てきすとぽい
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【BNSK】品評会 in てきすとぽい season 12
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…
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6
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オナモミ
(
大沢愛
)
投稿時刻 : 2015.06.06 22:04
最終更新 : 2015.06.06 23:39
字数 : 9889
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2015/06/06 23:39:21
-
2015/06/06 22:04:21
オナモミ
大沢愛
「素直になる
っ
て、いちばん大変かもしれない。
でも、そのあとがも
っ
と大変なんだ」
そう言いながら加奈子は笑
っ
ていた気がする。
夕暮れの教室。
汗をかいたアルミ罐。
傾いてくる陽射しの中で、スター
トラインにすら立てない私は、加奈子の喜ぶ泣きべそを浮かべたまま、顔が厚ぼ
っ
たく麻痺してゆくのを感じていた。
1
志望校に見事に合格する、というのはどういうことなのか。
絶対に落ちると言われていた高校に受か
っ
て、中学校の先生や塾の講師の先生たちから祝福された。本命視されていた子たちには笑顔で接していたのに、私に対してはなんだか含みのある顔にな
っ
た。自分たちの合否予想が裏切られたことに割り切れない思いを感じていたのかもしれない。塾には高校生の部もあ
っ
たけれど、継続受講はしないことにした。ささやかな仕返しのつもりだ
っ
た。
四月になり、滝上高校の制服を身につけて入学式に臨んだ。三月の終わりの入学予定者招集日と、物品購入&制服採寸日、そして制服引渡し日に登校して以来の学校だ
っ
た。校内のあちこちに固ま
っ
ている先輩たちの姿がとても威圧的に見えた。機械的なクラス分けで1年5組23番になり、出席番号順に並ばされてクラス写真を撮影された。教室に入
っ
て入学前課題を提出し、すぐに3教科の課題考査が始ま
っ
た。7限の時間まででようやく解放された。
たぶん、平穏な日々はここまでだ
っ
たと思う。
翌日、1限に昨日の課題考査の答案が返却され、同時に成績通知を配布された。つまり、3教科の先生たちは昨日の考査終了後、今朝までに採点・成績処理をすべて終え、全員分の成績通知をプリントアウトした、ということだ。通
っ
ていた公立中学では考えられないことだ
っ
た。まわりの子たちは特に反応もなく、通知に見入
っ
ている。
私の手の中には、こんなデー
タが示されていた。
国語24点 316位/320人中
数学 9点 318位/320人中
英語12点 319位/320人中
総合45点 318位/320人中
つまり、奇蹟的に合格するということは、スター
ト地点からして最下位だということだ
っ
た。
正直な話、公立中学では勉強なんかしなか
っ
た。授業中でもクラスの中はざわついていたし、廊下を自転車で走り回る子を追いかけて走
っ
てゆく先生を笑いながら見送
っ
ていた。授業中に黙
っ
て席についていればそれだけで「問題のない子」扱いしてもらえた。両親が心配して塾に行かせてくれた。塾の教室は、みんな黙
っ
て座
っ
ていた。ホワイトボー
ドで説明される内容は1時間で中学の授業1週間分の内容だ
っ
た。もちろん、塾が進んでいるのではなく中学の授業が壊滅的だ
っ
たのだろう。塾に通ううちに、騒ぐ子たちと先生との水かけ問答が大半を占める中学の授業を聞く気になれなくな
っ
た。そんなふうにして中学を終え、文字通り「奇蹟的に」県下屈指の進学校である滝上高校に合格したのだ。
中学や塾の先生たちの憐れむような目の意味が分か
っ
たときには、クラス担任から呼び出されていた。担任の野崎先生は四十がらみの男の先生で、古典の担当だ
っ
た。このままでは確実に留年する、一日も早く家での予習・復習のサイクルを確立しなければ差は広がる一方だ、と言われた。ただ、と野崎先生は声を潜めた。
「きみたちは運がいい。この学年の数学担当の先生方は県下一だ。くらいついて行けば必ず何とかしてくれる」
職員室では他の先生方が整然と仕事をしていた。県下一に該当するのはどの先生だろう、と思う間もなく話は終わり、椅子の背の隙間を縫
っ
て出入口から廊下へと出た。
2
「県下一」の数学担当は三人いた。赤坂先生と尾出先生、そして庭野先生だ
っ
た。それぞれの最初の授業を受けた感想は、まず赤坂先生は中背で額の禿げあが
っ
た人だ
っ
た。声が大きく、エネルギ
ッ
シ
ュ
に授業を進める。私は初日から乗り遅れたけれど、休み時間にまわりの子たちに聞いてみると、おおむね好評だ
っ
た。メリハリがついていてポイントを外さないそうだ。次に尾出先生は、三十前後の痩せ型の人だ。端正な顔で、解説は簡潔かつ明快。ただし口調はかなり辛辣で、数学が苦手な生徒にと
っ
ては圧迫感があ
っ
た。陰険な性格は嫌われそうだ
っ
たが、意外にもクラスでの評判は良か
っ
た。レベルが高く、クリアな授業だから、という。そして三人目が庭野先生だ
っ
た。
庭野先生は、髪に寝癖のついた、髭の濃い、五十手前の人だ
っ
た。赤坂先生や尾出先生がいつもスー
ツを着こなしているのに対し、明らかにサイズ違いの上着を羽織
っ
てお腹を突き出している。体型だけで言えばムー
ミンに似ていた。しかも他の二人が標準語で授業するのに対し、庭野先生だけは方言丸出しだ
っ
た。とぼけた口調だ
っ
たけれども、黒板に誰かが解いた数式を見て、加える解説は凄か
っ
た。
「お前、何しとんなら。数学を『忍耐力』で解いてどうする?」
言いたいことは伝わ
っ
た。よりスマー
トな解法を、ということだ。袋小路にはまりながら力ずくで解いて、正解だ
っ
たとしても褒めてはもらえない。
「お前、『数痴』じ
ゃ
のう」
音痴の数学版だ。「馬鹿だな」と言われるよりもソフトで、ユー
モアがあり、しかもやむなくもがくさままで伝わ
っ
てくる。いつの間にか引き込まれて、授業終了のチ
ャ
イムに驚かされる。50分間がこんなに短いと思
っ
たのは初めてだ
っ
た。
「県下一」の数学スタ
ッ
フはもちろん、授業だけではすませてくれなか
っ
た。授業のたびに課題プリントが三枚出される。もちろん提出は必須だ
っ
た。私は帰宅するたびに鞄を放り出してごろごろしていたので、未提出の課題が溜ま
っ
て行
っ
た。二週間で二十枚溜ま
っ
たところで呼び出しにな
っ
た。校舎四階の数学教室に行くと、赤坂先生が待
っ
ていた。
「出すモンは出さに
ゃ
、な」
そう言うと、私が提出していないプリントを渡され、その場でやるように、と命じた。
「できたら職員室まで持
っ
て来い。まさかとは思うが、やらずに逃げたら明日から登校禁止だから」
窓の外から、グラウンドで活動する運動部の喧騒が聞こえてくる。高速道路の橋梁の向こうには海岸線が霞んで見えた。
「もし、できなか
っ
たらどうするんですか」
いまにして思えば、怠け者まる出しの発言だ
っ
た。赤坂先生は表情を変えずに、時々見回りに来るから、そのときに判断する、と言う。
教室には私しかいなか
っ
た。中学以来の条件反射で言葉が出る。
「私だけ、ですか」
頷いた拍子に、頭頂部の薄毛が見えた。むらむらと怒りが湧いてくる。
「なんで私だけこんなことをさせられるんですか」
こう言われると中学の先生ならあたふたと弁明に走る。有効な反撃のつもりだ
っ
た。ところが、赤坂先生はこともなげに言
っ
た。
「1年生320人中、課題未提出は君だけなんだ。なにか質問は?」
人権云々で泥仕合に持ち込む気は消し飛んでしま
っ
た。ドアが閉まる。遠い掛け声とボー
ルの弾む音が部屋の中を満たす。教室には五十脚ほどの机と椅子が並んでいる。グラウンドにも廊下にも近寄りたくなくて、結局真ん中の列の中央に座
っ
た。スクー
ルバ
ッ
グを隣席の椅子に置き、罐ペンケー
スを出してプリントに向かう。
そういえば、この学校に入
っ
てから、授業中は静かだ
っ
た。指名されるとみんなきちんと答える。私が黒板の板書を機械的にノー
トに写していると、みんなは別のタイミングでシ
ャ
ー
ペンを動かしている。先生の話す内容を適宜、ノー
トに取
っ
ているらしい。スピー
ドも速い。なんでそんなことができるのか。その答えは、みんな予習をきちんとや
っ
て授業に臨んでいるから、だ
っ
た。もちろんノー
トを取らない子たちもいた。でも、その子たちは教科書を読みながら憶えていた。つまりノー
トを取る必要がなか
っ
たのだ。課題プリントは10分休みをこまめに使
っ
てその日のうちに完了させる子も多か
っ
た。運動部員で、帰宅後は疲れ果てていて勉強できないから、と昼休みに次の日の予習を片づけている男の子たちもいた。そんななかで、スター
ト地点が最下位だ
っ
た私は予習も復習も課題もやらず授業中も板書を書き写すだけで日々を過ごしていたのだ。遊ぶどころか冬を前にしてダイエ
ッ
トを敢行しているあほなキリギリスと同じだ、と思
っ
た。みんなの乗
っ
た船が川を下
っ
て行くのを、岸に立
っ
たままぼんやりと見送
っ
ていた。中学や塾の先生たちに怒りが湧いてきた。私の性格は分か
っ
ていたはずなのに、どうして止めてくれなか
っ
たのだろう。反対を押し切
っ
て滝上高校を受けたことは棚に上げて、プリントを睨みながらの呻吟が続いた。
ドアが開いて、誰かが入
っ
てきた。赤坂先生を予想して身を固める。近づいて来た足音が止まる。磨り減
っ
たサンダルから紺の靴下が覗いていた。
「何をし
ょ
るんなら。わざわざきつい目に遭いたいんか?」
顔を上げる。庭野先生の髭面がそこにあ
っ
た。
「きつい事は分散させえ。最後にまとめたら地獄じ
ゃ
ろうが」
いつもの声だ
っ
た。授業中なら笑いが起きるのに、放課後た
っ
た一人で居残りをしているときに言われると、なんだか温かくな
っ
た。不意に視界が潤む。ブレザー
の袖で拭
っ
た。小学生みたいだ、と思うと、さらに涙が溢れてきた。バ
ッ
グからポケ
ッ
トテ
ィ
ッ
シ
ュ
を取り出して、鼻をかむ。遠慮せずに音を立てて。
丸めたテ
ィ
ッ
シ
ュ
をテ
ィ
ッ
シ
ュ
ケー
スに押し込んで、ポケ
ッ
トに入れる。机の右端から庭野先生のズボンが立
っ
ているのが見えた。
「ほんまはな
ぁ
、もう一つ手があるんじ
ゃ
。わかるか?」
鼻から喉にかけてひりひりする。
「最初にまとめる、ですか」
頭に手のひらが載る。ぽん、と叩いて離れる。
「わか
っ
とるの
ぅ
。ほんならできるわ」
スリ
ッ
パを引きずる足音が遠ざかり、ドアが閉ま
っ
た。思い出したように喧騒が蘇る。頭には手のひらの感触が残
っ