いばらの女王
泉中高校テニス部は練習が厳しいことで有名だ。練習を始める前に男子は四〇〇メー
トルのグラウンドを一〇周。女子は五周。走り終わった後に、荒い息を吐きながら、顧問の前で円陣を組み、学校中に響くような大声で今日の目標を言わなければならない。その目標も、曖昧なものだったり、弱気なものだったり、心がこもっていなかったり、少しでも声が小さかったりしたら、顧問にボールを投げつけられて、お前今日は練習が終わるまでずっと走ってろと言われる。練習の時も同様だ。少しでも気を抜いたり、声が小さかったりすると足を蹴られ、お前やる気あんのか、とヤクザばりに怒鳴られる。そして胸元に向かって、顧問が手に持っているラケットを投げつけられる。はっきり言って理不尽だ。まるで監獄のような環境だ。それでも県内では一番の強豪校だった。全国大会の常連校でもある。今の顧問になってから、部は確実に強くなっている。だからこういう練習にも耐えなければいけない。
しかし俺はくじけそうにもなっている。顧問にはよく怒鳴られ、ラケットで腹を何度もド突かれる。その度に心臓が縮み上がって、今すぐに逃げ出したい気持ちと、理不尽に対する悔しさが湧き上がってくる。俺はどうしようもない気持ちになる。だからお前は実力があるのに二年生で二番のままなんだ。皆にそう言われているような気がして、言外に顧問に責められているような気がして、俺は少し泣きたくなる。
泉中高校には絶対的なエースがいる。俺と同じ二年の村田昴流。中学の時に軟式のダブルスで全国ベスト8まで進んだ奴だ。どんなに相手が強かろうとサーブが早かろうと戦略的に攻めて来ようと、ベースライン上で粘りに粘って、相手の隙が出来た瞬間に攻撃を仕掛けて前衛に決めさせる。とても粘り強く、どんなに不利な状況でも諦めない、メンタルが異様に強い奴だった。お互いに別の中学校から偶然にも同じ高校に入り、村田も俺も硬式テニスを始め、同じシングルスを任されることになった。でも、やはりと言うべきか、現在じゃあいつがシングルス3に入るレギュラーで、俺はレギュラー候補のベンチに過ぎない。技術は俺の方が上かも知れないが、テニスにおいてメンタルに差があるということは、大きな意味を持つ。競い合っている重要な場面での得点に関わるし、少しの気持ちの差が試合に大きな影響を与えてしまう。俺と村田では、村田の方が選ばれるのは正しい。もちろん、そう理解しているけれど猛烈に悔しいとも感じる。
俺はうだうだと考え込んでしまう性質だった。ミスを引きずりやすいタイプだった。練習だって顧問に怒鳴られてばかりで、毎日のようにラケットを投げつけられる。その度に俺の心はくしゃくしゃになって、惨めな気持ちばかりが増大していく。それをずっと引きずってしまう。俺はだから、村田には勝てないんだ。村田はすぐに切り替えることが出来るのに、俺はいつまでも悪かった点を悩んでしまう。
練習の最後に、校舎へ続いている一〇〇段ほどの階段を全力ダッシュで昇降する『階段ダッシュ』を三〇往復やらされる。これは死ぬほどキツイ。三時間半の練習で足も腰も疲れ果てているのに、一番きついことをやらなければならないのは地獄だ。もちろんここでも手を抜くと、顧問のラケットが飛んできて怒鳴られ、回数を増やされる。一年生なんかは死にそうな顔をして、足をがくがくと震わせながら走る。俺は足には自信があるから、誰よりも早く昇り降りするのだが、顧問は決して一番になっても褒めてくれない。村田が粘りのあるプレイをすれば褒めるのに、俺の良い部分は決して褒めてくれない。まあ、そういうことを期待してしまうから、俺はメンタルが弱いままなのかもしれない。コートの中では誰も褒めてくれないのに。褒めてもらいたがってる時点で、俺は甘いのかもしれない。
練習が終わった後で、今日の反省点と良かった点を順番に大声で叫んでから、コートに礼をして練習は終了。やはりこの部は超体育会系だ。が、メンタルが弱い俺にとってはこういう部活の方が強くなれるかもしれないと思う。その分、毎日半泣きになるほど怒鳴られて走らされるわけだが。
礼をした後で、顧問が大声で「岩野!」と俺を呼んだ。声の感じから、あまり良くない話題だとは分かったが、俺は疲れた足を走らせて顧問の元に向かった。他の部員たちは何事かと俺をちらちら窺っている。なんでしょうか、と言おうと口を開いた瞬間に「お前、まだわかってねーだろ」と凄まれてボールを顔面に投げつけられる。当たった部分が熱を持って、痛みを感じる。俺はいきなり怒られて訳の分からぬままに驚く。心臓がキュッと縮こまるようなあの感覚がやって来る。皆の見ている前で怒鳴られる自分。辱めを受ける自分。顧問は俺の腹をグーで突きながら「今日の練習でな、お前が一番、声が小さかったんだよ、お前、やる気ないんなら部活辞めろ、なあ、変な時にドロップショット打ってたの俺見てたぞ、自分は走らないで、相手ばかりを走らせて、楽して、そういう部分がお前のメンタルの弱さなんだよ、お前さ、明日はずっと走り込みな。しっかりと声出せよ。お前が一番大きな声出せなかったら、明後日も走らすからな」そう言って、顧問は俺の頭を叩いて去っていく。俺は心が折れそうになって、自分の惨めさに涙が出そうになった。
うちの部活は練習が終わった後に制服に着替えて、校舎の前に集まって先生の講評を聴いてから帰るという決まりがある。俺はふらふらと歩きながら、泣きたいのに泣けない気持ちで、制服に着替える。隣にいた村田が「ちょっとあれは酷いね……」と声を掛けてくれるが、俺は短く首を振る事しか出来ない。お前に俺の気持ちなんて判らない。そうやっていじけるくらいしか俺には出来なかった。そんな惨めな気持ちの時に、一番来てほしくない奴が現れてしまった。
「修吾ぉー」
とても甘い声で、奴は可愛らしい女子グループの中から手を振ってくる。華やかな群れの中から一人脱け出し、俺の元に小走りで駆け寄ってくる。そして俺に抱き着いてくる。ストロベリーのような甘い香りがして、俺は少しだけいい気分になって、それからすぐにうんざりした。
彼女は吹奏楽部に所属する、クラスメイトの赤城瀬理花だ。同じ中学校に通っていた同級生で、そこでもクラスが一緒だった。中学でテニス部のエースだった俺と、吹奏楽部で普門館に出場した彼女とは、なんとなくお互いに近くにいるような雰囲気があった。とびっきりの美人でプライドが高い、でも自分に釣り合うような人となら対等に接する彼女は、クラスの中でもよく俺と話をしてくれた。俺たちはいわゆるリア充グループにいて、他にもサッカー部の高崎――こいつは一番声がデカくて、よく他の生徒の席に勝手に座って大声で自慢話を始めるような奴だ――それに派手な化粧で交際が広いヤンキー女の雪野と、女子バレー部のキャプテンで男好きな相沢でグループを組み、俺たちはクラスの頂点に君臨していた。べつに組みたくて組んだわけじゃなく、いわゆる強い奴らが徒党を組んで、他の弱い奴らよりも上位に立つために集まっているに過ぎなかった。俺は赤城や雪野や相沢の事が好きなわけじゃないし、高崎に関しては嫌いでさえあった。高崎はクラスの隅っこでオタク話をしているような奴らの背中を蹴ったり、クラスでは二番目のグループにいる奴らの持ってるCDやお菓子を勝手に奪って謝らなかったり、とても横暴な感じだったから軽蔑していた。そもそも俺が全国大会に行けるような奴だから、高崎たちも付き合ってくれているだけじゃないか。本来ならこいつらと俺は友達になるような関係ではないんじゃないか。俺自身も、そういう奴といることでクラスの上位に立っているんだという気分に浸っていただけなんじゃないか。俺たちは地位を共有するだけのグループでしかなかったのだ。
赤城はよく男子生徒がちらっとでも自分の方を見ると「あっ、キモッ! アイツじろじろ私の方を見てんだけど」なんて自意識過剰なことを言ったり、本人が教室にいる中で「〇〇君ってキモいよね、なんかよく私の脚とか見てんの」と言って雪野が「うわぁー、それキモ、マジ死んでほしい」と合いの手を入れて、高崎が空になったジュ