水に濡らしてはならないよ。
　水濡れ厳禁だ。
　それが老人の忠告だった。
　だから、雨の日はずっと部屋の中にいて、彼女と他愛もない話をしている。
「雨……」
　彼女は外の様子が気になるようで、ずっと窓の外を見つめている。
　陰鬱な雨。
　不吉な徴候とでも見て取っているのだろうか。
「大丈夫だよ。この家の屋根は頑丈だからね」
　彼女はふときょとんとした顔をして、こちらを向く。やがて何事か合点が言った様子で笑顔を僕に向けてくる。
　彼女の笑顔はとても美しい。けれどもどこか儚げだ。
　それも彼女の魅力の一つだ。
　彼女とは長く暮らしてきたが、いまだよくわからないところがある。けれども、そう言ったミステリアスな部分がなければ、僕はマンネリを感じていたかもしれない。
　彼女は再び視線を窓の外に移していた。
　どんよりとした雨雲から、雨は落ち続けている。
　雨だれや屋根から垂れる雫がどこか愉快な音楽を奏でている。
　蛙の合唱も、間もなく始まるだろうか。
　草木を潤す恵みの季節も、僕たちにとってはどこか気分の沈む時期だ。
「雨か……」
　彼女はそう繰り返す。
　僕は黙って彼女の顔に見惚れていた。
　でもそれは暗示だった。
　そう、すべてが終わった。

　買い物から帰ってくると、彼女は外に出ていた。
　傘もささずに、両手を広げ、降り注ぐ雨を全身に受けていた。
　彼女は笑っていた。
　僕は驚愕のあまり荷物を取り落した。
「雨、雨」
　彼女は楽しそうに笑っている。
「君は……何を……」
　僕は顔をひきつらせながら彼女に近づいていく。
「雨ってこんなに素晴らしいのね。水の潤い。恵みの雨。天の涙。ああ、本当に素晴らしい」
　まさか、彼女がこんな馬鹿な真似をするなんて思ってもいなかった。
「君は……わかっているか……」
　思わず怒声を上げそうになるが、喉に何かが引っ掛かって登ってこない。
　彼女は雨の中で踊っていた。
　歓喜の雨の中を舞っていた。
　彼女は本当に楽しそうだった。
　彼女のあんな笑顔を見たのは久しぶりだったかもしれない。
　僕のなかで何かがふつりと切れた。
　気づけば僕は彼女と踊っていた。
　気づけば僕は一人で踊っていた。
　彼女は雨の中で溶けて消えた。

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