異変に気づいたのは三回表の攻撃からだった。唐沢さんの初球は例によって右打者の内角へ外れた。七番はぴくりとも動かなかった。これで七人連続だった。どんな打者でも、好きなコースや球種を投げられれば反応する。逆に、完全に外れたときにも舌打ちの一つくらいはする。そして内角球が当たりそうになれば避ける。そういった反応が見事なまでにゼロだった。
唐沢さんに投げ返したときにいちおう声はかけたけれど、あんまり分かっていない。ロージンバッグを手にまぶしてサインを見るふりをしている。露骨に不貞腐れていないぶん、今日はまだマシだった。
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　三年の唐沢さんはうちのエースだ。「月刊高校野球の友」に「一四〇キロの速球で押す本格派」と書かれてから、すっかりその気になっている。本当は何も考えずにムチャ投げして一四〇を出したことがあるだけだった。スライダーに色目を使ったおかげで肘が下がり、ストレートがシュート回転するようになった。本人はツーシームだと思っている。枠内にコントロールできるのはせいぜい一二〇台中盤が限界だった。
　僕は一年の秋から一個上の唐沢さんとバッテリーを組んでいる。僕ははっきり言ってバッティングは苦手だ。わが波木田高校野球部には捕手が三人いたけれど、間違いなく三番目だ。なぜ正捕手になれたのか。ある意味、唐沢さんのおかげだった。唐沢さんは最初、一個上の任海さんと組んでいた。任海さんは四番打者で、監督との打ち合わせ通りのリードをする。唐沢さんはそれに従えず、大喧嘩になった。しばらく試合に出して貰えず、その間、同じ学年の三織さんと組んだ。三織さんは考えたリードをする人だ。唐沢さんの癖や特徴を見抜いて、それに見合った要求をする。間違ってはいないと思う。ただ、頭がいいぶん、唐沢さんの癇に障ってしまった。唐沢さんの根拠のないプライドに配慮しきるには三織さんはクリアすぎた。結果として、三織さんと組んだ時の唐沢さんは滅多打ちを喰らった。とうとう三織さんは唐沢さんを見放して、同期の天良さんを持ち上げるようになった。天良さんは左オーバースローの打たせて取るタイプのピッチャーだ。まっすぐは一二〇そこそこだったけれど、コントロールは唐沢さんとは比べものにならない。キャッチャーからすればリードしがいのあるピッチャーだった。組んでいるのを見ていると、コミュニケーションは取れているし、内外野との連携もいい。ただし、最低でも四点の失点は覚悟しなければならなかった。そんな中で、ほとんどブルペン要員だった僕が唐沢さんの球を受けることになった。中学時代、我儘放題のピッチャーの相手はしょっちゅうさせられていた。最初の一球はミットの先をかすめて外野へ転がっていった。直前に誰かと言い合いをしたらしく、目の色が変わっていた。こういうとき、「落ち着け」とか「切り替えて行こう」とか言うキャッチャーがいる。言われた方は怒ってもいいと思う。落ち着けるものならとっくに落ち着いているからだ。中には「肩の力を抜け」と声をかける奴もいる。言われたら力が抜けると本気で思っているなら、野球よりもまず脳の検査を受けるべきだと思う。転がっていったボールを拾い、両手で捏ねて砂を取りながら、唐沢さんに歩み寄る。ボールを渡しながら「左手に力、入れてみてください」と声をかけた。怪訝そうな顔の唐沢さんに背を向けて捕球位置まで戻る。唐沢さんが振りかぶり、投げ下ろす。ミット越しの中指と人差し指の付け根に衝撃が走った。首を傾げる唐沢さんに投げ返して「ナイスピー」と声をかける。脱力させたいときには正反対の部分に力を入れさせるといい。日本語が理解できているかどうかわからないピッチャー相手に学んだことだった。どうしても定まらない制球を何とかするために、僕の右肘目がけて投げさせたりもした。右打者のインコースぎりぎりに「ツーシーム(笑)」が決まり、ピンチをしのげた。「何か、お前相手に投げるとコントロールよくなるわ」と唐沢さんは言う。「審判の顔面」「左バッターボックス外」「プレート手前地面」等、オリジナルのサインを創出して崩壊した制球を辛うじて維持した。
　唐沢さんがエースになるとともに僕も正捕手になった。監督は僕よりも打撃の良い捕手を使いたくて仕方がないのがみえみえだったけれど、勝ちたい欲求には逆らえないようだった。ある時、妙に嬉しそうに「お前、安川の教育係をやってくれ」と言ってきた。安川は一年の捕手で、ビバンダムくんそっくりの体型だった。粗削りながら長打力はあるが、捕手としてはボールを捕って投げ返すだけの単純労働者だった。「安川を育てるのがお前の役目だ」安川のリードがまともになれば晴れて僕を外すことができる。こんな都合のいい成果主義に付き合うつもりはなかった。僕は二人きりになると、ひたすら安川の打撃を褒めた。単純な男で、ますます振り回すようになり、一死一塁の場面で初球をフルスイングして遊撃正面に内野ゴロを転がすようになった。リードについて話しているときにも露骨に上の空の態度を取るようになり、ほどなく監督からお役御免のお達しがあった。チームの一員としてはあるまじきことだと非難されるかもしれない。それは真夏の炎天下、プロテクターやマスク、レガースのフル装備で、絞るような汗をかきながらブルペンでひたすら球を受け続けたことがない人間のきれいごとだ。渇きに堪えかねてベンチでウォーターサーバのアクエリを飲むのも、レギュラー連中に遠慮してコップ半分しか飲めない。試合のあと、勝ちに沸くレギュラー選手のそばで疲れ切った身体で用具の片付けやベンチ清掃を行う。誰も言わないけれど、度合は同じでもレギュラー選手の疲労は意味あることとして労われるが、控え選手の疲労は「なかったこと」にされる。引退のときには「よくやってくれた。お前がいなければこのチームはなかった」という監督の決まり文句ですべてチャラという扱いになる。打撃が良ければ野手としての出番もあるだろうが、リードしか売り物のない捕手がキャッチャーボックスを手放してしまえば単なる雑用係でしかない。監督が好きに使えて罵倒できる三年間限定の奴隷。それを強いるものがいるなら、僕は全力で戦う。それだけの話だ。
　春季大会は県でベスト八まで行った。最後の敗戦は三織さんがマスクを被り、唐沢―天良のリレーで八点取られた。ブルペンで受けた感じでは唐沢さんの球威はまずまずだったけれど、連投で左腰に痛みが来ていた。もって四回だと思っていたら、監督は六回まで引っ張り、一死までに二四球・三安打で五点を献上した。天良さんは二回からウォーミングアップに入っていたけれど、ガチガチに緊張していた。「右足に集中してください」のアドバイスでコントロールはまとまり出した。ただし唐沢さんとの球威の差は歴然としていた。いままで継投がある程度成功したのは天良さんを先発させ、配球の底が割れた三順目あたりから唐沢さんを投入した場合だけだった。たぶん監督は「エースを信じて託した自分」というのを逃げ道にしたのだろう。案の定、ランナー二・三塁でマウンドに立った天良さんは三球目をセンターオーバーの二塁打にされ、よせばいいのにバックホームした中堅の東さんの球が逸れる間に三塁まで達した。三織さんはスクイズを警戒したけれど、天良さんの球威でわざわざバントしてくれるほどのお人よしではなく、左中間をあっさりと破られた。その後は三織さんご自慢の「頭脳的リード」は言い訳でしかなかった。ブルペンでは一年生の紀伊が準備していたけれど、いつ呼び出されるかびくびくしていた。内野控えの小西が走って来て状態を訊く。「ストライクが取れる状態ではない」と言うと、そのままベンチの監督に伝えていた。辛うじてコールドは免れたものの、監督の八つ当たり気味の罵詈雑言は学校に帰ってから三時間、続いた。
　夏の予選までの練習試合、僕は正捕手としてマスクを被り続けた。三織さんはブルペンで球を受けていたけれど、三織さんが仕上げてマウンドに送ってくる投手は妙に萎縮していた。別に三織さんを責めるつもりはない。僕だって逆の立場なら何とか正捕手を引きずり降ろそうとするだろう。ただ、三織さんとは違うやり方で。マウンドに走って行ってキンタマを握ったり猥談をしたり、緊張をほぐしてはゲームを作り上げていった。
本番が始まった。わが波木田高校はノーシードで、一回戦の朽木農林には天良―三織、二回戦の戸手商業には紀伊―僕のバッテリーで、それぞれコールドで退けた。三回戦の矢代学院からは唐沢さんが先発した。暑さで集中力の切れかける唐沢さんを「マスコミが来ていますね」「あのひと、スカウトじゃないですか」などと囁いてなんとかもたせた。嘘は言っていない。高校の新聞部員が来ていたし、スカートの女子もいた。炎天下だから聞き間違えることだってある。準々決勝の木ノ廻工業の猛打をしのげたのは疲れから内に外れるようになった例のツーシーム(笑)のおかげだった。サインはフォーシームだったけれど。監督の前ではサイン通り投げたことにして恩を売っておいた。準決勝の立山福音高校は小技で揺さぶってきた。県大会では無類の強さを誇るが、甲子園では初戦負け、という典型的な内弁慶だった。公立ということで審判がある程度バイアスをかけて来る。これは、という球をボール判定されたり、明らかにセーフなのにアウトにされたりした。なるべくミットを動かさないようにして最低限の心証をキープしつつ、例の四次元サインを出した。「審判の顔面」というサインを出すと唐沢さんは吹き出し、予定通り低めいっぱいに決まる。「審判のキンタマ」が特に有効だった。こうしないと唐沢さんのチェンジアップは全く落ちない。奇蹟的に勝利して、翌日の決勝戦。前夜、酸素カプセルに入った唐沢さんは、明らかに腕が下がっていた。最速は一三〇も出ていなかったと思う。正直、負けを覚悟していた。ところが、放っておけば四球連発したはずの唐沢さんの球を相手の野居高校は早打ちしてきた。なぜそんなことをしてくるのか。一塁に出たときに相手の一塁手がこう囁いた。「今日はどんな手を使うつもりか知らないが、勝つからよ」どうやら、うちのバッテリーは奇策を使うと思われているらしい。開き直った。四球だろうが何だろうが、警戒してくれる間は利用する。すっぽ抜けた球をピッチドアウトのつもりで平然と投げ返す。ちらちらと向けられる視線を平然と受け流す。ブラフならずっとかまし続けてきた。感情をだだ漏れさせていたら、今ごろはスタンドの旗持ち係だった。五回を過ぎたあたりから、唐沢さんのステップ幅が元に戻ってきた。疲れたなりに投げていると、肩の重さが軽くなることがある。思い切って速球勝負をしてみた。相手よりも唐沢さん自身に効果があった。スピードが出ないのを誰よりも気にしていたのは唐沢さんだ。三者凡退に切って取ってベンチへ走る足取りまで軽くなった。こうなるといつものパターンだった。暴れ馬になったコントロールを宥めすかして九回、思いついて最後の打者を三振に切って取った。試合終了。整列して一礼すると、沸き上がるスタンドに挨拶に行き、あとは覚えていない。
　甲子園出場が決まってから毎日が一変した。あちこちに挨拶に行き、激励会が催され、見たことのないＯＢがやって来ては上から目線でアドバイスをしてくる。練習試合はいくつも組まれたけれど、監督の人脈の無さから県内中堅校ばかりで、むしろ油断が深まるばかりだった。
そんな中、県外のある高校との練習試合が決定した。監督ではなく、有力ＯＢが手を回してくれたらしい。甲子園出場校との練習試合なら相手がこっちに来るのが普通だった。相手にしても、甲子園出場校と練習試合ができるのは嬉しいはずだ。ところが、こちらから行かなければならないそうだ。どんな名門高校かと思ったら、甲子園出場はゼロだという。「月刊高校野球の友」に載っている地方大会全データによると、なんと一回戦負けだった。県大会優勝以来、明らかに増長気味だった僕たちは口々に文句を言った。ところが監督は、ここしばらく煽てられて緩んだ顔を引き締めて言った。
　「おまえら、釘林高校と試合をしてもらえるなんてどえらいことだぞ。あそこは『日本一のスパーリングパートナー』と呼ばれているからな」
　「でも、一勝もしていないんだから弱いんでしょ？」
三塁コーチャーの熊原が言う。優勝以来、最も態度が変わったのはむしろ補欠たちだった。
　「もしかして、バッティングセンター並みにボロカスに打ちまくれるとか」
殴ってもいい台詞だったけれど、出場辞退を恐れてか監督は自重した。代わりにこう言った。
　「とにかく試合してからだ。全力でやれ。何があっても手を抜くな。もっとも、抜かしてくれないだろうがな」
　　　　　　　　　　　　　†
　遠征用バスで高速道路を使って四時間かけて着いた釘林高校は、見たところ海沿いのどこにでもある高校だった。グラウンドは普通の運動場で、強いて言うなら整備は万全だった。釘林高校の主将が挨拶に来た。体格はうちの主将の真野さんとほぼ同じだったけれど、姿勢の良さが際立っていた。
　試合前練習を見たとたん、うちのメンバーは凍りついた。バッティングのパワーが桁外れだった。しかも力任せではなく、正確に球の芯を打ち抜いている。フリーバッティングの終わるころには唐沢さんは無口になっていた。間違いなく、通じない。投手が投げているところを見て、帰りたくなった。唐沢さんが渾身の力でやっと出せる球速以上の球を、力みのないフォームから繰り出している。落ちる球のキレは見たことのないレベルだった。これならノーサインで投げさせておけば完全に抑えられるだろう。捕手はただ捕って投げ返すだけでいい。
もしかすると、県大会で優勝して天狗になったチームの鼻をへし折るための試合だろうか。いや、これではむしろ再起不能になるかもしれない。こちらの練習時間になってからも、内外野の連携はミスが目立ち、フリーバッティングでは空振りさえした。唐沢さんはむきになって速球を続けたあと、諦めたように僕の指示通りに投げ始めた。

こちらが先攻で試合が始まった。先頭の甲吉がおっかなびっくりバッターボックスに入った。唐沢さんとキャッチボールしながら、横目で見ていた。初球、ストレートがインローに決まった。バットは微動だにしない。二球目、アウトローいっぱいにスライダーが決まる。途中でバットが止まり、判定はストライクだった。そして三球目。甲吉の性格上、ここは当てに来る。内角球での三振を予想していた。乾いた打球音が響き、センターがバックした。その向こう、緑のテニス用フェンスの彼方でボールが跳ねた。
ホームランだ。
甲吉は当てるタイプで、長打はない。ダイヤモンドを一周して帰って来た甲吉はにこりともしていなかった。内野安打一本で大はしゃぎして先輩に殴られていた男には見えない。
結局、一回表に四安打で三点を先取した。ネクストバッターズボックスで見る限り、申し分のない球だった。不思議なのはヒットを打った全員が怯えた顔になっていたことだった。
一回裏、釘林高校の攻撃。バッターボックスに立った一番は下半身の鍛え方がハンパではなかった。尻から太腿にかけて、女子のウエストほどはありそうだ。触ったことはなかったけれど。唐沢さんは半ば諦めて投げてきた。内角のツーシーム。ストライクだった。身体がまったくぶれない。二球目。低めに要求したスライダーが真ん中に入った。バットが出る。行かれた。そう思った。バットはボールのぎりぎり下を通過した。空振り。驚いたのは、空振りした後のフォームだった。たいていは乱れてよろけてしまう。ところがきちっと下半身は安定して、しかもバットは振り切れていた。三球目は外角のボール球。反応なく、見逃してボール。四球目は再び内角にツーシーム。身体に巻きつくようにバットが出る。今度こそやられた、と思った。快音を残して打球はセンターに上がった。中堅の大淀は諦めたのか一歩も動かない。と、グラブを差し出す。そのなかに打球はすっぽりと収まった。センターフライ。なぜだ。確実にフェンスオーバーを打てたはずなのに。二番の、一番を上回る巨体が左バッターボックスに入り、考えは中断された。
試合が進むにつれて全身が重くなってきた。こちらは得点を重ね、釘林高校は凡退を続けた。だが、試合をしていればわかる。どう考えてもおかしい。ヒットは出ているが、打った者は全員、顔を引き攣らせていた。
「あれはわざとバットを目がけて投げている」
二塁打を放った越野が言う。
「それも俺のスイング軌道にあわせて、正確に。化け物だ」
皆が頷き、ベンチは静まり返った。いつもの無責任な声を出す気にもなれない。目の前で、毛目がセンター前を打った。打球は申し分なく、そして毛目は顔面蒼白だった。
打撃に関しても、間違いなく彼らは「わざと」打っている。「わざと」空振りしている。だが、普通の怠慢プレーや手抜きプレーならすぐ分かる。身体に緊張感がなくなり、バランスが崩れるからだ。ところが彼らは微動だにしない。完璧なフォームで完璧にスイングし、凡退するのだ。
監督は無言で座っている。唐沢さんは水分補給をして汗を拭くと、すぐにキャッチボールを始める。普段ならなるべく日陰に居ようとするはずなのに。何か分からないけれど、チーム全体がプレッシャーの底に沈みつつあった。
スイングすると、打球がレフト前に弾んだ。出塁するのは久し振りだ。一塁ベース上で、一塁手が軽くベースタッチしてみせる。僕より二回りは大きい。グラウンドの広さが倍でもスタンドまで打ち込めそうだった。
「なんで、こんなことをやっているんですか」
気がついたらそんなことを言っていた。一塁手はバッテリー間へ向けた目をそらさない。
「本気だからだ」
確かにそう言った。
「俺たちは、全身全霊で負けを追求してるんだ」

たぶん、それは嘘ではない。そう考えると、すべてが納得できた。彼らは本気で打たれ、紙一重の位置で本気で空振っている。フライを打つために練習を重ね、計算通りに打ち上げられるようにしている。そばで見れば見るほど、どれだけの練習が必要だったかに圧倒されてくる。それにくらべて、僕たちは半端な練習で半端に勝利を目指して来ただけだった。たぶん、世間的には勝った僕たちの方がもてはやされるだろう。でも、実際に試合をしてみればわかる。一切のごまかしなく命懸けで負けを追求する彼らは美しかった。やればやるほど僕たちは惨めになった。
七回の裏。先頭の三番打者が三球目をフルスイングした。打球はセンターに伸び、ぎりぎりでフェンスを越えた。ホームランだった。彼は黙々とダイヤモンドを一周したあと、ベンチに戻り、そのまま帰って来なかった。守備交替の時に例の一塁手に訊くと、ペナルティで校舎十周している、という。
「最も美しい、フェンスぎりぎりのセンターフライを打つ場面なのに。気の緩みだ」
彼はそう言って、守備に向かった。
　　　　　　　　　　　　　†
「一点の曇りもない、純粋な負け」というものがあるなら、それは彼らが追求し
ていたものだろう。
彼らとの練習試合のあと、僕たちは夏の甲子園に臨んだ。試合中、頭にあったのは彼らのことだった。九回の裏、一点のビハインドでの攻撃。二死一塁で打順が回ってきた。相手エースが投げ込んでくる。勝ちに濁った球だ、と思った。僕自身だって、勝ちに濁った泥沼でマスクを被っている。それでも、一度くらいは、と思う。
二球目が来る。バットを繰り出す。軸のぶれなく振り切った。最も美しい、センターがフェンスぎりぎりでキャッチするセンターフライだ、と思った。センターが走って行く。見送った。
ホームランだ。
呆然としながらダイヤモンドを回る。ベンチは誰一人浮かれていない。整列し、球審が勝ちを宣する。明日の新聞には初戦突破にもおごらないナインの無表情が掲載されるだろう。
「甲子園の周りを十周してきます」
気がつくと、そう叫んでいた。皆、頷いている。唐沢さんが、俺も行く、という。何人かが口々に同じことを言う。
野球をやっていてよかった、と初めて思った。

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