのような青さで、入道雲が絵の具を零したように広が
っている。からりと気分のいい暑さだった。私は懐から半折れになった洋雑誌を取り出して読み始めた。何しろ実家までの道のりは長い。暇をつぶすために出来るだけ読みづらい本を選んだというわけだ。
大学の課題を終えた私は、実家に帰る事にした。毎年夏になれば必ず帰省する習慣であったが、父からいつになったら帰ってくるのかと再三催促の手紙が届いたから、むしろ呼び出されたような気分であった。何の事情があって催促していたのかはわからない。手紙には詳しいことは何も書いていなかったから、直接会って話さなければならない重要な事なのかもしれない。
翻訳に疲れ車窓に目をやると、列車は既に都市部を抜けてしまっていて、田圃の群れが一杯にどこまでも広がっていた。しばらく田舎の原風景とでも言うべき景観が続いたが、一山抜けると、徐々に天候が怪しくなって来た。空は薄灰色に濁り、太陽も姿を消した。私は雨にならなければ良いがと思いながら、雑誌に眼を戻した。
私の父は山や田畑をいくつも持つ資産家だ。ほとんど先祖代々から守って来た土地なので、特に父が何かを成し遂げたわけではないが、名家の主として故郷では名高い。私が東京の大学に通う事ができ、また仕送りだけで自由気ままに生活できたのは父のおかげと言わなければならない。一部の同級生が勉学の合間を縫って労働しなければ立ち行かない中、私は賃金を頂くということをついぞしたことがない。散財するような趣味がなかったというのも一因だろう。私にとり趣味と言うべきものは読書であり、勉強だった。同級生の中には女遊びに湯水のごとく金を使って金欠になっている者がいたが、私はそうした事に興味を抱かなかった。知的好奇心を満たす事だけが私の悦びだったのだ。
2
列車が故郷に近づくにつれ、段々と空の暗さが増していった。外を見ていると、とうとうぽつりぽつりと降り始めてしまった。雨が土砂降りになった頃に列車は実家最寄りの駅に停車した。私はあと少しで読み終わる雑誌を懐に戻し、学生帽を脇に挟んで駅に降り立った。雨は駅の屋根を耳が痛いほど激しく打った。そのくせに気温は高く、じっとりと空気がまとわりつく。遠くが霞むほどの雨を睨みながら、軒下でどうしたものかと旅行鞄をぶらつかせていると、雨の中を小走りに駆けて来る者があった。どうやら実家の女中らしい。大振りなコウモリを畳みながら彼女、石は息を切らしきらし、軒下までやって来た。
「お帰りなさいませ。ひどい雨ですのでお迎えに。さ、帰りましょう」
私は言われるままに着いていこうとしたが、はたと違和感に気がついた。
「あれ、コウモリは一本しか持って来てないのかい」
「あっ」
石は今気がついたとばかりに目を見開いて口に手を当てた。まだ十代の石はこうした間抜けをよくやった。石が奉公に来たのは数年前のこと。私が彼女に世話してもらうのは実家に帰る長期休暇の間だけなのだが、その都度なにかしでかすのだ。しかし何となく愛嬌があって、不思議と怒る気にならない。
「いや、一緒に入れば大丈夫だ。一本で充分。少々狭いが、これだけ雨脚が強ければどうせ濡れてしまうだろうし」
私はコウモリを石から取り上げ、広げた。
「あっ、私が持ちます」
彼女はそれは自分の仕事だと奪い返そうとしたが、私はそれを制した。これは若い女中への気遣いではない。
「石は私の鞄を持ってくれないか。本が入っているから、できるだけ濡れないように気をつけてくれ給え」
「へい」
彼女は私の鞄に気がついて、両手で受け取った。存外重かったらしく、腕で抱くように持ち替えた。
「じゃあいこうか」
「へい」
石は生真面目に頷いた。
駅から実家まではそう遠くない。屋敷は駅の近くにあって車に乗る程の距離は無い。それでも父や母はわざわざ車をだすのであるが、私は帰省する場合、必ず駅から家まで歩く。久々の故郷の空気を吸いながら、徐々に見慣れた風景になじんでいく感覚を味わうのがなんとも心地よい。久々に帰郷しても、依然として生家が鎮座しているのを見ると、なんとも安心するのだ。今日の豪雨ではそれほど気持ちは落ちつかないが・・・。
人気の無い町を石と並んで歩く。石は私の鞄をかばうあまりに、肩が雨の下にさらされてずぶぬれになっていた。私は鞄を持たせた事を後悔した。
「やはり鞄は私が持とう。もっと中へ入りなさい」
「そんならコウモリはわたしが持ちましょう」
「いいやどちらも私が持つから構う事は無い。そら、着物が水浸しじゃないか。見ていられないよ」
私は遠慮がちな石の肩をひっぱって雨に濡れないようにした。身を寄せたために歩きにくくなった。
「か、堪忍してくださいね・・・」
と石は恥ずかしそうに呟いた。雨音にかき消されそうな声量だった。石をちらと見るとうなだれて表情は見えなかったが、耳が赤くなっているのが見えた。
私は石の汗ばんだうなじを不意に意識した。
3
実家に着く間に私と石は結局ずぶ濡れになってしまっていた。鞄の中は無事だったが、懐の洋雑誌は頁と頁がくっついてしまって参った。続きは乾くまで読めそうも無い。
私は文机が残っているだけの六畳の自室に荷物を降ろし、木綿の単衣に着替えた。雨に濡れた着物は石が部屋まで受け取りに来てくれたが、なんとなく目を合わせることができなかった。石も恥ずかしそうにさっさと出て行ってしまった。蒸し暑かったので窓を少し開ける。雨は勢いを失っていて、耳に心地良いくらいの雨音がした。私は雨の匂いを嗅ぎながら、コウモリが一本だけで良かったななどと思った。
広い屋敷だが、普段住んでいるのは両親のみである。兄弟はいない。しかも母は今、体調の悪い祖母の見舞いのために泊まりがけで出かけているらしい。家の中はとても静かだ。
帰宅報告ついでに、今の内に何故父がやいの催促で私を実家に呼び出したのか聞いておこうと思い、私は父の書斎に早速出向いた。
「父さん」
襖を開けながら言う。父は机に向かって何か書き物をしながら、しかし驚いた声音で返事をした。
「おお、帰っていたのか。もうそんな時間か」
「まだ夕飯には早い頃合いですがね」
「うん、そうか、来たか・・・」
そこでやっと父は筆を置いて、私に顔を向けた。口ひげをにこりと持ち上げてみせたが、どうも緊張しているような風だ。
「ちょっと入りなさい。襖も閉めて」
「はい」
私は父の対面に正座した。それを見て取ると、父は扇子で首を扇ぎながら言った。
「大事な話があってな」
そうだろうと思い、私は首肯して先を促した。
「お前の結婚相手が決まった」
「は?」
私は耳を疑った。
「それはいつの話ですか?」
「今年の頭に見合いの話が来ていた。市議の娘さんだが・・・」
「それは断る事が出来る話ですか?」
「いやいや・・・断るかどうかというのはまだ決めることではないだろう。まず見合いをして、それから」
論点はそこではない、と私は机を叩いた。
「そんな勝手な!」
4
それから夕飯が出来上がったことを女中が知らせに来るまでたっぷり一時間ほど、私は父と話し合った。話し合いと言うよりも、実際は口論だった。私はほとんど感情的なことばかり言った。理性的な交渉の糸口を見つける事が出来なかったのだ。というのも、父の言い分は実に真っ当で、正しかったからだ。
父は家の責任ということを言った。この家では何人もの奉公人が暮らしている。管理しなくてはならない財産がある。町の運営にも一枚噛んでいる。それをいきなり、父の代でほっぽりだすわけにはいかない、という。
私はすぐさま石のことを思った。この家を継ぐ者がなければ、彼女を始め女中達は路頭に迷うことになる。それは簡単に想像できることだった。しかし、私にも私の権利というものがある。私は大学で、個人の自由とか権利とかいう言葉を学んだ。それは封建的な田舎には無い、海の向こうから渡って来た新しい概念だった。私は親の金で個人主義を学び身につけたが、皮肉にもそれは親とは相容れない思想なのである。
自由ということについて私はいくらでも論ずることができる。自由主義の歴史を語る事が出来る。しかし、現実問題ではそのような知識は何の役にも立たない。私が「私は自由だ」と東京にとって帰り、好きな人生を過ごせば、そのしわ寄せが故郷に及ぶことになる。それを無視することが人の自由だとは、私には思えなかった。ついに父の言われるままに、その結婚相手に会う事になってしまった。
それから数日後、見合いの日が訪れた。見合いといっても、格式張ったものではなく、両人とも一度会って一寸話してみようじゃないか、という砕けた顔合わせみたいなものだ。
場所は我々の屋敷で、晩餐会という形だった。普段は使わない応接間で、特に良い食器や食材を振る舞う。相手の女性は石と丁度同じくらいの娘だった。
「宝積スミと申します」
彼女は言った。肌の色白い、いかにも温室育ちという外見だが、しかし太く凛々しい眉だけが田舎らしからぬ利発さを放っていた。
「よしなに」
スミは眼を半月のように細めて柔かに言った。年下とは思えない落ちついた声音だった。まるで私の方が年下であるかのようで、この年頃の娘に有りがちな浮ついた所が全くなかったことに私は感心した。見合いなどまっぴらだと、腹を決めていたはずなのに。私は心惹かれるものをスミに見いだしてしまったのである。
晩餐会は概ね、父とスミの父との会話に終始した。父は私に話題を振ってみせるが、私は一言で返答しては、もくもくと上等な食事を掃除していくばかりだ。スミは少し気を遣ったのか、大学はどんなところか、どんなことを学ぶのかなどを聞いたりした。私が簡単に答えると、スミは熱心に耳を傾けてくれた。スミは姿勢正しく、まるで舞のような手さばきで食べた。私はその姿に一寸見蕩れた。スミは私の視線に気がつき、ほんの少し口角を上げてみせた。私はそのつややかな唇にどきりとする。
食後、親達は別室に消え、私とスミだけが広い応接室に取り残された。
私は茶の水面ばかりをじっと見つめ、彼女は掛け軸の方をじっと見つめていた。どこか遠くから父達が談笑する声が聞こえる。私は沈黙を破った。
「掛け軸が気になりますか」
「ええ。・・・字が砕けすぎていて、何と書いてあるのか」
スミは困ったような笑顔を浮かべた。
「あれは電光影裏斬春風と書いてあるんです。禅語なのです」
「へえ・・・」
彼女は興味深げにじっとその文字を見つめる。私は間を保たせるためにその知識を披露した。
「無学祖元の言葉でして・・・」
無味乾燥とも言える退屈な仏教の知識を長々話しつつ、私は自らに疑問を抱き始めた。何故私は、必死に話そうとしているのか、彼女の機嫌をとろうとしているのか。結婚するつもりはないのだと、父がいない間に話しておくべきではないのか・・・。
私が一通り話すと、彼女は茶を飲んでから、大きな瞳で私をみつめて言った。
「お見合いのこと、どう考えていらっしゃいますか?」
「・・・」
再び室内はしんと静まる。ほとんど不意打ちのような質問に、私は口をつぐんだ。今する返答が、どれほどの重みを持つのか、計りかねた。元々、私はこの家を継ぎたくはないし、結婚もしたくはない。さらに欲を言えば洋行し、海外を見て回りたい。そして翻訳家か外務省で働くかして、外国語を常に学びたい、というのが私の夢だ。そのためには、まだ妻を貰うわけにはいかない。理性的な私はそう言った。しかし、本能的な私はそうでなかった。あの凛々しい眉、白い指先、薄い唇が私のものになったら・・・。そう考える自分が確かにいるのだ。家を継いでも、いつか機会を見て洋行できるかもしれない。翻訳なら家でもできる。そうした妥協はいくらでも可能なのだ。じっと沈黙していると、先にスミが口を開いた。
「あの、もしお嫌でしたら、わたくし、父に言って説得致します。きっとこのお話はなかったことにしてみせます。大学まで通われて、大変学ばれた方と存じます。そのような方が、わたくしのような者と結ばれるいわれはありませんもの」
スミは、これまで見せなかった強い感情らしいものを発露した。それは悲痛な声だった。眉は堅く寄せられ、申し訳なさそうな、哀れっぽい表情をしていた。
心臓がほんの一瞬、大きく脈打つのを感じた。理性の天秤が傾き、心が本能に従っ